3話 分岐点

AM 8:45 朝霧中央線・新宿駅ホーム

痺れを切らした獣たちの咆哮が、コンクリートの空間に反響する。臨時で開かれた車両のドアから、圧縮されていた乗客が一斉にホームへと雪崩れ込んだ。押し合い、罵り合う人々の塊は、一つの巨大な、理性を失った生き物のようだった。その先頭で、高橋健司は行く手を阻む肉の壁を肘でこじ開け、前へ進んだ。分単位で管理された彼の完璧な世界は、このコントロール不能な「偶然」によって、音を立てて崩壊しつつあった。

人波の中心で、怒号のすべてを受け止める防波堤のように、一人の駅員が立っていた。鈴木一郎。使い込まれた制服に身を包み、額に滲む汗を拭うこともせず、彼はただ懸命に頭を下げ続けていた。その手首には、亡き父から譲り受けた古い腕時計が、彼の誠実さを証明するかのように静かに時を刻んでいる。彼は今日も、父と同じように「今日も安全運転で」と心に誓って勤務についていた。しかし、その誇りは今、無数の匿名の悪意によって踏み躙られようとしていた。

その鈴木の姿が、高橋の燃え盛る苛立ちに油を注いだ。彼は鈴木の前に仁王立ちになると、侮蔑を込めて歪んだ指を突きつけた。

「おい、お前だ。お前ら無能のせいで、俺の人生が狂ったらどう責任とるつもりだ!時間っていうのはな、お前らみたいな歯車がぼんやり突っ立って消費していいような、そんな安っぽい概念じゃないんだ!俺がこの日のために積み上げてきた信用、実績、未来、その全てが、お前らのくだらないミス一つで砂上の楼閣みたいに崩れていく!わかるか?この一分一秒の損失が、どれだけの価値を、俺の人生から奪い去っていくのか!謝って済む問題じゃないんだよ!土下座でもして、時間を巻き戻せるのか、あぁ!?」

周囲の空気が凍りつく。いくつかのスマートフォンが、まるで条件反射のように高橋に向けられた。その無遠慮なレンズの光にも、彼は怯まなかった。彼は常に選ばれる側であり、裁く側の人間なのだ。

「やめろ、健司!正気に戻れ!」

背後から腕を掴んだのは、同期の田中誠だった。彼の声には、悲痛な響きが混じっている。

「何と戦ってるんだ、お前は!これは事故なんだ、誰のせいでもない!お前が今、憎悪をぶつけているのは目の前の駅員さんじゃない、お前自身の焦りと肥大しきったプライドだ!その目…昔、出世のために邪魔になった部下を冷酷に切り捨てた時と、全く同じ目をしているぞ!あの過ちを、こんな場所で繰り返すな!」

「黙れ!」

高橋は獣のように田中を振り払った。友情も、常識も、今の彼にとっては障害でしかない。「凡人のお前にはわかるまい」という言葉が喉まで出かかったが、それすらも時間の無駄だと判断した。

その狂乱の舞台から数メートル離れた場所で、佐藤美咲は静かにスマートフォンを構えていた。彼女の表情は能面のように一切の感情を映さず、ただ、レンズが高橋の醜態を正確に切り取っていく。人々の怒声も、田中の悲痛な叫びも、彼女にとっては意味をなさない環境音に過ぎない。兄を死に追いやった男が、自らの選択で破滅の舞台に上がる。その姿を記録しながら、彼女はポケットの中の「赤い糸のお守り」を指で強く、強く、なぞっていた。兄が遺した最後の温もりが、彼女の冷徹な復讐心を支えていた。

高橋は人波をかき分け、タクシー乗り場へと続く階段へ走る。その刹那、誰かが落としたらしい小さな布切れが、彼の革靴の先で転がった。ちりめん生地で作られた、小さな赤いお守り。縁結びか、厄除けか。忌々しげに舌打ちをし、拾い上げて無造作にスーツのポケットにねじ込んだ。こんなガラクタに構っている暇はない。

美咲は、その一連の動作も、決して見逃さなかった。動画の録画を停止し、画面に映る高橋の姿を冷ややかに見つめる。運命の糸は、今、確かに繋がった。彼女の表情は、まだ能面のように変わらなかった。しかし、その瞳の奥には、これから始まる長い悲劇の完了を確信する、仄暗い光が揺らめいていた。

← 横にスクロールして読み進められます

分岐点 - 電車遅延の影響 - 誰でも作家life