第2話 不協和音
AM 8:15 朝霧中央線 車内
人々の体温と溜息、湿った衣類の匂いが混じり合い、淀んだ空気が金属の箱を満たしていた。高橋健司は、吊り革を握る人々の腕の隙間から、ファーストボーナスで手に入れた高級腕時計の文字盤を睨む。分単位で構築された完璧な一日が、この不快な空間で侵食されていく感覚に、腹の底から苛立ちが湧き上がっていた。スマホを取り出し、スケジュールを再確認する指が、無意識にディスプレイ上で焦燥のリズムを刻む。彼のコントロール下にない「偶然」と「運」。それは、彼の最も嫌悪するものであった。
『お客様にお知らせいたします。ただいま、当駅と次の駅の間で人身事故が発生いたしました。このため、当線は全線で運転を見合わせております。運転再開の目途は立っておりません』
突如、車内に響いた無機質なアナウンスが、高橋の思考を断ち切った。それはまるで、彼の完璧な世界に巨大なハンマーが振り下ろされたような衝撃だった。周囲から絶望と怒りの混じったどよめきが波のように広がる。舌打ち、深いため息、誰かを罵る低い声。それら全てのノイズが、彼の鼓膜を不快に震わせた。
「……冗談じゃない」
高橋の口から、押し殺した声が漏れる。眦は吊り上がり、冷静沈着を装っていた仮面の下から、抑えきれない焦燥と怒りが剥き出しになっていた。彼の築き上げてきたキャリア、社運を賭けたクロノス・プロジェクト、そして「絶対的な成功者」であるべき自分の未来。そのすべてが、名も知らぬ誰かの身勝手な死によって、今、危機に瀕している。
「おい、健司。落ち着け」
隣で息を詰めていた同期の田中誠が、心配そうに声を潜める。彼の温厚な瞳には、親友の危うい変化に対する明らかな懸念が浮かんでいた。
「落ち着いていられるか、誠。今日が何の日か分かっているだろう。俺の、いや、俺たちの未来が懸かっているんだぞ。それを、こんな……こんな理不尽なアクシデントで台無しにされてたまるか。なぜ俺が、こんな鉄の箱の中で、無能な大衆と一緒に足止めを食らわなきゃならないんだ」
「だが、事故なんだ。誰かを責めても仕方がない。今は冷静に代替ルートを探すか、会社に連絡を入れるのが先決だ。お前の悪い癖が出てるぞ。昔、部下に裏切られそうになった時と同じ目だ。あの時だって、お前は……」
「黙れ!」
高橋は田中の言葉を鋭く遮った。
「あの時とは違う。あれは俺が甘かっただけだ。結果が全てだと言ったはずだ、誠。お前のような凡人には、この焦燥感の百分の一もわかるまい。リスクを計算し、万全の準備を整え、勝利を確信した瞬間に、こんなくだらない『運』で足を掬われる屈辱がな!」
田中の手の中では、父から譲り受けた万年筆が冷たい汗で湿っていた。高橋と新人時代に交換した名刺が収められた手帳が、ポケットの中で虚しく重い。親友の才能を誰よりも信じてきた。だが、その才能が傲慢という名の毒に侵され、破滅へと向かっている。それを止められない自分の無力さが、田中の胸を締め付けた。
そして、その二人から数メートル離れた場所。人波に紛れるように立つ佐藤美咲は、その一部始終を、能面のように感情のない瞳で冷静に観察していた。
彼女の耳には、車内の喧騒も、高橋の怒声も、まるで遠い世界の音のようにしか届いていない。彼女の意識は、ただ一点、獲物を見据える捕食者のように、焦燥に駆られる高橋健司の姿に集中していた。
(見て、お兄ちゃん。あの男が焦っている。完璧な計画が狂って、苛立っているわ。あなたが『会社にとってただのコストだ』とあの男に切り捨てられ、未来を奪われた時、彼はこんな風に焦ったりしなかった。あなたの痛みなんて、想像すらしなかった)
美咲はコートのポケットに手を入れると、指先で硬く、小さな感触を確かめた。兄が亡くなる少し前、「お守りだ」と言って渡してくれた、赤い糸で作られた小さな結び目。それは兄の優しさの記憶であり、同時に、高橋への消えない憎悪を育むための楔だった。
指が、強く、強く、そのお守りをなぞる。
(あなたが味わった絶望を、今度はあの男が味わう番。これは復讐なんかじゃない。ただの、公平な因果応報。この赤い糸が、あの男を破滅へと繋ぐ不吉な運命の鎖になるのよ)
高橋の完璧な世界に刻まれた小さな亀裂。それは、佐藤美咲が何年もかけて周到に準備してきた、巨大な陥穽への入り口に過ぎなかった。
電車は、依然として動かない。三人の運命を乗せた鉄の箱は、まるで巨大な棺のように、都市の静脈の真ん中で沈黙していた。
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