1話 完璧な男(パーフェクト・マン)

月曜日の朝。まだ夜の気配を色濃く残す東京の空が、地平線の彼方から白み始めていた。地上数百メートルの静寂の中、高橋健司はアラームが鳴る一分前に目を覚ます。彼の体内時計は、スイス製の高級機械式時計よりも正確だった。

ベッドから滑り降りると、足元のセンサーが反応し、床から天井まである巨大な窓のブラインドが音もなく開いていく。眼下には、光の粒子が蠢く巨大な生き物のような都市が横たわっていた。眠らない街。だが、この部屋の主は、この街の頂点に立ち、すべてを支配している。高橋はガラスに映る自分の裸身を見つめ、満足げに口角を上げた。

寸分の狂いもなく豆を挽き、計算され尽くした温度で湯を注ぐ。立ち上る芳香は、彼の完璧な一日の始まりを告げる儀式だ。タブレットで世界の経済指標と市場の動向をチェックしながら、彼はコーヒーを口に運ぶ。彼の関心は、常に数字と結果にしか向かない。SNSを開き、自身の名前でエゴサーチをかけるのも習慣だった。そこに並ぶのは「天才」「若きカリスマ」といった賞賛の言葉。彼はそれらを、当然の対価として無感情に受け流す。

身支度は、芸術作品を仕上げる工程に似ていた。クローゼットには、同じデザインで色違いのイタリア製スーツが寸分の隙間もなく並んでいる。今日という戦場に最も相応しい一着を選び、シルクのネクタイを締めると、彼は書斎の奥にある金庫を開けた。

鈍い光を放つ、クロノグラフの腕時計。ファーストボーナスで、震える手で買った成功の象徴。これを腕にはめる瞬間、高橋の脳裏に、事業に失敗し、借金取りに土下座する父親の惨めな背中が蘇る。親戚から「負け犬の息子」と蔑まれたあの日の屈辱が、彼の全身を駆け巡るアドレナリンへと昇華される。

「俺はあんたとは違う。俺は奪われる側じゃない、奪う側だ。俺は勝つ。常に、絶対的に」

誰に聞かせるでもない呟きは、過去の亡霊を振り払う呪文だった。感情や情に流されることは、彼にとって敗北と同義だった。

デスクの上には、彼のキャリアのすべてを賭けた「クロノス・プロジェクト」の分厚い企画書ファイルが、まるで祭壇の聖典のように鎮座している。今日、この最終プレゼンを成功させれば、最年少役員の椅子は確実なものとなる。彼はスケジュール帳を開き、分単位で緻密に組まれた計画に満足げに頷いた。移動時間、質疑応答、そして勝利の祝杯の時間まで、すべてが彼のコントロール下にある。

玄関の姿見に映る男は、非の打ちどころのない「成功者」だった。冷徹なまでの知性を宿す瞳、自信に満ちた佇まい、そして手首で静かに時を刻む腕時計。彼は完璧な鎧を纏った支配者だ。

「さあ、始めようか」

エレベーターが静かに下降していく。ガラス張りの箱の中から、ミニチュアのような街並みが迫ってくるのを眺めながら、高橋は支配者の笑みを深めた。彼の前には輝かしい未来だけが約束されている。この完璧な計画を乱すものなど、この世界のどこにも存在しない。彼はそう、確信していた。

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完璧な男(パーフェクト・マン) - 電車遅延の影響 - 誰でも作家life