第13話 最後の断絶
冷たいアスファルトを叩く雨音が、高橋健司の世界から他の全ての音を洗い流していく。かつて彼が支配者として見下ろした街のネオンは、濡れた地面に滲んで、意味をなさない光の染みとなっていた。タワーマンションは差し押さえられ、成功の証だった高級腕時計は質屋のショーケースの中だ。全てを失った彼に残されたのは、ポケットの中の数枚の硬貨と、ずぶ濡れになった安物のスーツだけだった。
街灯の下、ぽつんと佇む公衆電話ボックスが、まるで最後の墓標のように彼の目に映る。震える手で受話器を取り、湿った硬貨を投入する。指が覚えている、ただ一つの番号。最後の望み。唯一の親友、田中誠。
コール音が数回響いた後、聞き慣れた声が鼓膜を揺らした。
「……もしもし」
「誠か……俺だ、高橋だ」
喉から絞り出した声は、雨音にかき消されそうなほど弱々しかった。助けてくれ。その一言が、鉛のように重く喉に詰まる。
受話器の向こうで、田中が息を呑む気配がした。しばしの沈黙の後、彼の口から放たれた声は、氷のように冷徹だった。
「……何の用だ」
「何の用だ、じゃないだろう!誠、頼む、助けてくれ!全部、全部なくなったんだ!会社も、婚約者も……何もかも!これは何かの間違いなんだ、俺は嵌められたんだ!」
必死の懇願に、しかし田中の声は揺るがない。その静けさが、かえって高橋の心を不気味な手で締め付けた。
「自業自得だ、健司。俺は何度も、何度も忠告したはずだ。お前のやり方は危険すぎると。いつか足元を掬われるぞと。お前は俺を『凡人』と笑ったが、その凡人にすら見えていた当然の結末だ」
その頃、田中は自室のデスクで、古い手帳を開いていた。指先が触れているのは、新人時代に高橋と交換した一枚の名刺。インクが少し掠れた「高橋健司」の名を、彼は静かに見つめていた。
「違う!俺は正しかった!結果を出してきたじゃないか!クロノス・プロジェクトだって……!」
「結果だと?その結果のために、お前は何を踏みつけてきた?覚えているか、健司。数年前の、あの不祥事のことを。俺たちがまだ若かった頃だ。上層部のミスを押し付けられそうになった時、お前は真っ先に自分の保身に走り、俺たちを裏切ろうとした。俺はそれでもお前を信じようとした。お前の才能を惜しんだ。お前がいつか過ちに気づくと、愚かにも信じていたんだ。だが、もう限界だ」
田中の言葉は、鋭利な刃物となって高橋のプライドを切り裂いていく。
「お前が踏みつけてきた人々の痛みを、今お前が味わっているだけだ。それだけのことだよ」
ガチャン、という無慈悲な音と共に、最後の絆は断ち切られた。受話器から響く、虚しい断続音。高橋は、受話器を握りしめたまま、その場に立ち尽くす。
完全な孤独。
雨に打たれる街。行き交う人々。そのすべてが、彼とは無関係の世界の出来事に見えた。
その時だ。絶望の底で、彼の脳裏に初めて冷たい光が灯った。「なぜ?」という疑念。
これは単なる偶然の炎上ではない。不運が重なっただけでもない。あまりにも完璧すぎるドミノ倒し。そこには、明確な殺意と、緻密に計算された計画の匂いがした。
「……誰だ」
高橋の唇から、低い声が漏れた。
「誰が俺を、ここまで……」
絶望は、ゆっくりと黒い怒りへと変質していく。自分を破滅させた見えざる敵への、殺意にも似た執念へと。雨に濡れた彼の瞳が、公衆電話ボックスのガラスに映る。そこにいたのは、もはや悲劇の主人公ではない。復讐の獲物を探す、飢えた獣の目だった。
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