12話 剥がれる仮面

静寂が、高橋健司を苛んでいた。 かつては支配者の視座の象徴だったタワーマンションのガラス窓は、今や外界と彼を隔絶する巨大な水槽の壁のようだ。眼下に広がる東京の夜景は、もはや彼が手にした戦利品ではなく、無数の冷たい目が彼を嘲笑う巨大な生き物のように蠢いていた。

「#朝霧中央線の王様」――その呪いのようなハッシュタグが、彼の人生を焼き尽くしてから数日が経っていた。鳴り止まなかったスマホは、今や誰からの着信も告げない。ただ、SNSの通知だけが、死肉に群がるハイエナのように、彼の精神を喰い荒らし続けていた。

その沈黙を破ったのは、掌中のスマホが放つ、一筋の無機質な光だった。不倫相手、伊藤恵子からのメッセージ。高橋は無意識に指でリズムを刻む癖を抑え、画面をタップした。

『あなたといると私の価値が下がる。もう連絡しないで』

短い文面の後に、彼女らしい言葉が続いていた。

『賢いあなたならわかるでしょ?これは合理的な判断。「傷を受ける前に捨てる」の。今までありがとう。せいぜい頑張って』

高橋の口の端が引き攣った。彼女は今頃、自分がプレゼントしたブランドバッグを手に質屋にでもいるのだろう。値札を確認する時のように冷たい目で品定めをさせ、きっちりと現金化しているに違いない。彼女の信条が、最も残酷な形で高橋に突きつけられた。共犯者だと思っていた女は、沈みゆく船から真っ先に逃げ出す、ただの抜け目ない乗客だった。

追い打ちは、翌日に届いた。分厚く、上質な紙の封筒。差出人は、婚約者の代理人を名乗る弁護士事務所だった。そこには法的効力を持つ言葉が、氷のように冷たく並んでいた。「貴殿の社会的信用を著しく毀損する行為に基づき、婚約関係を解消する」。手も震えなかった。感情さえも麻痺していく感覚。

そして、とどめの一撃。 会社から呼び出されたコンプライアンス委員会。かつて彼が意のままに動かしていたはずの役員たちが、能面のような表情で彼を見下ろしていた。パワハラの数々、そして凍結されたクロノス・プロジェクトにおける不正の疑惑。すべてが事実無根だと叫びたかったが、声にならなかった。下されたのは、「懲戒解雇」という四文字。彼のアイデンティティそのものであった「敏腕マネージャー」という仮面が、音を立てて剥がされた瞬間だった。

タワーマンションのポストには、赤い文字で印刷されたローン督促状が突き刺さっていた。

すべてが、滑り落ちていく。

高橋はクローゼットの奥から、ベルベットの箱を取り出した。中には、ファーストボーナスで手に入れた高級腕時計が鎮座している。父親の事業失敗を「負け犬」と罵られたあの日から、これだけは手放さずにきた。成功の証であり、過去の自分への決別の誓いだった。

質屋の自動ドアをくぐると、淀んだ空気が彼を迎えた。かつては見下していた世界の匂い。店主は感情のない目で腕時計を鑑定し、虫眼鏡で細かな傷を覗き込む。

「……これくらいですかね」

提示された金額は、彼のプライドを買い叩くには十分すぎるほど低かった。札束を受け取る指が、屈辱に微かに震える。父の、あの事業に失敗した時の絶望した背中が、不意に脳裏をよぎった。俺はあんたとは違う。そう誓ったはずなのに。

冷たい雨が降り始めた雑踏を、高橋はあてもなく歩いた。手にした数枚の紙幣が、失ったすべての代償だと思うと、乾いた笑いが込み上げた。タワーマンションの部屋に戻ると、静寂が前にも増して彼の存在を希薄にさせていく。スーツのポケットに手を入れた時、指先に硬い何かが触れた。忘れかけていた、あの朝の駅で拾った「赤い糸のお守り」。不吉な感触が、彼の内に巣食う得体の知れない恐怖と、初めてはっきりと結びついた。

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剥がれる仮面 - 電車遅延の影響 - 誰でも作家life