11話 砂上の楼閣

オフィスに満ちる空気は、まるで粘度の高い毒のようだった。高橋健司が専用のセキュリティカードでガラスのドアを開けた瞬間から、その異質さは肌にまとわりついた。昨日まで畏怖と追従の視線を向けていた部下たちが、今は蝗害に遭った畑のように静まり返り、顔を伏せている。すれ違いざまに聞こえるのは、キーボードを叩く乾いた音と、意図的に押し殺された囁き声だけ。その全てが、見えない槍となって高橋の背中に突き刺さった。

自らの支配下にあるはずの城。その城壁が、一夜にして内側から腐り落ちていくような不気味な感覚。高橋は苛立ちを押し殺し、表情を変えぬままマネージャー席へと歩を進める。彼の内では、コントロールできない事態への激しい嫌悪が渦巻いていた。

席に着き、PCを起動する。朝一番のコーヒーとニュースチェック。それは彼の完璧な日常を構成する儀式だった。だが、いつもの習慣で開いたSNSの画面が、彼の世界を окончательно 地獄へと突き落とした。

『#朝霧中央線の王様』

トレンドの最上段に鎮座する、悪意に満ちたハッシュタグ。クリックした指先が、まるでパンドラの箱を開けてしまったかのように震えた。画面に溢れ出すのは、あの朝の駅のホームで罵声を浴びせる自分の動画。あらゆる角度から撮影された映像が、嘲笑と非難のコメントで埋め尽くされている。彼の顔写真、会社名、役職、そしてタワーマンションの外観までが、匿名の正義を振りかざす者たちによって、デジタルタトゥーとして刻み込まれていた。

「特定完了」「社会的に抹殺しろ」「こういう奴がいるから日本はダメになる」

無数の活字が、彼の眼球を焼く。SNSでの評判をチェックするのは、自らの成功を確認する快感のためだった。それが今、自らの首を絞める絞首台の縄と化している。

その炎は、瞬く間に社内へと燃え移った。右下のタスクバーには、内部告発を告げる通知が点滅している。人事部からの機密扱いのメール。添付ファイルを開くと、そこには彼の過去の「所業」が箇条書きで並んでいた。

――会議中、苛立ちからペンを執拗にノックし、威圧する行為。 ――部下の現実的な懸念を「非効率な思考」「君は会社にとってコストだ」と一蹴した音声データ。 ――一度だけ信頼していた部下を裏切り、出世争いの駒として冷酷に切り捨てた過去の経緯。

記憶の断片が、悪夢のように蘇る。リーク元は明らかだった。かつて彼が「結果」のために切り捨て、その後の人生など気にも留めなかった部下の誰かだ。あの時の軽蔑しきった目が、画面の向こうから自分を睨んでいるような錯覚に陥る。

追い打ちをかけるように、役員会から緊急招集がかかった。高橋はまだ、自らの弁舌と能力でこの危機を乗り越えられると信じようとしていた。だが、重役たちの冷え切った視線が突き刺さる会議室で、彼は致命的な一撃を受ける。

「クロノス・プロジェクトにおける、データ改竄の内部告発があった」

身に覚えがない。しかし、彼が部下に無茶な目標達成を強いていたのは事実だ。追い詰められた誰かが、数字を偽ったのかもしれない。それは、彼の徹底した結果主義が生んだ、必然の歪みだった。

「よって、役員会はクロノス・プロジェクトの即時凍結を決定する」

頭の中で何かが断ち切れる音がした。反論しようと口を開くが、声にならない。彼のキャリアそのものであったプロジェクトが、砂の城のように崩れ落ちる。

人気のない自らのデスクに戻った時、窓の外はすでに不吉な色の夕闇に包まれていた。成功の象徴として飾っていた、重厚なクリスタルの記念トロフィーが、今は墓標のように虚しく光を放っている。高橋はそれに手を伸ばし、そして、力なく下ろした。ガラスに映った自分の顔は、信じられないほどに歪んでいた。完璧だったはずの日常に穿たれた、修復不可能な亀裂。これは事故ではない。明確な殺意を持った、誰かの仕業だ。その考えに至った瞬間、高橋の背筋を、今まで感じたことのない種類の戦慄が駆け上った。

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