第14話 赤い糸の真実
降りしきる雨が、ネットカフェの薄汚れた窓を叩いていた。高橋健司は、フードで顔を隠し、猫背でモニターの光を睨みつけていた。かつてタワーマンションの最上階から見下ろしていた光の海は、今や画面の中にしか存在しない。全てを失い、彼に残されたのは、自分を破滅させた見えざる敵への、どす黒い執念だけだった。
これは偶然ではない。誰かが明確な殺意を持って、俺の人生を破壊したのだ。
何日も眠らずにネットの海を彷徨い、指が痙攣するほどキーボードを叩き続けた。匿名アカウントのわずかな痕跡、過去の投稿、画像のExif情報。かつてプロジェクトで培った分析能力のすべてを、今は復讐のためだけに使っていた。そしてついに、デジタルな砂漠の果てに、一つの顔写真を見つけ出した。
佐藤美咲。
血走った目が、そのプロフィール写真に釘付けになる。見間違えるはずがない。あの朝霧中央線のホームで、全てを冷ややかに見つめていた、感情の読めない女だ。あの偶然の出会いが、仕組まれた地獄への入り口だったのだ。脳内で何かが焼き切れる音がした。恐怖と怒りが混じり合った、獣のような咆哮が喉から漏れそうになるのを、彼は歯を食いしばってこらえた。
雨がアスファルトを叩く音だけが支配する夜の街を、高橋は幽鬼のように歩いていた。突き止めた住所は、都心から離れた、時代から取り残されたような古いアパートだった。錆びついた階段を軋ませながら、彼は指定された部屋の前に立つ。震える手で、ドアを叩いた。それは懇願のようでもあり、最後の戦いのゴングのようでもあった。
しばらくの静寂の後、ドアが静かに開いた。現れた佐藤美咲は、まるで彼が来ることを知っていたかのように、何の驚きも見せずに彼を見つめていた。その能面のような無表情が、高橋の神経を逆撫でする。
「……入れ、ということか」 絞り出した声は、自分でも驚くほどかすれていた。美咲は何も言わず、ただ静かに体をずらして彼を招き入れた。
部屋は、異様なほど整然としていた。古いながらも塵一つなく、壁際には兄の遺品だという本やCDが背表紙を揃えて並んでいる。壁に貼られた何枚もの短冊には、美しい筆跡で短歌が綴られていた。まるで、持ち主の凍てついた心を映すかのように、そこには生活の匂いが一切なかった。
「なぜだ……。なぜ、俺を……」 高橋は、震える声で問い詰めた。もはやエリートの面影はなく、ただの追い詰められた敗者だった。
美咲は、ゆっくりと彼に向き直ると、初めてその静かな唇を開いた。
「あなたは、私の兄を殺したんです」
その言葉は、凶器のように高橋の鼓膜を突き刺した。
「何を……言っている……?」
「数年前、あなたは言いました。『君は会社にとってただのコストだ』と。私の兄に。あなたは憶えてもいないでしょう。あなたの輝かしいキャリアにとっては、道端の石を蹴飛ばす程度の、些細な出来事だったでしょうから。でも、兄は……その一言で心を折られ、職を失い、自ら命を絶ちました」
美咲の言葉は、淡々としていた。しかし、その一言一句が、高橋の忘却の彼方に追いやっていた過去の罪を、鮮明に抉り出してくる。そうだ、そんなことがあった。非効率な部署を整理した時、泣きついてきた社員がいた。俺は、合理的な判断をしただけだ。
「兄の葬式で、親族はこう言いました。『弱い者は淘汰されるのが世の常だ』と。まるで、あなたの言葉を代弁するように。その時、私は悟ったんです。この世界では、痛みは経験した者にしか本当には理解されない。ならば、あなたにも経験してもらうしかない、と」
彼女はゆっくりと自分の左手首を高橋の目の前に差し出した。そこには、古びた赤い糸で作られたお守りが巻かれていた。
「これは、兄が最後にくれたものです。縁結びのお守りだと言って。まさか、あなたのような人間との『悪縁』を結ぶことになるとは、兄も思わなかったでしょうね。私は復讐がしたかったわけじゃない。そんなもので兄は還らない。ただ、あなたに想像してほしかっただけです。あなたが踏みつけた石ころにも、家族がいて、人生があったのだと。その他人の痛みを、あなた自身の痛みとして」
その瞬間、雷に打たれたように、高橋は自分のスーツのポケットに手を突っ込んだ。あの朝、忌々しく思いながらねじ込んだ、ざらりとした感触。指先に触れたのは、彼女の腕にあるものと全く同じ、「赤い糸のお守り」だった。
偶然拾ったはずのお守り。偶発的な電車遅延。その全てが、この瞬間のために仕組まれた、巨大で緻密な運命の網だったことを、彼はついに悟った。足元から世界が崩れ落ちていく。完璧だったはずの自分の人生が、他人の絶望の上に築かれた砂上の楼閣だったと、今、思い知らされた。
「あ……あ……」
言葉にならない声が漏れる。高橋健司という男を支えていた最後のプライドが、音を立てて砕け散った。雨音だけが響く静かな部屋で、彼はただ、運命の執行者の前に、崩れ落ちるしかなかった。
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