6話 奈落の底のブラックコーヒー

高坂葵の指先が、キーボードの上を凍りついたように止まった。深夜のオフィスビル。窓の外には、眠らない都市の光が幾何学模様を描いている。しかし、その光も今の彼女の網膜には届いていなかった。ディスプレイに映し出された文字列が、葵の築き上げてきた信念の土台を静かに、だが根こそぎ侵食していく。

『その「正しさ」って、本当に葵自身のもの?』

数時間前に電話で聞いた親友、宮下友梨の声が、耳鳴りのように蘇る。出版社で働く彼女は、いつもそうだ。葵が仕事のロジックで固めた鎧を、いともたやすく見抜き、その下の柔らかい部分に問いを投げかけてくる。

「会社やクライアントにとっての『正しさ』に、振り回されてない?」

振り回されている? 馬鹿な。私は、事実とデータに基づいて、最も合理的で正しい道を突き進んでいるだけだ。これまでも、そうやって成果を出してきた。新人研修でトップ評価を得たあの日から、大学時代のゼミで喝采を浴びたあの瞬間から、私の信じる「正しさ」は、常に努力と成果の先にあるはずだった。

しかし、目の前の現実は、その信念を嘲笑っていた。

友梨との電話を切った後、葵の思考は一点に収斂していた。佐伯航の、あの突き放すような態度。彼のデスクの奥で埃をかぶっていた、かつての栄光の証である賞状。『アキレス・フォール事件』の報告書に書かれた、「担当者の暴走」という結論。そして、水野翔子の完璧すぎる、あの淀みのない回答。

バラバラだったピースが、不気味な絵を形作り始めていた。佐伯の「墓石を掘り起こすな」という言葉は、諦めではなかった。あれは、同じ道を辿ろうとする後輩への、彼なりの精一杯の警告だったのではないか。

葵は椅子から立ち上がり、給湯室でブラックコーヒーを淹れた。甘いものは苦手だ。感傷や一時的な安らぎは、思考を鈍らせるだけだと信じている。冷たいガラス張りの壁に映る自分の顔は、疲労と焦燥で歪んでいた。

自席に戻ると、彼女は公的なデータベースを閉じた。ここから先は、オルタナティヴ・ソリューションズのエースとして培ってきた、もう一つの領域だ。葵は自らのITリテラシーを総動員し、通常業務では決して足を踏み入れない、情報の深層へと潜り始めた。暗号化された通信ログ、一時的に保存されては消去されるサーバーのキャッシュ、海外のハッカーたちが情報交換に使うアンダーグラウンドな掲示板。父から贈られた万年筆を指の間で回しながら、彼女は膨大な情報の海を泳ぎ続けた。それは、正義のためというより、もはや自分の立っている場所が崩れ落ちる音から耳を塞ぐための、必死の行為だった。

そして、夜が白み始める頃、葵はそれを見つけた。

ネクステラが、過去に小規模な情報漏洩を起こしていた痕跡。そして、その事実を糊塗するために、数週間にわたってサーバーログの一部を意図的に欠損させていた証拠。水野が「軽微なシステムエラー」と説明した空白期間は、まさにその隠蔽工作の期間と一致していた。だが、問題はそれだけではなかった。彼らが不正利用していた顧客情報は、現在開発中の新サービスの根幹に関わる、極めて大規模なものだったのだ。

慄然とした。プロジェクト・ヘルメスは、風評対策などではない。これは、いずれ必ず発覚するであろう巨大スキャンダルのための「防火壁」だ。そして、その火が燃え移った時、すべての責任を一身に浴びて炎上するために用意された生贄――それが、担当コンサルタントである自分自身なのだと、葵は悟った。

血の気が引いていく。全身が冷たい水に浸されたように感覚が麻痺していく。今まで信じてきた「成果」や「成功」という言葉が、まるで毒のように全身に回っていく。

それでも、まだ終わっていない。震える手で、証拠データをまとめたファイルを暗号化し、ローカルドライブの奥深くに保存する。これを、上司に報告しなければ。この会社にはまだ、自浄作用があると信じたい。成果主義の裏には、プロとしての倫理観が厳しく問われるはずだ。

内線電話の受話器を手に取った、まさにその瞬間だった。

けたたましく、デスクの電話が鳴り響いた。ディスプレイに表示されたのは「コンプライアンス部門」という、社員たちが最も恐れる部署名だった。心臓が氷の手に掴まれたように縮み上がる。予感が、最悪の形で現実になろうとしていた。

重い足取りで向かった第3会議室の扉を開けると、そこには息が詰まるような空気が淀んでいた。担当役員と法務部長が、裁判官のように中央に座っている。そして、その隣に――冷徹な表情を浮かべた、同期の新田圭介がいた。

「高坂君、座りなさい」

役員の低い声が響く。葵が椅子に腰を下ろすと、テーブルの上に数枚の書類が滑り出された。それは、葵が昨夜、アンダーグラウンドな情報源とやりとりしたメールの履歴だった。だが、文脈は巧妙に切り取られ、まるで彼女がネクステラの機密情報を外部に漏洩させようとしているかのように、完璧に捏造されていた。

「……これは、何です……?」 「とぼけるな。君がプロジェクト・ヘルメスの情報を外部に流そうとしていた証拠だ。クライアントから厳しい抗議が入っている。君の功を焦った独断専行が、会社全体の信用を地に落としたんだ」 「違います! 私は罠の証拠を……ネクステラこそが、私たちを騙して、不正を隠蔽しようと……!」 葵が必死に叫ぶと、それまで黙っていた新田が、静かに、しかし刃物のように鋭い声で言った。

「高坂、もうやめるんだ。見苦しいぞ。君が最近、正常な判断力を失っていたことは、チームの誰もが気づいていた。僕だって、何度か忠告したはずだ。『少し冷静になった方がいい』って。でも君は、僕たちの声に耳を貸さず、自分の『正義』に酔って突っ走った。その結果がこれだ。このプロジェクトは、君一人の暴走でめちゃくちゃになった。これ以上、会社に迷惑をかけるのはやめてくれ」

目の前が真っ暗になった。新田。彼が、水野翔子と密会していたという噂が、頭をよぎる。彼が、私の動きを逐一上層部に報告していたのだ。私の理想主義を、功名心を、そして正義感を、彼はすぐ隣で観察し、利用したのだ。私をスケープゴートにすることで、彼は自分の価値を証明しようとしている。

「君を、本日付でプロジェクト・ヘルメスの担当から解任する。追って沙汰があるまで、自宅にて謹慎を命じる。異論は認めない」

役員の言葉は、死刑宣告のように響いた。反論の機会も、弁明の言葉も、すべては厚い壁に吸い込まれて消えた。

どうやって自席まで戻ったのか、記憶が定かではない。フロアの全ての視線が、冷たい針となって背中に突き刺さるのを感じた。囁き声が聞こえる。「やっぱりやり過ぎたんだ」「だから言わんこっちゃない」。信頼していたチームメンバーも、今は遠い世界の住人のように目を逸らす。自分のデスクに戻ると、PCの画面には無慈悲なロック画面が表示されていた。私の居場所は、もうここにはない。

積み上げてきたものすべてが、砂の城のように崩れ落ちていく。大学時代からの努力、この会社で勝ち取ってきた評価、そして何より、「仕事の成功=自分の価値」という、揺るぎないはずだった信念。そのすべてが、たった数時間で瓦礫と化した。

呆然と、色のない世界で立ち尽くす。 その時、すっと目の前に白いマグカップが差し出された。

立ち上る湯気と共に、焦げ付くような苦い香りが鼻をつく。彼女が苦手な甘いものではなく、ただひたすらに苦い、ブラックコーヒー。 ゆっくりと顔を上げると、そこに立っていたのは佐伯航だった。

彼の顔から、いつもの皮肉な笑みや、諦観に満ちた無気力な表情は消え失せていた。そこにあったのは、今まで見たこともないほど険しく、それでいて静かな怒りと、揺るぎない覚悟に満ちた瞳だった。まるで、これから始まる本当の戦いを前にした兵士のような顔だった。

彼は何も言わない。ただ、その黒い瞳で、葵の崩れ落ちた魂の芯をじっと見据えている。その視線は、同情ではない。ましてや、非難でもない。それは、同じ地獄を知る者だけが交わすことのできる、無言の共闘宣言だった。

葵は、震える手でマグカップを受け取った。奈落の底で差し出された、一杯のブラックコーヒー。その苦さが、不思議と麻痺した心にじわりと沁みていく。

人生は頑張るだけが能ではない。佐伯はそう言った。だが、その言葉の本当の意味を、葵はまだ知らない。 戦いは、終わったのではない。ここから、始まるのだ。

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