第5話 岐路と密約
高坂葵は、自室のデスクの前で固まっていた。ディスプレイには、「プロジェクト・ヘルメス」の進捗を示す無数のウィンドウが整然と並んでいる。完璧にタスク管理されたスケジュール、色分けされた分析データ、寸分の狂いもなく計算されたリスクシナリオ。それらはすべて、彼女の努力と能力の結晶のはずだった。しかし今、その一つ一つが、まるで意味をなさない記号の羅列のように、彼女の思考をすり抜けていく。
水野翔子の、あの人を安心させる完璧な微笑み。佐伯航の、「墓石を掘り起こすな」という、これまでにない硬い拒絶。二つの出来事が、葵の中で不協和音を奏で続けていた。信じてきたロジックとデータの世界に、説明のつかない「違和感」という名の霧が立ち込めている。前に進もうとすればするほど、足元がおぼつかなくなる。まるで分厚いガラスの壁に阻まれているような、もどかしい閉塞感。
その完璧主義ゆえに、彼女は自分の内面で起きている混乱を誰にも悟らせたくなかった。弱さを見せることは、敗北を意味する。そう信じてきた。だが、一人きりの部屋で、張り詰めていた糸が限界を迎えようとしていた。
気づけば、スマートフォンの連絡先を開いていた。無意識に指が滑り、一つの名前をタップする。呼び出し音が数回鳴った後、スピーカーから聞こえてきたのは、大学時代から何も変わらない、穏やかで少しだけ眠そうな声だった。
「もしもし、葵? どうしたの、こんな時間に。珍しいね」
親友、宮下友梨の声だった。その声を聞いた瞬間、葵の中で何かが決壊した。
「……友梨」 「ん? なに、元気ないじゃん」 「……私、今、何やってるんだろう」
仕事の愚痴など、ほとんど口にしたことがない。常に前向きで、自信に満ちた高坂葵という人間を、誰よりも友梨は知っているはずだ。その葵が発した弱々しい呟きに、電話の向こうの空気が変わったのが分かった。
「……何か、あったんだね」 「正しいことをしてるはずなのに。絶対に正しいって、信じてたのに。何かがおかしいの。おかしいんだけど、何がおかしいのかが、分からない。まるで深い霧の中を、目隠しして歩いてるみたいで……」
そこまで一気に話すと、葵は息を詰まらせた。完璧なプレゼンをこなす自分とはまるで別人の、頼りない声だった。
電話の向こうで、友梨が小さく息を吸う音がした。茶化すでもなく、同情するのでもなく、ただ静かに葵の言葉を受け止めている。
「そっか。……ねえ、葵」 「なに?」 「その『正しさ』って、本当に葵自身のものなのかな」
唐突な問いだった。葵は言葉に詰まる。
「どういう、意味?」 「うーん……なんて言うか、葵はさ、いつだって全力じゃない。目の前にゴールがあったら、誰よりも速く、まっすぐに走っていく。それは本当にすごいし、葵のそういうところ、尊敬してる。でも、そのゴールテープって、本当に葵が行きたい場所に張られてるのかなって、時々思うんだ」 「……」 「会社にとっての『正しさ』とか、クライアントにとっての『正しさ』とか、そういう誰かが決めた『正解』の旗に向かって、ただ必死に走らされてるだけってことはない? 仕事の成功が葵の価値だって信じてるから、どんな旗でも、一番に掴まなきゃって思ってないかな。もしそうだとしたら、ちょっと苦しくない? ゴールした瞬間に、ふと周りを見渡して、『あれ、私、なんでここにいるんだろう』ってなったりしないかなって」
友梨の言葉は、鋭利な刃物のようにではなく、静かに染み込む水のように葵の心に広がっていった。「仕事の成功=自分の価値」。その信念の根幹が、ゆっくりと、しかし確実に揺さぶられる感覚。大学時代、ゼミの発表で誰よりも完璧な資料を作り上げ、教授に褒められた時の高揚感。新人研修でトップ評価を得て、自分の努力が正当に評価されたと感じた時の全能感。それらはすべて、誰かの設定した基準の上での勝利ではなかったか。
「でも……成果を出さなきゃ、評価されなきゃ、この世界では意味がない。生き残れない。それがプロの世界でしょ? 甘いことなんて言ってられない」 「そうだね。出版社だって、売れる本を作らなきゃ次はない。それは分かるよ。でもね、だからって、自分の心が『これは違う』って言ってるのに蓋をしてまで掴み取る成功って、本当に価値があるのかな。……ごめん、部外者が偉そうに。でも、葵の声、すっごく辛そうだったから」
友梨はそう言って、お揃いで買ったマグカップでお茶でも飲んでるかのように、ふぅ、と息を吐いた。その気負いのない態度が、逆に葵の心を解きほぐしていく。
「……ううん。ありがとう、友梨。……少し、分かった気がする」
電話を切った後も、葵はしばらく動けなかった。窓の外には、無数の光を宿した摩天楼が広がっている。あの光の一つ一つに、自分と同じように戦っている人たちがいる。だが、自分は一体、何と戦っているのだろう。会社か、クライアントか、それとも――自分自身の作り上げた理想の虚像か。
友梨の言葉が、霧の中に一条の光を差したように感じられた。まだ進むべき道は見えない。それでも、立ち止まって、自分の足元を確かめる勇気をもらった気がした。
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その頃、都心を見下ろす高層ビルの最上階にあるレストランでは、二人の男女が向かい合っていた。きらびやかな夜景を背景に、冷たい空気が二人の間に流れている。
「――つまり、高坂さんは少々、理想主義に走りすぎている、ということかしら」
IT企業「ネクステラ」の広報部長、水野翔子が、薄い唇でワイングラスを傾けながら言った。彼女の視線は、目の前の男――高坂葵の同期、新田圭介の顔に注がれている。
「おっしゃる通りです」
新田は、完璧に磨かれたカトラリーを手に、自信に満ちた笑みを浮かべた。手首で輝く最新のスマートウォッチが、テーブルクロスに洗練された光を落とす。
「高坂は優秀です。誰よりも。行動力も分析力も、同期の中では群を抜いている。ですが、彼女は物事をゼロか百かでしか判断できない。正義感が強いのは美点ですが、ビジネスは聖域ではありませんから」
新田は、水野の反応を慎重に観察しながら言葉を続けた。彼の脳内では、この会食に至るまでの計算が高速で回転していた。葵が「プロジェクト・ヘルメス」の調査で壁にぶつかっているという噂は、すぐに彼の耳にも入っていた。これはチャンスだ。葵が踏み外したその場所こそ、自分が駆け上がるためのステップになる。
「ビジネスには、清濁併せ呑むしなやかさが必要な場面があります。利害が複雑に絡み合う状況で、全てのステークホルダーが満足する『完璧な正解』など存在しない。重要なのは、いかに現実的な『落としどころ』を見つけ、プロジェクトを穏便に着地させるか、というクレバーさです」
彼はそこで一度言葉を切り、水野の目を見据えた。
「私であれば、水野様、そしてネクステラ社の企業価値を最大化するという目的に対し、より柔軟なアプローチが可能です。高坂のように、彼女一人の『正義』を振りかざしてクライアントとの間に無用な軋轢を生むのではなく、双方にとって最も合理的な解決策を、穏便に、そして迅速に導き出すことをお約束します」
堂々たる自己PRだった。葵の直情的な理想主義を、暗に未熟だと断じ、自らの功利的な現実主義を「成熟したビジネススキル」として売り込む。彼の言葉は、成果と効率を至上とするこの業界で、最も心地よく響くロジックで組み立てられていた。
水野は、感情の読めない微笑を浮かべたまま、新田の話を聞いていた。そして、おもむろにテーブルに置かれたペンケースから、一本の万年筆を取り出した。社会人になった時に初任給で買ったという、彼女のキャリアの原点とも言える品だ。その滑らかなペン先で、ワイングラスの表面にできた水滴をなぞるように、ゆっくりと円を描いた。まるで、新田圭介という駒の利用価値を査定しているかのように。
「……面白い視点ね、新田さん」
やがて彼女はペンを置き、新田を見つめ返した。その瞳の奥には、値踏みするような冷たい光が宿っている。
「あなたの言う『柔軟性』、一度、拝見させていただこうかしら」 「! ありがとうございます。必ずやご期待に――」 「ただし」
水野は、身を乗り出した新田の言葉を静かに遮った。
「覚えておいて。船が沈むときは、自分が最も『クレバー』だと信じていた航海士から先に、冷たい海に身を投じることになるのかもしれないわ。……このプロジェクトの指揮権、あなたに委ねるに値するかどうか、お手並み拝見と参りましょう」
その言葉は、甘い期待と鋭い脅迫が同居する、巧妙な罠だった。新田は一瞬、背筋に冷たいものが走るのを感じたが、すぐに高揚感がそれを上書きした。彼はこの勝負に勝ったのだ。
「光栄です」
彼は深々と頭を下げた。手に入れたチャンスに満足しながらも、目の前の女の底知れなさに、一抹の寒気を覚えずにはいられなかった。
新田が野心という名の新たな船出を決めたその夜。高坂葵は、自分の部屋で一人、父親から贈られた万年筆を握りしめていた。もう一度、自分の頭で考え、自分の足で立つ。誰かのための「正しさ」ではなく、自分が信じられる「誠実さ」を見つけるために。
対照的な二人の道が、この瞬間、確かに分かたれた。その先で待ち受けるのが栄光か奈落か、まだ誰も知らなかった。
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