4話 過去の亡霊『アキレス・フォール』

ネクステラの広報部長、水野翔子の完璧な回答は、高坂葵の頭の中に、上質な紙に落ちたインクの染みのように、じわりと、しかし確実に広がっていた。理路整然とした説明、人を安心させる微笑み、父から譲り受けたというアンティークの腕時計を一瞥する優雅な仕草。ロジックの鎖で組み上げられた彼女の世界に、一点の非の打ち所もなかった。だが、だからこそ不気味だった。完璧すぎる回答は、時として完璧な嘘の別名だ。

その夜、葵は一人、静まり返った「オルタナティヴ・ソリューションズ」のオフィスに残っていた。窓の外では、摩天楼の灯りが地上に落ちた星々のように煌めき、眼下を走る車のヘッドライトが未来都市の血流のように流れていく。しかし、その壮大な夜景も、今の彼女の目には無機質な光の集合体にしか映らなかった。

彼女のデスクは、いつものように完璧に整頓されている。タスク管理アプリの進捗率は順調に伸び、資料は種類別にファイリングされ、父から贈られた万年筆が静かに出番を待っていた。だが、その整然とした風景とは裏腹に、葵の胸中はざわついていた。一度だけ顧客対応で犯した大きなミス。あの時、上司に徹底的に叩き込まれた「準備と下調べを怠るな」という言葉が、皮膚の下で疼く古傷のように痛む。あの経験以来、彼女は些細なノイズも見逃さない完璧主義者になった。そして今、水野翔子という存在そのものが、巨大なノイズとして彼女の思考回路を軋ませていた。

ふと、デスクの隅に貼られたままになっていた一枚の付箋が目に入った。数週間前、彼女が提出した初期レポートに、指導役である佐伯航が貼ったものだ。

『そのデータの出所、本当に全部確認したか?』

当時、葵はそれを佐伯特有の投げやりな皮肉、あるいは若手への形式的な牽制くらいにしか思わなかった。しかし今、その素っ気ない手書きの文字が、まるでサイレンのように頭の中で鳴り響く。あれはただの皮肉ではなかった。経験に裏打ちされた、本物の警告だったのではないか。

葵は弾かれたように椅子から立ち上がった。自分の直感的な違和感と、佐伯の謎めいた警告が、暗闇の中で一本の線として繋がろうとしている。確かめなければならない。この正体不明の不安の根源を。

自席のPCから、社内の過去案件データベースにアクセスする。膨大な成功事例と、いくつかの失敗事例が眠る、会社の歴史そのものだ。検索窓に、彼女の優秀な頭脳が瞬時に弾き出したキーワードを打ち込んでいく。考え事をするときの癖で、手にしたペンをクルクルと回しながら。

「風評被害」 「クライアント起因」 「責任転嫁」

エンターキーを押すと、ディスプレイに数件のファイルがリストアップされた。その中で、ひときeyseきわ不穏なオーラを放つ一つのプロジェクト名に、彼女の視線は釘付けになった。

『アキレス・フォール事件』

まるでギリシャ悲劇を思わせるその社内通称に、葵は無意識に息を呑んだ。ファイルを開くと、数年前に会社を揺るがせたという大規模コンサルティングの失敗案件の概要報告書が現れる。スクロールしていく指が、ある一点で凍りついた。

担当者:佐伯 航

心臓が嫌な音を立てて跳ねた。報告書は淡々と、しかし冷徹に失敗の分析を記述している。

「……当該プロジェクトの失敗原因は、担当者による過度な独断と、クライアントから提供された情報の裏付けを怠った杜撰な管理体制に起因する。結果として、初期段階で検知可能であったクライアント内部の不正を見過ごし、コンサルティングは暴走。最終的にクライアントに甚大な損害を与え、我が社の社会的信用を著しく毀損する事態を招いた……」

公式見解は、あまりにも明快だった。佐伯航という一個人の能力不足と暴走が原因。だから彼は情熱を失い、無気力な抜け殻のようになったのだ。納得できる。論理的だ。だが――。

葵の目は、報告書のさらに詳細な記述へと吸い寄せられていった。

クライアントは、当時飛ぶ鳥を落とす勢いで成長していた新興テクノロジー企業。プロジェクト内容は、大規模な風評被害対策。しかしその裏には、世間に公表できない致命的な不祥事が隠されていた。そして、クライアント側からオルタナティヴ・ソリューションズへ提供される情報には、意図的としか思えない不自然な欠落や改竄の痕跡があった――。

「……同じだ」

声にならない声が、喉の奥から絞り出された。急成長企業、巧妙に隠された不祥事、意図的に提供される不完全な情報。プロジェクト・ヘルメスの構造と、気味の悪いほどに酷似している。これは単なる偶然なのか。それとも、この会社には、若く野心的な社員を生贄にして問題を処理する、忌まわしい「型」が存在するのか。

背筋を冷たい汗が流れ落ちる。今まで自分が信じてきた「努力は必ず報われる」という信念。「仕事の成功=自分の価値」という理想。その全てが、巨大な組織の掌の上で弄ばれているだけだとしたら? 葵は、自分が歩いていると思っていた道が、実は底なし沼の入り口だったことに気づかされたような、慄然とした恐怖に襲われた。

翌朝、葵はほとんど眠れないまま出社した。目の下には、どんなコンシーラーでも隠しきれない隈が刻まれている。フロアに入ると、いつもと変わらない朝の光景が広がっていた。同期の新田が、物腰柔らかに上司と談笑している。彼のスマートな立ち回りが、今日はいやに計算高く、空恐ろしく見えた。

葵は迷わなかった。一直線に、フロアの隅で気怠そうにコーヒーを飲んでいる佐伯のデスクへと向かった。

「佐伯さん」

彼女の声は、自分でも驚くほど硬く、乾いていた。佐伯はゆっくりと顔を上げ、葵の切迫した表情を一瞥すると、面倒臭そうに眉をひそめた。

「朝からなんだ、高坂。そんな顔してると、幸せが逃げるぞ」

「お伺いしたいことがあります」葵は彼の軽口を無視し、単刀直入に切り出した。「『アキレス・フォール事件』について、教えてください」

その瞬間、佐伯の周囲の空気が凍った。彼の瞳から、いつもの皮肉な光がすっと消え失せ、底なしの沼のような、暗く冷たい色が浮かび上がった。彼はマグカップをソーサーに置き、カチャリ、と乾いた音がオフィスに響いた。

「……どこでそれを」

「社内のデータベースで見つけました。偶然です。でも、偶然とは思えませんでした」葵は一気に言葉を続けた。「プロジェクト・ヘルメスと、構図が似すぎています。急成長するクライアント、隠されたスキャンダル、そして不自然な情報の欠落……。佐伯さん、これは一体何なんですか? この会社は、同じ過ちを繰り返そうとしているんですか? 私はただ、真実が知りたい。リスクマネジメントは、真実から目を逸らして成り立つ仕事じゃないはずです。顧客のため、社会のため、そして何より、私たち自身のプロフェッショナルとしての誇りのために、知る必要があるんです!」

葵の言葉は、彼女が信じる理想主義と正義感からほとばしる、純粋な叫びだった。しかし、その熱量は、佐伯の纏う分厚い氷の壁にぶつかり、虚しく砕け散った。

佐伯は深く、長い息を吐いた。それはため息というより、魂の底から絞り出した諦観そのものだった。

「……墓石を掘り起こすような真似はするな」

彼の声は、冬の枯れ木のように乾ききっていた。

「高坂、お前は優秀だ。優秀だが、致命的に若すぎる。世の中にはな、知らない方がいい真実ってのもあるんだ。正しさが常に勝つなんて信じてるのは、まだおとぎ話の中に生きている証拠だ。ここは現実だぞ。会社の公式見解が、この世界での唯一の真実だ。それ以上、首を突っ込むな」

彼は一度言葉を切り、葵の瞳を射抜くように見つめた。

「お前が信じて振りかざしているその『正しさ』ってやつはな、時にお前自身の首を絞める、一番頑丈な縄になるんだ。俺みたいになるなよ。お前みたいに真正面から全力でぶつかっていくやつは、見ていて清々しい。だがな、一番最初に、一番無残に壊れるのも、そういうやつだ」

それは、葵への警告であり、かつての自分自身への鎮魂歌のようでもあった。佐伯はそれだけ言うと、冷めかかったブラックコーヒーに再び口をつけ、視線をPCモニターに戻した。これ以上、話すことはない、という無言の拒絶だった。

葵は言葉を失い、その場に立ち尽くした。佐伯の言葉の一つ一つが、重い鉛となって彼女の胃の腑に沈んでいく。悔しさと無力感に唇を噛みしめ、踵を返そうとした、その瞬間だった。

彼女の視線が、乱雑に書類が積まれた佐伯のデスクの奥を捉えた。書類の隙間から、埃をかぶったアクリル製の楯が半分だけ顔を覗かせている。かつて彼がエースとして表彰されたであろう、栄光の残骸。そして、その隣のペン立てに、奇妙なものが挿してあることに気づいた。明らかに古く、端子が少し錆びついたUSBメモリ。それはまるで、小さな墓標のように、そこに突き立てられていた。

その光景が、雄弁に物語っていた。佐伯航という男は、単なる無気力な先輩ではない。かつて理想を掲げ、巨大な何かと戦い、そして――敗れた兵士なのだ。

葵の心に、恐怖と同時に、燃え盛るような新たな決意が宿った。佐伯が掘り起こすなと言った墓石。その下に眠る亡霊の正体を、この手で暴き出す。それがどんな危険な道であろうとも、もう引き返すことはできなかった。

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