7話 反撃の狼煙

硬質な無音だった。高坂葵の世界から、音が消えていた。いや、正確には、意味のある音を脳が拾うのを拒絶していた。車の走行音、遠くのサイレン、集合住宅のどこかの部屋から漏れる生活音。それらは全て、すりガラスの向こう側にある景色のように、輪郭を失って溶け合っている。

自宅謹慎を命じられてから、三日が過ぎた。時間は、もはや意味をなさなかった。夜明け前のランニングで思考を研ぎ澄ますことも、完璧に整頓されたデスクでタスクを処理することもない。ただ、呼吸という生命維持活動だけが、惰性で続いている。

部屋は荒れ果てていた。床にはコンビニ弁当の容器やペットボトルが、座礁した船のように無造作に転がっている。クローゼットから溢れたスーツやブラウスは、かつての持ち主の輝きを失い、皺だらけの布の塊となって床に堆積していた。遮光カーテンは閉め切られ、部屋の中は昼でも夜でもない、曖昧な薄闇に支配されている。この淀んだ空気だけが、今の葵の現実だった。

ノートパソコンの画面だけが、ぼんやりと青白い光を放っている。そこに表示されているのは、使い慣れた文書作成ソフトのテンプレート。『退職届』。カーソルが「所属」の欄で点滅を繰り返している。オルタナティヴ・ソリューションズ。その名前を打ち込む指が、動かなかった。

自己実現の全てだった。大学時代のゼミでリーダーとして喝采を浴びた成功体験。新人研修でトップ評価を得た高揚感。「努力は必ず報われる」という、疑いようのない信念。積み上げてきた自信。それらが、会社という組織の都合と、新田圭介という同期の功名心によって、いとも容易く瓦礫の山に変えられた。情報漏洩の濡れ衣。ロックされたPC。フロア中の人間が向ける、好奇と軽蔑が入り混じった冷たい視線。そして、奈落の底に突き落とされた彼女に、苦いブラックコーヒーを差し出した佐伯航の、あの静かな怒りに満ちた目。全てがバラバラのピースとなって、思考の沼に沈んでいく。

何が間違っていた? どこで道を誤った? 葵は、ただ誰よりも真摯に、誠実に、クライアントと向き合おうとしただけだ。不合理や理不尽には正面から異議を唱え、手抜きは決してしなかった。それが、プロフェッショナルとしての自分のプライドだった。なのに、結果はこれだ。

「……馬鹿みたい」

掠れた声が、自分の喉から出たものだと気づくのに数秒かかった。声帯が、使い方を忘れてしまったかのようだ。

その時、静寂を破って玄関のドアが開く音がした。合鍵の回る、無遠慮だが聞き慣れた音。葵は身動き一つしなかった。誰が来たかなど、考えるまでもない。

やがてリビングのドアが静かに開き、宮下友梨が姿を現した。彼女は部屋の惨状を一瞥し、わずかに眉をひそめたが、驚いた様子は見せなかった。ただ、静かに葵のそばに歩み寄ると、まず窓際のカーテンに手をかけ、一気に引き開けた。

「うっ……」

三日ぶりの陽光が、容赦なく目に突き刺さる。葵は思わず腕で顔を覆った。友梨はそのまま窓を開け放ち、淀んだ空気を外へと追いやり始める。そして、床に散らばったゴミを手際よく一つの袋にまとめると、キッチンへ向かった。やがて、水道の流れる音と、コーヒーの粉をフィルターに入れる音が聞こえてくる。

葵は、その一連の営みを、まるで他人事のようにぼんやりと眺めていた。友梨は何も言わない。それが、今の葵には何よりありがたかった。

やがて、友梨が二つのマグカップを手に戻ってきた。大学時代に、雑貨屋で笑いながら選んだお揃いのカップ。一つを葵の目の前のローテーブルに置く。立ち上る湯気と共に、香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。

「……別に、気を使わなくていいよ」

葵が、ようやく言葉を絞り出す。

「気なんて使ってないよ。私がコーヒー飲みたかっただけ」

友- 梨はそう言って自分のマグカップを啜ると、葵の向かいに腰を下ろした。そして、静かに、しかし真っ直ぐな目で葵を見つめた。

「仕事の失敗くらいで、葵の価値はゼロになったりしないよ」

穏やかな声だった。だが、その言葉は鋭い針のように、葵の無防備な心に突き刺さった。堰を切ったように、感情が溢れ出す。

「ゼロだよ! ゼロになったの! 友梨にはわからないよ! 私は……私は、仕事が私の全てだったんだから!」

声が震える。涙は出なかった。あまりに乾ききっていて、涙腺さえも機能を停止しているかのようだった。

「仕事で成果を出して、会社に認められて、社会の役に立って……そうやって自分の価値を証明していくことだけが、私が生きている意味だと思ってた。名門大学を出て、トップ企業に入って、誰よりも努力して、完璧な資料を作って、プレゼンを成功させて……その一つ一つが、私の存在証明だったの。でも、見てよこの様を。全部、砂の城だった。会社も、クライアントも、同期でさえも、私をただの『駒』としか見てなかった。私の信じてた『正義』も『誠実さ』も、彼らの掌の上で踊らされてただけ。滑稽なピエロじゃない……。こんなことになるなら、新田みたいに要領よく立ち回ればよかった? 佐伯さんみたいに、最初から何も期待せずに、諦めていればよかったの? 私が信じてきたものは、私が積み上げてきたものは、一体なんだったのよ……」

独白は、やがて嗚咽に変わった。葵は両手で顔を覆い、震える肩を抑えることができなかった。友梨は、葵の言葉の奔流を、ただ静かに受け止めていた。急かさず、遮らず、全ての言葉が吐き出されるのを待っていた。

やがて、葵の嗚咽が途切れ途切れになった頃、友梨がゆっくりと口を開いた。

「そっか。……全部、葵が一人で背負ってきたんだね」

その声には、同情とは違う、深い理解があった。

「ねえ、葵。大学の時、覚えてる? 就活で私が大手ばっかり受けて全滅して、公園のベンチで落ち込んでた時。葵、なんて言ったか覚えてる?」

唐突な問いに、葵は顔を上げられない。友梨は構わずに続けた。

「『友梨は、出版社で面白い本を作るのが夢なんでしょ。だったら、会社の大きさなんて関係ないじゃん。自分が納得できる場所で、面白いことしなよ』って。あんた、そう言ってくれたんだよ。あの時のあんた、めちゃくちゃカッコよかったんだから」

葵の脳裏に、遠い日の記憶が蘇る。そうだ、確かにそんなことがあった。自分のことのように怒り、励ました。

「あのね、葵。今度は私が言う番。葵は、オルタナティヴ・ソリューションズに評価されるために生きてるわけじゃないでしょ。高坂葵っていう一人の人間の人生を、豊かにするために仕事を選んだんじゃないの? 会社での成功は、その手段の一つであって、目的じゃない。いつの間にか、葵の中でそれが逆さまになっちゃってたんじゃないかな」

友梨はテーブルに置かれたままのカルチャー誌を手に取った。自身が編集者として担当したエッセイが載っているページを開く。

「私、今でも地味な仕事ばっかりだよ。ベストセラーなんて夢のまた夢。でもね、自分が『これは面白い』って信じた書き手さんと一緒に、一つの作品を世に出すのは、すごく充実感がある。葵が言う『成功』とは違うかもしれないけど、これも一つの『価値』だと思うんだ。成功の形も、価値の在り方も、一つじゃないんだよ。葵が今まで積み上げてきたものが、全部無駄だったなんて、絶対に思わない。その努力も、誠実さも、理想を追い求めた熱意も、全部本物だったじゃない。それは、会社や誰かが決めるものじゃなくて、葵自身の中にちゃんと残ってる。今は、それが誇りだって思えなくても、絶対に消えたりしない」

友梨は雑誌を閉じ、ローテーブルにそっと置いた。

「だから、今は無理に立ち上がらなくていいよ。休むのは、怠けでも逃げでもない。むしろ、前に進むために必要なことだってある。少しだけ、仕事のことから離れて、俯瞰で見てみなよ。葵の世界は、会社のデスクの上だけで完結してるわけじゃないんだから」

友- 梨はそう言うと、静かに立ち上がった。「また来るね」とだけ言い残し、彼女は来た時と同じように、静かに部屋を出ていった。

一人残された部屋に、再び静寂が戻ってきた。しかし、それは先ほどまでの硬質な無音とは違っていた。開け放たれた窓から、街のざわめきが、湿り気を帯びた風と共に流れ込んでくる。友梨が淹れてくれたコーヒーの香りが、まだ微かに漂っている。

葵はゆっくりと顔を上げた。視線の先、ローテーブルの上に置かれたカルチャー誌。そして、その横にある、自分とお揃いのマグカップ。

友梨の言葉が、固く凍りついていた心を少しずつ溶かしていく。価値は、誰かに与えられるものではない。自分の中に、既にある。

まだ、立ち上がれる気はしなかった。だが、PCの画面に映る『退職届』の文字が、先ほどとは少し違って見えた。これは、敗北の証明書ではないのかもしれない。だとしたら、これは何だ?

葵は、ゆっくりと手を伸ばし、冷めかかったコーヒーを一口含んだ。苦い液体が、乾いた喉を潤していく。その苦さが、なぜか思考をクリアにした。

まだ終われない。いや、終わらせてはいけない。

これは、絶望の終わりではない。何かの始まりなのだ。そう直感した。反撃の狼煙は、まだ見えないほど小さく、心の奥深くで燻り始めたばかりだった。

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