6話 健太の秘密ノート

じり、と蝉の声がアスファルトの熱を掻き立てる。山根琴子は、手元の捜査メモに描いた困り顔の猫の顔文字を、意味もなく指でなぞっていた。最初の依頼人、佐藤健太くんから預かった迷い猫「ミミ」の捜索は、早くも壁にぶつかっていた。聞き込みで得られた情報は断片的で、まるで蜃気楼のように掴もうとすると消えてしまう。 「はぁ…」 探偵事務所の、看板だけは立派な机に突っ伏すと、革張りの椅子の軋む音が空しく響いた。憧れていた探偵の仕事は、こんなにも地道で、そして無力感を伴うものだったのか。考えが堂々巡りを始めると、琴子は無意識に耳の横の髪を指でくるくると巻き始めた。空回りする心と、指先で弄ばれる髪の毛が、まるで同じ軌道を辿っているようだった。

その日の午後、カラン、と喫茶「山猫亭」のドアベルが鳴った。現れたのは、依頼人の健太くんだった。夏休みだというのに、彼の表情は曇りがちで、小さな背中が心なしか丸まっている。 「琴子さん…ミミ、見つかった?」 不安げな声に、琴子は胸がちくりと痛んだ。 「ごめんね、まだなの。でも、一生懸命探してるから。もう少しだけ、ミミちゃんのこと教えてくれないかな。どんな些細なことでもいいんだ」 眼鏡をくいっとずらし、まっすぐに健太くんの目を見つめる。すると彼は、視線を泳がせながら、無意識にズボンの裾を指先でいじり始めた。それは、彼が何かを隠している時の癖だった。 「えっと…これ、ミミのノート。ミミがどこに行くか、いつも書いてたんだ」 そう言って彼がランドセルから取り出したのは、キャラクターのシールが貼られた一冊の学習帳だった。『ひみつ』と書かれたそのノートは、彼の言う通り猫の行動記録というには、あまりに重たい気配を纏っていた。

事務所に戻り、琴子は改めてその「秘密のノート」を開いた。そこには、子供らしい拙い文字で、ミミの行動範囲や好きな場所が記されていた。 『6月10日:公園のすべり台の下。日差しが気持ちよさそうだった』 『6月15日:お魚屋さんの裏。でも、おじさんに怒られた。ミミは悪くないのに』 猫の行動記録としては、実に微笑ましい。しかし、ページをめくるにつれて、琴子の表情は曇っていった。猫の記録の合間に、まるで染みのように、別の記述が紛れ込んでいるのだ。 『7月1日:また、声がした。僕のせいかな』 『7月5日:お母さんが泣いてた。お父さんがミミを撫でてた』 そして、最後のページにはこうあった。 『ミミがいなくなれば、みんな、悲しい。僕が、見つけないと』 これは、ただの迷い猫探しじゃない。琴子は確信した。健太くんは、このノートに、猫の足跡ではなく、自分の心の叫びを書きつけていたのだ。家族の間で起きているであろう些細な、しかし彼にとっては世界の全てである衝突。その緩衝材として、彼は必死にミミという存在を位置づけている。彼の「優しい嘘」は、家族の平和を願う、あまりにも健気な「思いやり」だった。 カウンターの向こうで、母・静子が何も言わずに温かいハーブティーを置いてくれる。その香りが、張り詰めていた琴子の心をそっと解きほぐした。窓際の席では、常連客の白石さんが、いつものように静かに新聞を読んでいたが、その視線がこちらに向けられているような気がした。

「健太くん」 琴子は、ノートを閉じて、再び少年の前に座った。 「このノート、ミミちゃんのことだけじゃない、健太くんの大切な気持ちも書いてあるんじゃないかな。もし、君さえ良ければ、私に話してくれないだろうか。探偵はね、猫を探すだけが仕事じゃないんだ。人の心に迷い込んだ、見えない猫を探すのも、大事な仕事なんだよ。君が抱えているその重たい荷物を、少しだけ私に預けてはくれないか。君は一人で戦っているわけじゃない。私は、君の味方だよ」 琴子の言葉に、健太くんの瞳が大きく揺れた。必死に堪えていた涙の粒が、頬を伝ってぽたりとノートの上に落ちる。 「お父さんと、お母さんが…ミミのことで、喧嘩するんだ。僕がちゃんと見てないからだって…。僕が…僕がしっかりしてれば、ミミもいなくならなかったし、二人も喧嘩しなかったのに…!」 堰を切ったように溢れ出す少年の告白に、琴子はただ静かに耳を傾けた。彼の背負うにはあまりに重い責任感と、家族への深い愛情。この依頼は、単なる猫探しではない。この少年の心を、そして彼の家族を救うための、「心の解決」なのだ。琴子は、探偵としての本当の道が、おぼろげながら見えた気がした。彼女の指は、いつの間にか髪をくるくると巻くのをやめていた。

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