第7話 蓮という名の壁とトラウマの再襲
第十七回目の挑戦である。僕、桜木悠真の人生という名のクソゲーにおける、唯一にして至高の目標――白石葵との関係性アップデート――のための、十七回目の挑戦。僕の手元にある大学ノート、もとい『過去の選択メモ』には、これまでの十六回分の無残な屍が、父親から貰った万年筆のインクで墓標のように刻まれている。だが、今回は違う。過去の膨大な失敗ログから導き出した最適解。葵が講義終わりに立ち寄る中庭のベンチ、彼女が手にしているであろうカフェラテの氷が溶けきる絶妙なタイミング、そして話題は来週末に開催される彼女が好きな画家の企画展。完璧だ。完璧な攻略チャート。これぞ、僕のループ能力と分析力の結晶。この一歩が、僕の「コレジャナイ人生」に終止符を打つはずだった。
陽光が木々の葉を透かし、まだら模様を地面に描く。その光の中心に、彼女はいた。白石葵。友人たちと談笑するその姿は、それだけで一つの完成された芸術作品のようだ。僕は静かに、しかし計算され尽くした足取りで、その聖域へと歩を進める。胸ポケットには、アート展のチケットが二枚。緊張で無意識に口元に伸びる手を、ぐっと堪えた。
「――でね、その時の猫がすっごく可愛くて!」
葵の弾む声が耳に届く。完璧だ。会話が途切れる、まさにその瞬間を狙う。あと五歩、四歩、三歩――。
「よう、葵。面白そうな話してんじゃん」
その声は、僕が練り上げた完璧な世界を、何の配慮もなく踏み荒らすブルドーザーのようだった。黒崎蓮。寸分の隙もなく整えられた髪、流行の最先端をいくシャツ、そして何より、その全身から発散される、根拠のない、しかし圧倒的な自信。奴は、僕という存在を認識すらしていないかのように、ごく自然に葵の隣に腰を下ろした。
「あ、蓮君。ううん、大した話じゃないよ」 葵は少し驚いたように笑う。蓮はそんな彼女に、片眉を上げる得意の仕草を見せながら、スマートに話を切り出した。 「そういえばさ、来週末のアート展、俺も行こうと思ってたんだ。もしよかったら、一緒にどう?」
心臓が凍る。僕が十六回のループを費やして準備した切り札を、奴はまるで道端の石ころを拾うように、いとも容易く、そして僕よりも遥かに効果的な形で提示してみせた。葵の顔が、ぱっと華やぐ。答えを聞くまでもない。僕の第十七回目の挑戦は、開始五秒でゲームオーバーとなった。
砂上の楼閣とは、まさにこのことか。僕が積み上げた緻密な計算とシミュレーションは、蓮という名の「現実」の前に、もろくも崩れ去った。彼の強さは、どこから来るのか。その自信は、努力という対価を支払ったものなのか、それとも生まれつきの特典なのか。そして、僕のこの劣等感は、彼の存在が引き起こす必然なのか、僕自身の内包する無能の現れなのか。奴は、黒崎蓮は、世界のバグだ。僕という主人公がヒロインを攻略するこのゲームにおいて、絶対に勝てないように設定されたイベント戦闘。いや、違う。奴こそがこの世界の『正規』で、僕の存在こそが『バグ』なのか?僕の『コレジャナイ人生』は、僕がこの世界の仕様に適合していないという、ただそれだけの、身も蓋もない事実の証明に過ぎないのか?
その瞬間、僕の脳裏に、あの日の光景が鮮烈にフラッシュバックした。高校の教室。放課後の西日が差し込む中、震える声で葵に告白しようとした、あの日の僕。自信のなさから言葉が詰まり、彼女の困惑した表情から逃げるように、背を向けて走り去った、あの日の僕。胃の底から、熱いものがせり上がってくる。そうだ。あの時も、僕の前には見えない壁があった。それは、僕自身の弱さ、優柔不断さという名の、決して越えられない壁だった。
僕は踵を返し、その場から逃げ出した。誰にも見られないよう、大学の隅にある誰も使わない講義室に駆け込み、壁に背を預けて崩れ落ちる。震える手で『過去の選択メモ』を開き、万年筆を握りしめる。
『失敗パターン:黒崎蓮という名の『運命』を観測対象として軽視。奴は変数ではない、定数だ。僕が書き換えるべきは世界のパラメータではなく、僕自身という粗末なプログラムそのものだ。トラウマの再発を確認。要、根本的解決。』
インクが紙に染み込んでいく。それは絶望の記録か、それとも次なる挑戦への誓いか。もはや、僕自身にも分からなかった。
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