3話 おはよう、私(オレ)?

**語り手:高瀬 馨(in 薰)**

蝉の声が鼓膜を突き破る。それが、この無限に繰り返される一日の開始を告げるゴングだった。 瞼をこじ開けると、視界に飛び込んできたのは見慣れないファンシーな天井。淡いピンク色の壁紙、ぬいぐるみたちが並ぶ棚。そして、ふわりと鼻腔をくすぐる、甘い柔軟剤とシャンプーの香り。 高井薰の部屋。そして、この身体も、高井薰のもの。 「…………」 重たい身体(物理的にも精神的にも)を起こし、ベッドの脇に置かれた姿見を睨みつける。そこに映っているのは、もちろん僕、高瀬馨ではない。艶やかな黒髪を無造作に散らし、少し眠たげな大きな瞳を瞬かせ、健康的な肌と華奢な鎖骨を持つ、紛れもないクラスの人気者、高井薰その人だ。 「おはよう、僕じゃない誰か」 鏡の中の少女が、僕の声に合わせて唇を動かす。だが、そこから漏れ出るのは、鈴が鳴るようなソプラノ。この声にも、この顔にも、この身体にも、いまだに慣れることができない。 指先で、自分の頬に触れてみる。いや、彼女の頬か。きめ細やかで柔らかい感触。男子の、僕自身のざらついた肌とは全く違う。そのまま首筋をなぞり、鎖骨のくぼみに触れる。その下には、薄いキャミソールの生地越しに、柔らかな膨らみが存在を主張している。心臓が、ドクン、と嫌な音を立てた。 これは罰なのだろうか。隣に住んでいながら、その太陽のような明るさを疎ましくさえ感じていた僕への。彼女の領域に踏み込むことなど考えもしなかった僕が、今や彼女の身体そのものに囚われている。 これは、悪夢だ。しかも、終わらない。

「薰ー! 朝ごはんできてるわよー! 今日は七夕祭なんだから、寝坊しないの!」 階下から、薰のお母さんの快活な声が響く。そうだ、今日は七夕祭。このループする一日。僕は今日も「高井薰」として、あいつは「高瀬馨」として、この一日を演じきらなければならない。 クローゼットを開ける。そこには、フリルやレースのついた服、カラフルなスカートがぎっしりと並んでいる。僕のクローゼットがモノトーンの無彩色で構成されているのとは対照的だ。ため息と共に制服を手に取る。問題は、その下だ。 引き出しを開けると、色とりどりの布地が目に飛び込んできた。……下着。レースやリボンで飾られた、僕の理解を超えたデザインの物体。一体どれが正解なんだ。昨日、あいつ――高井薰(の身体を乗っ取っている僕)に「頼むから一番地味なやつにして!」と懇願したが、あいつは僕(の身体を乗っ取っている彼女)の姿でニヤニヤしながら「えー、でも私、可愛いのが好きだしぃ?」などと抜かしていた。どこのギャルだ。 結局、一番シンプルなデザインのものを選び、説明しがたい羞恥心と戦いながら身に着ける。ブラウスのボタンを留め、スカートを履く。この、腰から下がスースーする心許ない感覚。女子は毎日こんなものを履いて平気な顔をしているのか。信じられない。 そして最大の難関、ポニーテールだ。薰のトレードマーク。これを再現できなければ、不審がられる。鏡の前で、不慣れな手つきで髪をまとめ、ゴムで結ぶ。何度も失敗し、腕がだるくなってきた頃、ようやくそれらしい形になった。だが、鏡の中の「僕」は、どこかぎこちなく、不安げな表情を浮かべていた。

リビングに降りると、「おはよう、お母さん」と、練習した通りの声で挨拶する。 「あら、おはよう、薰。あら、今日のあんた、なんだかお淑やかじゃない? いつもはドタバタ走り回ってるのに」 「……そうかな」 危ない。僕は普段の薰の行動パターンを完全に把握しているわけではない。下手に動けばボロが出る。とりあえず、席について出されたトーストを咀嚼する。バターとジャムの甘さが口に広がる。僕の家の朝食がご飯と味噌汁であることなど、今はどうでもいい。 「そうだ、薰。一ノ瀬くんから、昨日の夜LINE来てたわよ。『明日、祭りで会えるの楽しみにしてる』ですって。うふふ、青春ねえ」 「……ッ!」 一ノ瀬蓮。サッカー部のエース。爽やかイケメン。そして、薰に想いを寄せている男。僕が最も苦手とする、感情を隠さず、真っ直ぐにぶつかってくるタイプの人間だ。あいつが、薰(の中の僕)に接触してくる。想像しただけで胃がキリキリと痛んだ。 「……へ、へえ。そうなんだ」 引きつった笑顔で応えると、薰のお母さんは「あらあら、照れちゃって」と嬉しそうだ。違う、これは照れじゃない。嫉妬と自己嫌悪と、得体のしれない焦りが混ざった、もっと黒くてドロドロした感情だ。

登校途中、案の定、薰の友人たちに捕まった。 「かおるん、おはよー!」 「今日の髪型も可愛いー! そのゴム、新しいやつ?」 「ねえねえ、昨日のドラマ見た? やばかったよねー!」 矢継ぎ早に繰り出される、僕の知らない世界の会話。僕は必死に相槌を打ち、曖昧な笑顔を顔に貼り付ける。ループを何度か経験したことで、当たり障りのない返答は学習した。だが、彼女たちの会話の速度と熱量に、僕の精神はゴリゴリと削られていく。 これが薰の日常。これが、彼女が当たり前にこなしているコミュニケーション。僕が図書室の片隅で静かに本を読んでいる間、彼女はこんな激流の真っただ中に身を置いていたのか。 その時だった。 「よっ、高井!」 背後からかけられた声に、心臓が凍り付く。一ノ瀬蓮だ。彼は爽やかな笑顔を浮かべ、馴れ馴れしく僕の――いや、薰の肩に手を置こうとしてきた。 「うわっ!」 咄嗟に身を引く。その反応に、一ノ瀬も、周りの女子たちもきょとんとした顔になった。 「あ……ご、ごめん。ちょっと、びっくりして」 慌てて取り繕う。一ノ瀬は一瞬面食らったようだったが、すぐにいつもの笑顔に戻った。 「はは、悪い。今日の高井、なんかガード固いな。照れてんの? 可愛いじゃん」 「…………」 可愛い、だと? この僕が? いや、この身体が。頭が混乱する。思考がショートし、何も言えずにいると、彼はさらに顔を近づけてきた。 「今日の祭り、一緒に行かねえ? 終わったら送ってくよ」 断らなければ。でも、どうやって? 薰なら、きっと明るく、でも上手くかわすのだろう。でも、僕にはそのスキルがない。僕が何か言おうと口を開きかけた、その時だった。 教室の窓から、グラウンドを眺めている「僕」の姿が見えた。 いや、あれは僕じゃない。あいつだ。高井薰だ。 僕の身体を使ったあいつは、男子のグループの中心で、何やら大口を開けて笑っていた。行儀悪く机に腰かけ、足をぶらぶらさせている。僕が絶対にしないような、ガサツで、無遠慮な態度。 ――お前のせいで! 僕の中で、何かがプツリと切れた。

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**語り手:高井薰(in 馨)**

「でさー、昨日の試合の最後のシュート、マジ神がかってなかった!?」 「あれはヤバい! 漫画かよ!」 男子たちの熱のこもった会話に、私は「だよなー!」と力強く相槌を打つ。高瀬馨の身体にも、ようやく慣れてきた。最初は戸惑った低い声も、今ではすっかり自分のもののように感じる。歩幅の大きさも、制服のズボンの楽ちんさも、全部が新鮮で、ちょっと楽しい。 「お、高瀬もそう思う?」 「当たり前だろ! あの角度から決めるなんて、天才の所業だ!」 私がそう言うと、周りの男子たちが「お、珍しく高瀬が熱いな!」と面白そうに笑った。 そう、これが私、高井薰のやり方。どんな場所でも、どんな話題でも、中心にいて、場を盛り上げる。馨の普段のイメージなんて知らない。クール? 内向的? そんなの、友達を作る上で何の役にも立たない。私がこの身体でいる以上、高瀬馨は「面白くて話せるヤツ」に生まれ変わるのだ。 「よーしっ!」と気合を入れて手を叩くと、またみんなが笑った。楽でいい。男子のノリは、女子のそれよりずっと単純で分かりやすい。

鏡に映った自分の顔――馨の顔を見る。整ってはいるが、どこか影があって、いつも前髪で目が隠れがち。それがもどかしい。私はグイッと前髪をかき上げた。 「んー、やっぱり視界が広いと気持ちいい!」 馨の部屋もそうだ。本棚には小難しいタイトルの本がびっしり。部屋は綺麗に片付いているけど、なんだか息が詰まりそう。だから、私がちょっとだけ模様替えしてやった。彼の机の上に、私が好きなバンドのCDを飾ってみたり。きっと彼(の中の私)は気づいていないだろうけど。

教室に入ると、女子のグループに囲まれている「私」が見えた。 ……なんだか、様子がおかしい。 いつもの私なら、もっと大きな声で笑って、会話の主導権を握っているはずだ。なのに、今日の「私」は、どこかおどおどしていて、愛想笑いを浮かべているだけ。まるで借りてきた猫みたいだ。 そして、一ノ瀬くんが話しかけているのに、まともに目も合わせられないでいる。 「…………」 イライラが募る。 なんなの、あれ。あれは高井薰じゃない。私のイメージが、あいつのせいでどんどん崩れていく。私がどれだけ努力して、今の「人気者の高井薰」というポジションを築いてきたと思ってるのよ。 休み時間になるのを待って、私は「私」の手を掴み、人気のない屋上へと引きずっていった。

「ちょっと、あんた! どういうつもりよ!」 屋上のフェンスに「私」を追い詰め、私は馨の声で怒鳴った。 「何がだ」 「私」――馨は、不機嫌そうに、でもか細い声で答える。その女々しい態度が、さらに私の神経を逆なでした。 「何がだ、じゃないわよ! あんたのせいで、私の評判がガタ落ちじゃない! なによあのおとなしい態度は! 一ノ瀬くんにあんなに素っ気なくして! 私が照れてるって勘違いしてたじゃない! あれじゃただの愛想悪い女よ!」 「うるさい! 僕だって好きでやっているわけじゃない! 大体、女子の会話にどうやって入っていけって言うんだ! 昨日のドラマの話だの、新しいカフェの話だの、分かるわけないだろう! お前こそ、僕の身体で何をしてるんだ! 男子グループの中心で馬鹿みたいに大笑いして! 僕のクールで知的なイメージが台無しだ!」 馨の口から飛び出した「クールで知的」という自己評価に、私は思わず噴き出しそうになるのをこらえた。 「クールで知的ですって? 笑わせないでよ! あんたのはただのコミュニケーション障害よ! 人と話すのが怖いだけじゃない! 私が身体を借りてる間に、友達百人作ってあげようか!?」 「余計なお世話だ! 友達なんて数じゃない! それに、君こそ僕のプライベートを侵害しているだろう! 僕の部屋の本棚の並びを変えたな!? それに机の上に置いてあったあの趣味の悪いCDはなんだ!」 「あれは今一番イケてるバンドよ! あんたの部屋、陰気臭いんだからあれくらい置いといたっていいでしょ! 大体ね、あんたは分かってないのよ! 『女の子』でいることがどれだけ大変か! 毎朝髪を結んで、制服に気を使って、友人関係に気を配って! それをあんたは……!」 「お前こそ分かっていない! 『男らしさ』を期待される息苦しさを! くだらない力比べや、興味もないスポーツの話に無理やり付き合わされる苦痛を! 僕がお前の身体でどれだけ……!」 お互いの言葉が、機関銃のように飛び交う。言いたいことは、山ほどあった。相手の身体で過ごす不自由さ。周囲の期待とのギャップ。そして、自分のアイデンティティが、目の前の相手によって歪められていく恐怖。 言い争いがヒートアップし、二人とも息が切れた、その時だった。 遠くから、チャイムの音が聞こえてきた。 ハッと我に返る。私たちは、こんなところでお互いを罵り合うために協力しているんじゃない。 この終わらない一日から、抜け出すために。

「……もういい」 先に沈黙を破ったのは、馨だった。彼は俯いて、薰の長い髪をいじりながら呟く。 「このままじゃ、埒が明かない。……協力、するんだろう? 僕たちは」 「……当たり前でしょ」 私も、ようやく冷静さを取り戻していた。フェンスに寄りかかり、大きくため息をつく。 「分かったわよ。あんたの『クールで知的(笑)』なイメージ、壊さないように努力してあげる。だから、あんたも、私のイメージを壊さないで。最低限、人前では明るく笑って、ハキハキ喋ること。いい?」 「……善処する。それから、情報共有のためのルールを決めよう。毎朝、その日にやるべきこと、会うべき人間のリストを交換する。イレギュラーな事態が起きたら、すぐに連絡を取り合う。これでどうだ」 「……いいわよ、それで」 不承不承ながら、私たちは初めて、この異常事態における「協力体制」を築いた。まだ互いへの不満は消えない。ぎこちなくて、歪な共犯関係。 でも、今はこれしか道がないのだ。 屋上のフェンスの向こうには、どこまでも続く青い空が広がっていた。この空のように、私たちの未来も晴れ渡る日が来るのだろうか。 その時、屋上のドアが少しだけ開いて、すぐに閉まるのを、私は見逃さなかった。 ……誰か、いた? 気のせいかと思いながらも、胸の中に小さな棘が刺さったような、奇妙な感覚が残っていた。

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