2話 天邪鬼の神様

**語り手:高井 薰(in 高瀬馨)**

じりりりり、とけたたましい電子音が鼓膜を突き刺す。 いつもの、私の部屋の可愛いメロディーアラームじゃない。無機質で、暴力的で、有無を言わさず意識を引きずり出すような、そんな音。

「ん……うるさ……」

のろのろと手を伸ばして、音源を探る。枕元の、見慣れない黒い目覚まし時計をひっぱたいて、ようやく世界に静寂が戻った。まだ眠い。夏休みの朝くらい、もう少し寝かせてくれたっていいじゃないか。そう思いながら、重たい瞼をこじ開けた。

そして、固まった。

見慣れたピンク色の壁紙じゃない。天井には、なんだかよく分からない宇宙のポスターが貼ってある。本棚には、タイトルを見ただけで眠くなりそうな分厚い本がぎっしり。窓から差し込む光の角度も、いつもと違う。

ここは、私の部屋じゃない。

「――は?」

声を出したつもりだった。でも、喉から出てきたのは、自分のものとは似ても似つかない、低くて掠れた声だった。驚いて喉に手を当てる。ごつりとした喉仏の感触。嘘でしょ。

跳ね起きて、部屋の中を見渡す。間違いない。この殺風景で、理屈っぽくて、ちょっとだけインテリぶってる部屋は、隣に住む幼なじみ――高瀬馨の部屋だ。

なんで? なんで私が、馨の部屋のベッドで寝てるの? 昨日は、七夕祭で……そうだ、あいつと喧嘩して……双子神社の合わせ鏡の前で……。

そこまで思い出して、嫌な予感が全身を駆け巡った。 震える足でベッドを降り、姿見の前に立つ。そこに映っていたのは、いつもの私――高井薰の、明るくて元気な笑顔なんかじゃなかった。

寝癖のついた黒髪。眠たげな、少し目つきの悪い双眸。私より十センチは高い身長。そして、着ているのはヨレヨレのTシャツと、チェック柄のパジャマのズボン。

鏡の中の「高瀬馨」が、私と同じように、信じられないという顔で、自分の頬に触れた。

「うそ……でしょ……?」

再び漏れ出たのは、紛れもない馨の声だった。でも、喋っているのは、間違いなく私。 頭が真っ白になる。パニック。混乱。訳が分からない。 心臓がドラムみたいにうるさく鳴り響いて、立っているのもやっとだった。

とにかく、馨に、本物の馨に会わなきゃ。あいつはどこに? もしかして、私の部屋に? 私の身体で!?

部屋を飛び出し、階段を駆け下りる。リビングでは、馨のお母さんが「あら、馨、おはよう。今日は早いのね」なんてのんきに声をかけてきた。返事もできない。玄関のドアを乱暴に開けて、外に飛び出した。

隣の、見慣れた我が家。勝手知ったるなんとやら、だ。インターホンも鳴らさず、玄関に飛び込む。 「薰! あんたどこにいるの!」 馨の声で、自分の名前を叫ぶ。なんて滑稽な光景だろう。

リビングから、お母さんがひょっこり顔を出した。 「あら、馨くん、どうしたの? 薰ならまだ部屋よ。昨日はお祭りで疲れたのかしら」 「起こしてくる!」 私はそれだけ言うと、二階の自分の部屋へ駆け上がった。ドアを勢いよく開ける。

「――きゃあああああっ!」

そこにいたのは、私のパジャマを着て、私のベッドの上で体育座りをして、ブルブル震えている「私」だった。いや、中身は馨だ。その怯えきった顔を見ればすぐに分かった。

「お、お、お前……高井、なのか……?」 「当たり前でしょ! あんたこそ、何してんのよ、私の身体で!」

馨(in 私)は、私の顔――つまり、今の自分の顔を見て、さらに真っ青になった。 「やっぱり……夢じゃ、なかったんだ……」 「夢なわけないでしょ、この大馬鹿! どうすんのよこれ!?」

私は部屋にずかずかと入り込み、馨(in 私)の目の前に仁王立ちした。見下ろす格好になるのが、なんだか変な感じだ。 「どうするって……僕に言われても……」 「あんたのせいでしょ! 昨日、あの鏡の前で、変なこと言うから!」 「君こそ、『こんな男の子みたいな自分は嫌だ!』とか叫んでいただろう!?」 「あんただって『お前みたいな能天気な女子にはうんざりだ』って言ったじゃない!」

そうだ。昨日の夜、双子神社の合わせ鏡の前で、私たちはくだらないことで口論になった。そして、二人して、お互いを罵るような、自分を卑下するような、そんな願いにも似た呪いの言葉を吐き捨てたんだ。 『こんな自分じゃなければ!』 『こいつみたいじゃなければ!』 そう願った、その瞬間に、鏡が強く光って……。

「……天邪鬼の神様」 ぽつりと、私が呟いた。 「は?」 「だから、双子神社の言い伝えよ! あの鏡の前で願うと、天邪鬼な神様が願いを捻じ曲げて叶えちゃうってやつ! 私たち、『元に戻りたい』って心のどこかで思ってたから……その逆で、入れ替わったんじゃないの!?」

私の突拍子もない仮説に、馨(in 私)は目を白黒させている。理屈屋のあいつにしてみれば、オカルトなんて信じたくもないだろう。でも、現に私たちの身には、非科学的な現象が起きているのだ。

「そんな……非論理的な……」 「じゃあ、この状況を論理的に説明できるわけ!? できるもんならしてみなさいよ!」 「う……」 馨(in 私)は言葉に詰まり、俯いてしまった。その仕草が、普段の気弱な馨そのもので、私は自分の身体なのに、なんだか無性にイライラした。

「とにかく! 学校に行く時間よ! いつまでもパジャマでいるわけにいかないでしょ!」 「が、学校!? こんな姿で行けるわけないだろ!」 「行かなきゃ不審がられるでしょ! とにかく着替える! あんたはあんたの家に帰って、制服に着替えなさい! 私は私の制服に着替えるから!」 「き、着替えるって……どこで……」 「はあ? ここであんたの服に着替えるのよ。まさか、自分の部屋に帰って、私の身体で男子の制服に着替えるつもり?」 「そ、それは……」

馨(in 私)は顔を真っ赤にして、もじもじしている。ああ、もう! こいつのそういうウジウジしたところが嫌いなんだ! 「いいからさっさと出てって! 私も自分の部屋に戻るから!」 私は馨(in 私)の腕を掴んで、無理やり部屋から追い出した。

一人、馨の部屋に戻る。クローゼットを開けると、きちんと畳まれた制服が並んでいた。それを手に取って、一瞬、手が止まる。 これを、私が、着るのか。 男子のシャツ。スラックス。ネクタイ。 ゴクリと喉が鳴る。馨の喉仏が、こくりと動いた。なんだか、すごく生々しい。

意を決して、パジャマを脱ぐ。途端に、ひやりとした空気が肌を撫でた。自分の身体じゃない。胸は平らで、肩幅は広く、うっすらと筋肉がついている。恐る恐る、自分の下半身に目をやる。

「――〜〜〜〜っ!!」

声にならない悲鳴が、喉の奥で詰まった。あるべきものがなく、あるはずのないものがある。その事実に、頭が沸騰しそうになった。顔が、耳が、首筋まで、熱くなるのが分かる。これが、男子の身体……。 心臓をバクバクさせながら、急いで下着を履き、スラックスに足を通す。シャツを着て、ネクタイを締める。……締め方が分からない。何度か試行錯誤して、ようやく形だけはそれっぽくなった。

鏡の前に立つと、そこには完全に「高瀬馨」がいる。 でも、中身は私。このアンバランスな事実に、眩暈がしそうだった。 「よーしっ!」 いつもの癖で、パンと両手を叩いて気合を入れる。でも、響いたのは乾いた低い音で、なんだか締まらない。

どうにかこうにか準備を終えてリビングに行くと、馨のお母さんがお弁当袋を差し出してきた。 「はい、馨。忘れ物しないでね」 「あ、ありがとう……ございます」 ぎこちなく受け取る。そのお弁当袋が、なんだか可愛らしい犬のキャラクターものなのに気づいて、少しだけ意外に思った。あいつ、こういうの好きなのか。

家を出ると、隣の家の前で「私」がオロオロしながら立っていた。 「遅い!」 「し、仕方ないだろ! ネクタイの締め方が分からなかったんだ!」 「スカートのホックも分からなかったぞ、僕は!」 「あんたねぇ!」

お互い、文句を言い合いながら、とりあえず学校へ向かう。道行く人が、私たちをちらちらと見る。当たり前だ。普段は口も聞かないクールな高瀬馨と、クラスの人気者の高井薰が、朝から並んで険悪なムードで歩いているのだから。

「なあ、高井……」 馨(in 私)が、不安そうな声で話しかけてくる。 「……何よ」 「今日一日、どうすれば……。僕、君みたいに明るくなんて振る舞えないし、女子の友達と何を話せばいいのかも……」 「私だってそうよ! 男子のノリなんて知らないし、あんたみたいに静かに本なんて読んでられない!」 「だ、だろうな……」

そこで会話が途切れた。重い沈黙。蝉の声だけが、やけにうるさく響いている。 このままじゃダメだ。絶対に。 私の持ち前のポジティブシンキングが、むくりと頭をもたげる。

「……いい? よく聞きなさい、馨」 私は立ち止まり、馨(in 私)の肩をがっしりと掴んだ。私の身体なので、当然私より小さい。その小さな肩を掴んで、真剣な顔で言い放つ。 「これは、神様がくれた試練よ」 「はあ?」 「天邪鬼な神様が、私たちにお互いのことをもっと知れって言ってるのよ! だから、今日一日は、完璧にお互いを演じきる! いいわね!」 「む、無理だ!」 「無理じゃない! やるの! あんたは私、高井薰になりきる! 笑顔で、元気よく、誰にでも挨拶する! 友達との恋バナにも適当に相槌を打つ!」 「こ、恋バナ!?」 「私はあんた、高瀬馨になりきる! クールに、無口に、基本は本を読んで過ごす! 誰かに話しかけられたら、一言二言で会話を終わらせる!」 「そ、そんな無茶な……。そもそも、君が黙っていられるとは思えないが……」 「うるさい! やるったらやるの! そして、今日の夜! 七夕祭のクライマックスにもう一度、双子神社に行く! そこで今度こそ、ちゃんとした願いを叫ぶのよ! 『私たちを元に戻してください』って! そうすれば、きっと元に戻れる! 絶対に!」

私の勢いに、馨(in 私)は完全に気圧されていた。でも、その瞳には、ほんの少しだけ、希望の光が宿ったように見えた。

「……分かった。やってみる」 「よし、それでこそよ!」 私は満足して頷くと、もう一度、いつもの癖で「よーしっ!」と手を叩いた。

こうして、私と馨の、奇妙で、最低で、そして忘れられない一日が始まった。 この時はまだ、知らなかったのだ。この「今日」という一日が、これから何度も、何度も、無限に繰り返されることになるなんて。 そして、この入れ替わりが、私とあいつの関係を、根底からひっくり返してしまうことになるなんて。

今はただ、目の前の「私」を演じきるしかない。 私は深呼吸をして、高瀬馨の顔で、無理やり口角を上げてみせた。 さあ、始めようか。地獄の一日の、始まりだ。

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