1話 七夕祭の憂鬱な朝

**語り手:高瀬 馨**

蝉時雨が鼓膜を揺らす。脳が覚醒するより先に、夏の音が意識の表面を叩いていた。視界が白む。窓から差し込む暴力的なまでの陽光が、部屋の埃をきらきらと乱舞させている。七月のある日。今日が、この町で年に一度の「七夕祭」当日であることを、俺は全身の倦怠感をもって理解した。

「おはよーっ! 今日は七夕祭だよー! カオルも早く起きなさーい!」

最悪の目覚ましだ。壁の向こう、隣の高井家から響いてくる、やかましいほどに快活な声。高井薰。俺と同じ「かおる」という読みの名前を持つ、幼なじみ。その声を聞いた瞬間、俺の気分は深海にでも沈んだかのように重くなった。祭りが憂鬱なのではない。人混みが嫌いなのは事実だが、それだけじゃない。この一日が、高井薰という存在をいつも以上に強く俺に意識させるから、憂鬱なのだ。

のろのろとベッドから這い出し、制服に着替える。鏡に映る自分は、寝癖のついた髪に、どこか不機嫌そうな目つき。我ながら華のない男だと思う。考え事をするときに前髪をいじる癖のせいで、一部だけ妙なうねりがついている。

「馨、朝ごはんできてるわよー。薰ちゃん、もうとっくに出ていったわよ」

階下からの母の声。だろうな。あのエネルギーの塊が、俺みたいにギリギリまで寝ているはずがない。トーストを口に押し込み、牛乳で流し込む。食卓に置かれた母さん手作りのお弁当袋を、無言でカバンに詰めた。これも子供の頃から変わらない。こういう何気ない日常のアイテムに、少しだけ救われている自分に気づくのは、少し気恥ずかしい。

玄関のドアを開けると、生ぬるい空気が肌にまとわりついた。そして、案の定、奴はそこにいた。

「おっそーい! もう、カオルを待ってたら日が暮れちゃうよ!」

家の前の電柱に寄りかかって、高井薰が腕を組んで俺を待っていた。白い夏用のセーラー服。風に揺れるポニーテール。太陽の光を浴びて、肌が透けるように白い。俺は咄嗟に視線を足元に落とした。心臓が妙な音を立てるのを、低気圧のせいだと自分に言い聞かせる。

「…別に待ってろなんて頼んでない」

「なによー、その言い方! せっかく幼なじみ仲良く一緒に登校しようって、この私、高井薰さまが待っててあげたっていうのに!」

「その過剰な自意識はどこから来るんだ。大体、お前と俺が仲良く登校してるのを見られる方が迷惑だ」

「なんでよ?」

「…クラスの連中に色々言われるだろ」

『高瀬と高井って、名前だけじゃなくて仲もいいよなー』。そんな言葉の裏に、『なんであんな暗い奴と、クラスの人気者の薰ちゃんが?』という侮蔑が透けて見えるのを、俺は知っている。俺は世界の解像度が高すぎるのだ。他人の無意識の悪意を、嫌というほど鮮明に受信してしまう。

「ふーん? 別にいいじゃん、なんて言われたって。私たちは私たちなんだから。それよりさ、今日の夜、七夕祭どうする? もちろん一緒に行くでしょ?」

「行かない。人混みはごめんだ」

「えー! なんでよ! りんご飴! チョコバナナ! 射的! 楽しいこといっぱいあるじゃん! 私、今年はぜーったいあの大きい景品ゲットするんだから!」

彼女は拳を握り、目を輝かせる。その屈託のなさが、俺の心を抉る。なぜ、こいつはこんなにも世界を単純に、そして肯定的に見ることができるのだろうか。俺には、祭りの喧騒も屋台の明かりも、ただただ無意味なエネルギーの浪費にしか思えないというのに。

学校までの道のり、薰は一方的にしゃべり続けた。俺は時折、理屈っぽい相槌を打ちながら、彼女の少し前を歩く。うなじにかかる後れ毛が汗で濡れているのに気づいて、また心臓が変な音を立てた。思春期特有のホルモンバランスの乱れ。そうだ、きっとそれだけの話だ。俺は思考を無理やり哲学的な方向へ向けようと試みた。プラトンのイデア論。俺が見ているこの高井薰は、本質的な薰のイデアの影に過ぎないのかもしれない…。

「ねえ、聞いてる? カオル!」

「…ああ、聞いている。お前が今年の夏、グミとプリンの新作を全制覇するという、壮大かつ無意味な計画を立てているという話だろう」

「そう! よく分かってるじゃん! カオルも付き合いなさいよね!」

可愛いパッケージに弱いという俺の秘密を知ってか知らずか、彼女は笑う。その笑顔が、夏の光よりも眩しくて、俺はまた目を逸らした。

教室は、予想通り戦場だった。俺は自分の席である窓際最後列の聖域へと避難し、文庫本を開く。そこは俺だけのシェルターだ。しかし、静寂は長くは続かない。

「おはよー、薰!」 「高井さん、昨日のドラマ見た?」 「かおるーん、今日の体育、ペア組もー!」

教室の中心で、高井薰という恒星の周りを、惑星たちがぐるぐると回っている。彼女はその中心で、太陽のように笑っていた。俺はページをめくる指に力を込める。俺は、この太陽系のはるか外側を漂う、孤独な観測衛星だ。それでいい。それがいい。

だが、その平穏は、最強の惑星によって破壊された。

「高井、おはよ。今日の七夕祭、もしよかったら俺と一緒に行かないか?」

一ノ瀬蓮。サッカー部のエースで、女子からの人気を独占する、絵に描いたような爽やかイケメン。その登場で、教室の空気が一気に色めき立つのが分かった。俺は本から目を離さなかったが、聴覚は嫌でもその会話を拾ってしまう。

「え、一ノ瀬くん? うーん、どうしよっかなー」

薰の、少しだけ媚びたような声。俺は無意識に握り拳を作り、親指を中に隠していた。緊張しているときの、俺の癖だ。

「友達と約束とかある?」

「ううん、そういうわけじゃないけど…。カオルと行こうかなーって思ってたから」

その瞬間、教室中の視線が俺に突き刺さったのを感じた。俺は顔を上げられない。ページの上で、活字が意味をなさずに泳いでいる。

「なんだ、高瀬かよ。じゃあ、三人で行くか?」

一ノ瀬は俺の方を見て、悪気なく笑った。その笑顔が、俺には嘲笑に見えた。高井薰の隣に立つ資格もない、陰気な男。お前はただの幼なじみというだけの存在だろう、と。

「…俺は行かない。高井、お前は一ノ瀬と行けばいいだろ。その方がお似合いだ」

自分でも驚くほど、冷たい声が出た。教室がしんと静まり返る。薰が何か言いたそうに口を開きかけたが、ちょうど始業のチャイムが鳴り響いた。佐藤恵子先生が、のんびりとした足取りで入ってくる。

「はいはい、席に着いてー。あら、朝から賑やかですねえ。まるで恋の鞘当てでもしているかのよう。古今和歌集にも詠まれてますよ。『思ひつつ 寝ればや人の 見えつらむ 夢と知りせば 覚めざらましを』。夢の中の逢瀬でさえ惜しいと思うのが恋心。皆さん、良い夢、見てますか?」

佐藤先生は意味ありげに俺と薰、そして一ノ瀬を見て、にやりと笑った。くそ、この教師は絶対に面白がっている。

放課後、俺はいつものように図書室にいた。喧騒から隔離されたこの場所だけが、俺の心を平穏に保ってくれる。窓の外からは、祭囃子の練習の音が微かに聞こえてくる。

一体、俺は何に苛立っているんだ? 一ノ瀬蓮に? 彼に嫉妬しているのか? 馬鹿馬鹿しい。恋愛などという非論理的な感情に、俺の思考リソースを割く価値はない。 では、高井薰に? 彼女の無神経さに腹を立てているのか? いや、彼女は昔からああだ。今に始まったことじゃない。

原因は、俺自身の中にある。 俺は、高井薰という存在が怖いのだ。 彼女は、俺が持っていない全てを持っている。明るさ、社交性、人を惹きつける引力。彼女が光なら、俺は影だ。光あるところに影ができるのは、物理法則として当然のこと。俺は、彼女の存在によって規定される、ただの影に過ぎない。 小学生の頃、運動会で転んで膝を擦りむいた俺の手を引いて、保健室まで連れて行ってくれたのは彼女だった。あの時の、少し土の匂いがする彼女の小さな手が、俺のプライドをどれだけ傷つけ、同時に、どれだけ救ってくれたことか。 あの頃から、ずっとそうだ。俺は彼女に助けられ、彼女に劣等感を抱き、そして、彼女から目が離せない。 彼女が他の男子と親しげに話すのを見ると、胸の奥がざわつく。この感情に名前をつけるなら、それは「嫉妬」という陳腐な単語になるのだろう。だが、俺はそれを認めたくない。認めてしまえば、俺という人間の輪郭が、高井薰という存在によって決定づけられてしまう気がするからだ。 俺は俺として、独立した個として存在したい。誰かの影としてではなく。

だから、彼女を避ける。彼女から距離を取る。それが、俺が俺であるための唯一の方法なのだ。 だが、心の奥底で、別の声がする。 本当は、彼女の隣にいたいんじゃないのか? 彼女の太陽のような笑顔を、一番近くで見ていたいんじゃないのか? 彼女が他の誰かのものではなく、自分だけのものになればいいと、そう願っているんじゃないのか?

「…くだらない」

俺は呟き、本を閉じた。引き出しの奥に隠してある、子供の頃に薰とお揃いで買った、色褪せたストラップのことを思い出す。あんなものを未だに捨てられない自分を、俺は軽蔑する。

窓の外は、もう夕暮れの色に染まっていた。祭りの喧騒が、少しずつ大きくなっていく。 憂鬱な夜が、始まろうとしていた。 この夜、双子神社の合わせ鏡の前で俺たちが口論になり、そして俺の世界が、物理的に、そして概念的に、完全にひっくり返されることになるなど、この時の俺は知る由もなかった。ただ、胸騒ぎだけが、やけにリアルに脈打っていた。

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