4話 地獄のスクールライフ・リピート

### **語り手:高瀬 馨(in 高井薰)**

意識が浮上する。また、この天井だ。高井薰の部屋の、ファンシーな照明がぶら下がった天井。何度繰り返したか分からない、七夕祭の朝。 身体を起こすと、ふわりと甘いシャンプーの香りが鼻をくすぐる。俺の香りじゃない。薰の香りだ。この身体に閉じ込められて、もう何日目になるだろう。ループの回数は、とっくに数えるのをやめた。

「かおるー! 朝ごはんできてるわよー! 今日は七夕祭なんだから、遅刻しないでよ!」

階下から聞こえる薰の母親の声に、俺は完璧な「薰」の声音で返事をする。 「はーい、今行くー!」 声帯は薰のものだから、裏返ったりはしない。だが、魂が拒絶反応を起こしているのか、返事をするたびに精神がごっそり削られる気分だ。

鏡の前に立つ。そこにいるのは、紛れもなくクラスの人気者、高井薰。寝癖のついた栗色の髪、少し潤んだ大きな瞳、薄い唇。思春期の男子の目には毒としか言いようのない、無防備な色気がそこにはあった。俺は無心で、ループの中で完璧にマスターしてしまったポニーテールを結い上げる。指先に触れるうなじの感触に、心臓が跳ねるのを必死で無視する。これは俺じゃない。これは薰だ。そう自己暗示をかけなければ、朝の準備すらままならない。

制服に着替える。ふくらみのある胸、くびれた腰。ブラウスのボタンを留める指が震える。この身体は、俺が知らない「女」という生き物の象徴だ。柔らかくて、温かくて、そして恐ろしく繊細で、面倒くさい。 リビングに下りると、薰の母親が「あら、今日のポニーテールも綺麗にできたじゃない。やっぱり器用ねえ」と微笑む。俺は、薰がやりそうな仕草――舌をぺろっと出して笑う――で応じる。完璧だ。完璧な「高井薰」の演技。だが、胸の内は冷え切っていた。

通学路は、それ自体が苦行だ。 「かおるん、おはよー!」 「昨日言ってたドラマ見た? やばかったよね!」 薰の友人たちが、次から次へと声をかけてくる。俺はループで得た知識を総動員して、当たり障りのない相槌を打つ。スイーツの新作、アイドルのゴシップ、恋愛ドラマの展開。俺が普段、最も苦手とする話題のオンパレード。頭の中で必死にデータベースを検索し、「薰ならこう言うだろう」という最適な回答を導き出す。思考がショートしそうだ。

教室の扉を開けると、喧騒の中心にいる「俺」――中身は薰――の姿が見えた。俺の身体で、気だるそうに窓の外を眺めている。その姿は、普段の俺そのものだ。だが、俺には分かる。あいつは今、猛烈に居心地の悪さを感じているはずだ。 俺は目で合図を送る。『地獄だ』と。 すると、「俺」は一瞬だけこちらを見て、すぐに視線を逸らした。その瞳に、ほんの一瞬だけ『お前もな』という感情がよぎったのを、俺は見逃さなかった。そうだ。これは俺たち二人だけの、共有された地獄なのだ。

### **語り手:高井 薰(in 高瀬 馨)**

重い。身体が、とにかく重い。高瀬馨の身体は、まるで鉛でできているみたいだ。目覚まし時計の音で意識が覚醒しても、すぐには起き上がれない。これが、馨が毎朝感じている倦怠感なのか。 「馨、朝よ。ご飯食べないと、また貧血で倒れるわよ」 馨のお母さんの、少し心配そうな声。私は「……ああ」と、馨が言いそうな低い声で答える。自分の声じゃない、このくぐもった声にも、もう慣れるしかなかった。

鏡に映る、寝癖のついた黒髪の少年。目つきが悪くて、無愛想で、でもどこか寂しげな顔。これが、私がずっと隣で見てきた幼なじみ。 「……なんか、ほっとけない顔してんのよね」 思わず呟くと、鏡の中の「私」が、眉間に皺を寄せた。 馨の部屋は、静かすぎる。本棚には、私がタイトルも知らないような哲学書やミステリ小説がぎっしり詰まっている。机の上は完璧に整頓されていて、まるで誰も使っていないみたいだ。私の部屋とは大違い。この静寂と秩序が、高瀬馨という人間そのものなのかもしれない。 ふと、机の引き出しの奥に、何か硬いものが指に触れた。取り出してみると、それは小学生の頃、お祭りで買ったイルカのストラップ。色褪せて、少し汚れている。そうだ、これ、お揃いで買ったんだ。私のはとっくにどこかへ行ってしまったのに、あんたは、まだ持ってたんだ……。 胸が、きゅっと締め付けられる。こんな不器用で、分かりにくい優しさを、私は今まで見過ごしてきた。

学校へ向かう道すがら、男子たちが「よぉ、高瀬!」と、やたらと肩を叩いてくる。痛い。普通に痛い。なんで男子って、こうも無駄にスキンシップが多いんだろう。 「お前、昨日のサッカーの試合見たか?」 「見てない」 「なんでだよ! めっちゃいい試合だったのに!」 興味ないからだ、なんて言えるわけもなく、私は黙ってやり過ごす。馨を演じるのは、人気者の私を演じるよりずっと難しい。何もしゃべらないでいるだけで、周囲が勝手に「クールな奴」と解釈してくれるのだから。楽なようで、息が詰まる。

そして、最悪の時間がやってきた。体育の授業。今日の種目はサッカー。 「高瀬! パス!」 サッカー部のエース、一ノ瀬蓮くんの爽やかな声が飛んでくる。やめてくれ。この身体は、運動全般が絶望的にダメなんだ! ボールは無情にも私の足元へ。どうにか蹴り返そうとした瞬間、足がもつれて、私は盛大にすっ転んだ。 「うわっ!」 「おい、高瀬大丈夫か!?」 「今日の高瀬、なんか変じゃね?」 チームメイトたちの声が突き刺さる。恥ずかしさと情けなさで顔が熱くなる。 「大丈夫か、高瀬」 すっと差し出されたのは、蓮くんの手だった。その手を取ることもできず、私は「……平気だ」とぶっきらぼうに答えて立ち上がる。蓮くんは、少し不思議そうな顔で私を見ていた。ごめん、蓮くん。私、今、あなたの好きな高井薰じゃないんだ。その中身は、あんたが一番苦手そうな、根暗で運動音痴の高瀬馨なんだよ。

### **語り手:高瀬 馨(in 高井薰)**

昼休み。俺は薰の友人たちに囲まれ、完璧な笑顔を貼り付けたまま、ほとんど味のしない弁当を口に運んでいた。 「ていうかさー、かおるんって、一ノ瀬くんとどうなのよ?」 来た。一番聞かれたくない質問。俺は内心で悲鳴を上げながら、薰なら言いそうな台詞を検索する。 「えー? どうって、ただのクラスメイトだよー」 「またまたー! 絶対意識してるでしょ!」 友人たちの追及は止まらない。助けてくれ。誰か助けてくれ。 その時だった。救いの神か、あるいは悪魔か。話題の中心人物である一ノ瀬蓮が、俺たちのグループにやってきた。 「高井」 真っ直ぐに、俺――の姿をした薰――を見つめて、蓮は言った。 「今日の放課後、ちょっといいか? 大事な話があるんだ」 周囲が「キャーッ!」という悲鳴に似た歓声に包まれる。俺の顔は、きっと羞恥で真っ赤になっているだろう。だが、それは女子がするような可愛らしい赤面ではない。嫉妬と屈辱と自己嫌悪が混じり合った、泥のような感情の色だ。お前の好きな薰は、今、お前の目の前で無様に転んだ俺なんだぞ。そう叫びだしたい衝動を、俺は奥歯を噛みしめて必死にこらえた。

放課後。俺と薰(in 馨)は、示し合わせたように屋上へ向かった。人気のない、錆びついたフェンスの前。それが、今の俺たちの唯一の聖域だった。 「……もう無理だ」 俺はフェンスに額を押し付けて呻いた。 「何がどうなってんだ。一ノ瀬の奴、何を考えてやがる。あいつが好きなのはお前だろ。なんで俺に……いや、俺の姿をしたお前に、あんな……」 「私に言われても知らないわよ! こっちだって大変だったんだから! あんたの身体、マジでポンコツなんだからね! ちょっと走っただけで息切れするし、ボールは蹴れないし! 蓮くんにどれだけ心配されたと思ってんのよ!」 「ポンコツで悪かったな! 元々運動は苦手なんだよ! それより女子の会話はどうなってんだ! あれは一種の尋問か!? 常に誰かの動向を探り合って、マウンティングして! 地獄だぞ!」 「あんたがコミュ障なだけでしょ! 普通に話合わせればいいじゃない!」 「それができたら苦労はしない!」 売り言葉に買い言葉。互いの不満が、溜め込んだストレスが、堰を切ったように溢れ出す。俺たちは互いを傷つける言葉を投げつけ合った。入れ替わった身体で経験した、理不尽な苦しみを相手にぶつけることでしか、正気を保てなかったのだ。

「――実に興味深い」

その声は、俺たちの口論をぴたりと止めた。 振り返ると、そこに立っていたのは、SF・オカルト研究会の部長、宇佐美未來だった。いつもの無表情な顔で、しかしその瞳の奥には爛々とした好奇心が宿っている。手には、いつも持ち歩いている分厚いノート。未來のループ観測ノートだ。 彼女は俺たちを交互に見比べると、静かに、しかしはっきりと告げた。

「高瀬馨。高井薰。君たち二人のここ数ループに渡る行動プロファイルを分析した結果、一つの仮説が導き出された。それは、君たちの精神と肉体が、本来の組み合わせから逸脱しているという可能性。もっと端的に言おうか。単なる役割演技(ロールプレイング)にしては、行動と基礎能力の乖離が著しすぎる。高瀬馨の身体が、本来ありえないほどの社交性と運動能力の低下を示し、逆に高井薰の身体が、驚異的な論理的思考と身体能力の不調和を見せている。これはもはや、誤差や体調不良で説明できる範囲を超えている。私の仮説が正しければ……君たち、入れ替わっているだろう?」

沈黙。風の音だけが、やけに大きく聞こえる。 バレた。この女には、すべてお見通しだったのだ。 未來はノートをぱらりとめくり、俺たちに突きつける。そこには、俺たちがしでかした数々の奇行が、日付と時刻と共にびっしりと記録されていた。

「この現象が、双子神社の合わせ鏡と七夕祭という特異点が重なった日に発生し、なおかつ同一の時間軸を繰り返していることから、これは一種の時空災害、あるいは高次元存在による実験である可能性が高い。目的は不明。脱出条件も不明。だが、観測者であり被験者である君たちと、記録者である私が協力すれば、この無限回廊の出口を見つけられるかもしれない」 未來は、こともなげに言った。その瞳は、まるで難解なパズルを前にした子供のように、きらきらと輝いている。 「どうかね? この奇妙で、最高に面白い謎解きに、協力する気はないか?」

俺と薰は、顔を見合わせた。 地獄のようなスクールライフ。終わらない一日。その絶望の淵に、一本の蜘蛛の糸が垂らされた。それが、救いへと続くものなのか、それともさらなる混沌への入り口なのか。 俺たちには、まだ分からなかった。ただ、この奇妙な協力者が現れたことで、停滞していた俺たちの運命が、再び大きく動き出そうとしている。その予感だけが、夕暮れの空に溶けていくように、確かにそこにあった。

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