9話 夕凪駅の出会い

音楽室を飛び出した高槻夏帆の耳には、まだ親友の言葉が棘のように突き刺さっていた。

『あなたのせいで、音が濁る』

莉子の、あの静かで、だからこそ鋭利な拒絶。そこには何の感情も乗っていないように見えて、プロを目指す彼女の音楽への誠実さと、夏帆への失望が凝縮されていた。活発なショートヘアを揺らし、無我夢中で駆けた。廊下を曲がり、階段を駆け下りる。自分の荒い息遣いと、上履きが床を叩く音だけが、やけに大きく反響していた。

どこへ行けばいいのか分からなかった。自分の居場所が、まるで音叉を鳴らしたあとの残響のように、掻き消えてしまった感覚。学校という閉じた世界の中で、自分の存在が不協和音そのものなのだと宣告されたに等しい。

気づけば、校門を抜け、見慣れた商店街を当てもなく歩いていた。下校途中の生徒たちの楽しげな笑い声。惣菜屋から漂う揚げ物の匂い。いつもなら健太と「ソフトクリーム、どっちが奢るかじゃんけん」で盛り上がっている時間だ。しかし今、そのすべてがガラス一枚を隔てた向こう側の世界の出来事のようだった。スマホを取り出しかけて、やめた。SNSを開いて、いつものように何気ない町の風景を投稿する気力など、どこにもなかった。空っぽの自分を肯定してくれる場所なんて、どこにもない。

足は、まるで意思を持っているかのように、慣れ親しんだ道を外れ、海へと続く坂道を下っていく。潮の香りが、アスファルトの熱気と混じり合って、夏帆の鼻腔をくすぐる。やがて視界が開け、古びた木造の駅舎が見えてきた。

海が見える無人駅、夕凪駅。

錆びついた駅名表示板が、傾きかけた西日を浴びて鈍く光っている。一時間に一本しか来ない上り電車と下り電車。それ以外は、ただ静寂と潮騒だけが支配する場所。ここは、夏帆が物思いにふけるために、時々一人で立ち寄る秘密の聖域だった。

ホームに続く短い階段を上り、使い古された木製のベンチに、崩れるように座り込んだ。通学カバンを足元に放り出すと、中から母が買ってくれたポーチや、町の音を書き留めているスケッチブックが顔を覗かせた。指先が、湊先生から託された銀色のチューニングフォークの冷たい感触に触れる。

『君だけの音を探せ』

あの飄々とした音楽教師の言葉が、脳裏をよぎる。しかし、今の夏帆には、その言葉さえも残酷な冗談のように響いた。探すべき「私だけの音」なんて、最初から存在しなかったのだ。莉子には、神様から与えられたような完璧なソプラノがある。健太には、白球がミットに吸い込まれる、一点の曇りもない「本気」の音がある。そして、天宮奏には――あの、心を締め付けるように美しく、孤独なピアノの音がある。

それに比べて、自分には何がある? 中途半端な好奇心と、誰かの真似事しかできない空っぽの器。人の心をかき乱し、美しいハーモニーを濁らせるだけの、ただのノイズ。

「私の居場所なんて、どこにもない……」

呟きは、誰に聞かれるでもなく、寄せては返す波の音に吸い込まれていった。膝を抱え、顔をうずめる。溢れ出しそうな涙を、唇を噛みしめて必死に堪えた。気まずい時や不安な時に口を尖らせる癖が、今はみっともない嗚咽を堪えるための最後の砦だった。

どれくらいそうしていただろうか。不意に、自分のすぐそばに人の気配がして、夏帆は弾かれたように顔を上げた。

夕陽を背にして、一人の少年が立っていた。

逆光で表情は判然としない。けれど、そのガラス細工のように繊細なシルエットと、周囲の空気を一瞬で変える静謐な佇まいは、間違えようもなかった。

「……天宮、くん」

掠れた声で呟く。 天宮奏だった。彼もまた、この駅に何か用事があるのだろうか。驚きと気まずさで、夏帆の心臓が大きく跳ねた。莉子に言われた言葉が蘇り、自分の存在が奏の静寂をも汚してしまうのではないかと、身を縮こませた。

しかし、奏は驚く夏帆を意にも介さず、ホームの端の方へ静かに歩いていく。そして、まるでずっとそこにいるのが当たり前だったかのように、足元にすり寄ってきた一匹の野良猫の前に、ゆっくりと屈み込んだ。ごわついた茶色の毛並みの、痩せた猫だった。

奏は制服のポケットから、小さな袋を取り出した。カサリ、と乾いた音がする。彼がそれを開けると、猫は心得たように「にゃあ」と甘えた声で鳴いた。奏は無言のまま、手のひらに数粒のキャットフードを乗せ、猫の口元へと差し出す。

その光景に、夏帆は息を呑んだ。

教室で見る彼は、いつも誰をも寄せ付けない氷の壁をまとっている。感情の揺れを見せず、ただ静かに本を読んでいるか、窓の外を眺めているか。そのクールな姿は、時に人を不安にさせるほどの完璧さを持っていた。

だが今、目の前にいる奏は違った。猫の頭を優しく撫でるその指先は、音楽室で鍵盤の上を舞っていた指と同じものだ。しかし、そこに宿る響きは、拒絶のそれではなく、慈しみに満ちていた。猫がカリカリと餌を食む小さな音と、遠い潮騒だけが響いている。世界のすべての音が、その二つに収斂していくような、不思議な静寂。

彼の横顔は、夕陽に透けて、まるで知らない人のように見えた。いつも何かを堪えるように結ばれていた唇が、わずかに和らいでいる。

気まずい沈黙が、二人の間に流れていた。夏帆は何か話しかけるべきか迷ったが、どんな言葉も、この穏やかな時間を壊してしまうような気がして、口を開けなかった。自分の存在が、やはり不協和音なのだと思えた。

やがて猫は満足したのか、奏の足に一度だけ頭をこすりつけると、ひらりと身を翻してホームの裏手へと消えていった。

奏は立ち上がり、服についた土を軽く払うと、夏帆がいるベンチの方へ、初めて視線を向けた。その瞳は、夕陽を映して琥珀色に輝いていた。何を考えているのか読めない、静かな瞳。夏帆は緊張で唾を飲み込んだ。緊張すると、彼は少し髪に触れる癖があったが、今はその仕草も見せない。

奏は何も言わなかった。ただ、夏帆の少し離れた場所に、音もなく腰を下ろしただけだった。

沈黙。 しかし、先ほどまでの針の筵のような気まずさとは、少しだけ質が違っていた。彼の隣にいると、世界の喧騒から切り離されたような、奇妙な安心感があった。それは、彼が放つ静寂が、夏帆の心のざわめきを優しく吸い取ってくれるかのようだった。

「……」

「……」

響くのは、潮騒だけ。 不思議だった。莉子との決定的な亀裂の後、あれほどまでに苦しかった孤独が、奏が隣にいるだけで、少しだけ形を変える。これは、孤独の共有なのだろうか。それとも、ただの偶然が生んだ、束の間の凪なのだろうか。

やがて、遠くから踏切の警報音が聞こえ始め、レールのきしむ音が近づいてきた。下りの電車がホームに滑り込んでくる。

奏は静かに立ち上がった。彼が乗る電車なのだろう。彼は夏帆の方を振り返ることなく、開いたドアに向かって歩き出す。

「あのっ」

思わず、声が出ていた。 奏の足が止まる。彼はゆっくりと振り返った。

「な、なんで……猫に、餌なんか」 我ながら、馬鹿な質問だと思った。もっと聞きたいことはたくさんあったはずなのに。あのピアノのこと、彼が抱える影のこと。しかし、口から出たのは、そんな子供じみた問いだった。

奏は、少しだけ考えるように視線を彷徨わせた後、静かに口を開いた。

「……あいつらは、何も期待しないから」

その言葉は、まるで風に溶けるように、小さく、そしてあまりにも切実だった。

「嘘もつかない。拍手もしない。ただ、そこにいるだけだ。……それだけで、十分なんだ」

電車のドアが閉まるブザーが鳴り響く。彼はそれだけ言うと、今度こそ振り返らずに車内へと消えていった。

ガタン、と重い音を立てて電車が動き出す。窓の向こうで、彼の姿が遠ざかっていく。

残されたホームには、また夏帆一人になった。しかし、さっきまでの絶望とは、何かが決定的に違っていた。彼の言葉が、夏帆の胸の奥で静かに反響していた。

『何も期待しない』『ただ、そこにいるだけ』

それは、何者かにならなければと焦り、常に誰かと自分を比べては落ち込んでいた夏帆にとって、全く新しい価値観の音だった。

夕陽が水平線の向こうに沈みかけている。空と海が、青とオレンジのグラデーションに美しく染まっていた。 夏帆は、カバンからチューニングフォークを取り出した。そして、今度は迷わずに、そっと膝で叩く。

キィン―――。

A(ラ)の澄んだ音が、夕凪の空気に溶けていく。 その純粋な響きに耳を澄ませながら、夏帆は遠ざかっていった電車の残響と、奏の言葉と、そして、自分の心臓の鼓動を聴いていた。

まだ、自分だけの音は見つからない。莉子との関係も、どうすればいいのか分からない。 けれど。

「……もう少しだけ、探してみようかな」

ぽつりと呟いた言葉は、誰に聞かせるでもない、彼女自身の心に生まれた、新しいプレリュードだった。どんな失敗も、いつかはきっと。そう信じるにはまだ早すぎたが、砕けたと思った心の欠片の向こうに、ほんのかすかな光が見えた気がした。

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