第10話 かすかな光と本気の衝動
夕陽が水平線の際を焦がし、世界を茜色と群青のグラデーションに染め上げていた。海が見える無人駅、夕凪駅のホームは、訪れる者も去る者もなく、ただ寄せては返す潮騒の音が、古びたベンチの錆を静かに撫でていくようだった。
高槻夏帆は、そのベンチの端に座り、膝を抱えていた。莉子に突き放された言葉が、頭の中で棘のように突き刺さって抜けない。「あなたのせいで音が濁る」。自分の居場所はどこにもない。そう感じて音楽室を飛び出した足が、無意識にこの場所へ向かわせていた。ここは、物思いに耽りたいときに決まって訪れる、彼女だけの聖域だったはずだ。
だが今、その聖域には先客がいた。天宮奏。
気まずい沈黙が、二人の間に横たわっている。彼がなぜここにいるのか、夏帆には知る由もなかった。ただ、足元にすり寄ってきた三毛猫の背を、彼が切れ長の指で優しく撫でている光景だけが、現実感を伴って目に映っていた。教室で見せる氷のような仮面とは違う、穏やかな横顔。そのギャップが、夏帆の心をさらにかき乱した。
何を話せばいいのか分からない。莉子のこと、合唱部のこと、そして何より、目の前の奏のこと。考えれば考えるほど、言葉は喉の奥で絡まって、音になることを拒んだ。夏帆は無意識に耳たぶをいじり、気まずさから小さく口を尖らせる。
そのときだった。
猫を撫でていた奏の手が止まり、学生服のポケットを探った。取り出されたのは、手のひらに収まるほどの、古びた木製のオルゴールだった。夕陽の最後の光が、その表面に彫られた精巧な唐草模様を黄金色に照らし出し、鈍い光沢を放った。
夏帆は、息を呑んだ。
そのオルゴールに、見覚えがあった。いや、正確には「知っている」という感覚だ。初めて見るはずなのに、その木の手触りも、蓋を開けたときに流れるであろうメロディも、すべてを知っているような、強烈な既視感。それは、先日彼が音楽室で弾いていたピアノの旋律を聴いたときの感覚と、確かに繋がっていた。
「……それ」
思わず、声が漏れた。
「どこかで、見たことがあるような……気がする」
夏帆の呟きに、奏の肩が微かに、しかしはっきりと揺れた。彼はオルゴールを握りしめたまま、ゆっくりと夏帆の方を向く。その瞳には、いつもと同じ静かな色の中に、一瞬だけ見過ごしてしまいそうなほどの動揺が宿っていた。彼は何も答えなかった。だが、その沈黙と一瞬の反応が、夏帆の心に確かな波紋を広げた。
この沈黙は、ただ気まずいだけのものではない。何か、触れてはいけないけれど、触れなければならない秘密を孕んでいる。
「あのさ」夏帆は意を決して、言葉を続けた。「天宮くんって、いつも静かだよね。教室でも、ここで猫といるときも。でも、なんか……違う静けさっていうか。私の周りがうるさすぎるだけなのかな」
飾らない、本音だった。空気を読むより先に、心が言葉になって溢れ出た。
奏は少しだけ目を見張り、それからふいと視線を逸らして、またオルゴールに目を落とした。
「……君は、うるさいくらいが丁度いいんじゃないか」
「なにそれ、悪口?」
「褒めてる」
短く、素っ気ない返答。だが、その声には拒絶の色はなかった。むしろ、凍てついていた彼の心の表面が、ほんの少しだけ溶け出したような温かみが感じられた。
その小さな変化が、夏帆に勇気を与えた。
「私、空っぽなんだ」
独り言のように、夏帆は言った。
「莉子みたいに、プロになるっていう夢もない。健太みたいに、野球にすべてを懸けてるわけでもない。進路調査票はずっと白紙のまま。何かに本気で夢中になってる人が、すごく眩しくて……でも、どうすればそうなれるのか、全然わかんなくて。だから、莉子の本気を汚した。ただ、あなたのことが知りたかっただけなのに。そんな不純な動機で、あの子の大事な時間をめちゃくちゃにしちゃった。最低だよ、私」
言葉の堰が切れたように、想いが溢れ出す。それは誰かに聞かせるための言葉ではなく、自分自身に言い聞かせるための告白だった。
「音を探せって、湊先生は言うけどさ。私の音なんて、どこにもないよ。あるのは、みんなの音に混ざれない、ただの雑音だけ。……あなたのピアノを聴いたとき、すごいって思った。それと同時に、苦しくなった。あんな音、私には絶対に出せないから。でもね、不思議だったんだ。あなたの音は、莉子の完璧な歌とも、健太のまっすぐな投球音とも違う。もっと……もっと、独りぼっちの音がしたから」
言い終えて、夏帆ははっと息を呑んだ。なんて失礼なことを言ってしまったのだろう。踏み込みすぎた。しかし、奏は怒るでもなく、ただ静かに潮騒の音を聴いていた。やがて、彼がぽつりと呟く。
「……音を出すのが、怖い時がある」
その声は、夕闇に溶けてしまいそうなほど、か細かった。
「完璧じゃなきゃ、意味がないって。そう言われ続けてきた。期待に応えなければ、僕には価値がないって。でも、一番大事な時に、僕の音は僕を裏切るんだ。指が、心が、凍りついて動かなくなる。……このオルゴールは、昔、誰かが忘れていったものかもしれない。僕が拾ったんだ。時々、これを握りしめる。そうすると、ほんの少しだけ、あの頃に戻れる気がする。まだ、音が怖くなかった頃に」
奏はオルゴールの蓋を開けようとはしなかった。ただ、その存在を確かめるように、指でそっと撫でている。彼の抱える深い孤独が、言葉の断片となって夏帆の胸に突き刺さった。コンクールの映像で見た、彼の絶望的な沈黙の意味が、今、痛いほどに伝わってくる。
違う。この人は、独りぼっちなんかじゃない。独りぼっちに、ならされているだけだ。
その瞬間、夏帆の心の中で、何かがカチリと音を立てて繋がった。
空っぽだった心に、一つの確かな形を持つ衝動が生まれた。それは、今まで感じたことのない、熱を帯びた強い想いだった。
(この人の心を閉ざしているものを、知りたい)
あの美しいピアノを、もう一度聴きたい。彼が「怖い」と感じる音ではなく、心から楽しんで奏でる音を。そのためなら、何でもできる気がした。
(そして、莉子に認められたい)
不純な動機なんかじゃない。中途半端な気持ちでもない。莉子が命を懸けている音楽の世界に、私も、私のやり方で、本気で向き合いたい。そして、胸を張って言いたいのだ。「私も、ここにいるよ」と。
奏の孤独と、莉子の情熱。二つの全く違う音が、夏帆の中で一つのメロディを奏で始めた。それはまだ不格好で、調子っぱずれかもしれない。けれど、間違いなく「高槻夏帆」だけの音だった。
「ありがとう」
夏帆は立ち上がり、スカートの埃を払った。
「何が」
「ううん、なんでもない。……私、帰るね。やらなきゃいけないこと、思い出したから」
その声には、もう迷いはなかった。奏は少し驚いたように夏帆を見上げたが、何も言わなかった。ただ、彼の視線が、ほんの少しだけ柔らかくなったように見えたのは、きっと気のせいではない。
夕凪駅の階段を駆け下りる。背中に浴びる夕闇は、もう冷たくはなかった。心に灯った、かすかな、しかし確かな光。それは、これから始まる長い道のりを照らす、プレリュードの輝きだった。
「奏の心を閉ざす理由を知りたい。そして、莉子に認められたい」
空っぽだった心に生まれた、初めての「本気」。
この衝動が、自分をどこへ連れて行ってくれるのか。まだ分からない。けれど、一歩踏み出す理由は、もう見つけていた。どんな失敗も、きっと無駄にはならない。そう、信じることができた。
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