11話 音探しのフィールドワーク

高槻夏帆の日常は、あの日を境に、奇妙な冒険へと姿を変えた。きっかけは、音楽教師・湊誠から手渡された一本の古びた音叉。そして、「君だけの音を探せ」という、まるで禅問答のような課題だった。

空っぽの自分に焦り、意味のある何かを切望していた夏帆にとって、その課題はあまりに掴みどころがなかった。けれど、あのミステリアスな転校生・天宮奏が奏でたピアノの旋律が、まだ耳の奥で鳴り響いている。彼の音に心を揺さぶられた自分なら、あるいは。そんな淡い期待と、ほとんど自棄っぱちのような好奇心に背中を押され、夏帆はポケットに音叉を忍ばせ、あてもなく町へ踏み出した。

まず向かったのは、潮の香りが濃く立ち込める港だった。錆びた鉄の匂いと、カモメの甲高い鳴き声が混じり合う場所。夏帆は防波堤に腰を下ろし、おそるおそる音叉を取り出した。柄の部分を軽く膝に打ち付けると、キーン、という澄んだ金属音が生まれた。A(ラ)の音。湊先生が「世界の基準の音」だと言っていた響き。

その純粋な音の粒子が空気に溶けていくのを、夏帆は耳を澄ませて追った。ちょうどその時、沖合の大型フェリーが、腹の底に響くような低い汽笛を鳴らした。ボーッ、という重厚な音。夏帆は、手の中の音叉と、遠い汽笛の音を聴き比べる。高さも、質感も、響き方も全く違う。当たり前のことなのに、意識して聴き比べたのは初めてだった。

基準の音があるから、他の音との違いがわかる。違いがわかるから、それぞれの音が持つ個性が浮かび上がる。

「……なるほど」

思わず独り言が漏れた。湊先生の意図が、ほんの少しだけ分かった気がした。今までただの「音」として一括りにしていた世界の響きが、一つひとつ固有の顔を持ち始めた瞬間だった。

波が防波堤に打ち付けては砕ける音。ザアア、という寄せる音と、シュワア、と引いていく音の繊細なグラデーション。遠くで漁船のエンジンが立てる、頼もしいリズム。それらが混じり合い、一つの巨大な交響曲のように聴こえてくる。夏帆は夢中でスケッチブックを取り出し、走り書きで「音の地図」を作り始めた。

『港の朝:主旋律はフェリーの汽笛(バスーンみたいに低い)。対旋律はカモメ(ピッコロみたいに甲高い)。リズムは波とエンジン』

文字にするだけでは足りなくて、簡単な音符のような記号や、波の形を描き加える。何かに夢中になるなんて、いつ以来だろう。胸の奥で、小さな熱が生まれるのを感じた。

次に夏帆は、活気あふれる商店街へと足を向けた。ここは港とは対照的に、無数の生活音がひしめき合う場所だ。八百屋の親父さんのダミ声、魚屋の店先から流れる演歌、自転車のチリンチリンというベルの音、主婦たちの楽しげな噂話。それら全てがごちゃ混ぜになり、一つの巨大なノイズの塊となって夏帆に襲いかかる。

「うわ……すごい情報量」

あまりの音の洪水に、思わず耳を塞ぎそうになる。だが、彼女はポケットの音叉をそっと握りしめた。基準の音を心の中で鳴らす。すると不思議なことに、混沌としたノイズの中から、個別の音が分離して聴こえ始めた。

コロッケ屋の油が跳ねる、パチパチという軽快な音。乾物屋の店先で、豆を枡で計るザラザラという乾いた音。そして、夏帆の足が吸い寄せられたのは、昔ながらの駄菓子屋だった。

店先には、ラムネや麩菓子が並び、子供たちが数人、けらけらと笑いながら集まっている。夏帆もその輪に加わるように、一本の瓶ラムネを手に取った。ビー玉を押し込むと、プシュッという小気味よい音と共に、炭酸の泡が弾ける。ゴクゴクと喉を鳴らして飲み干し、空になった瓶を傾ける。

カラン、コロン。

ガラス瓶の中で、ビー玉が転がる涼やかな音。それは商店街の喧騒の中ではあまりにささやかで、ともすれば聴き逃してしまいそうな音だった。けれど、今の夏帆の耳には、その音が何よりも美しく、懐かしいものに聴こえた。幼い日の夏休み、縁側で同じ音を飽きずに聴いていた記憶が、ふわりと蘇る。

『今日の音:駄菓子屋の店先にある瓶ラムネのビー玉が転がる音。小さくて、夏の匂いがする』

スケッチブックにそう書き留め、満足して顔を上げた時だった。

「お前、最近変だぞ。そんなとこでしゃがみ込んで、何してんだ?」

聞き慣れた声に振り返ると、野球部の練習帰りだろう、ユニフォーム姿の橘健太が呆れたような、それでいて心配そうな顔で立っていた。その手には、夏帆の好物であるコーヒー牛乳が二本、握られている。

「健太……。別に、変じゃないよ。音を探してるの」 「音?」

健太は眉をひそめ、首を傾げた。その仕草が、夏帆にはたまらなく「日常」の象徴のように思えた。

「そう、音。湊先生が出した課題。よくわかんないんだけどね」

夏帆は立ち上がりながら、少し照れくさそうに笑った。健太は「ふーん」と気のない相槌を打ちながら、コーヒー牛乳の一本を彼女に差し出す。

「まあ、お前が楽しそうなら、それでいいけどよ。でもさ、あんまり根詰めんなよ。最近、ちょっと上の空っていうか、遠いとこ見てる感じがするから」

その裏表のない言葉に、夏帆は胸の奥を突かれたような気がした。健太の言う通りかもしれない。音探しに夢中になる一方で、自分の心は常に別の場所にあった。

プロの声楽家という夢に向かって、一分の隙もなく努力を続ける親友の莉子。彼女のストイックな歌声は、一点の曇りもない「本気の音」だ。それに比べて、自分のやっていることは、ただの遊びではないのか。

そして、天宮奏。彼のピアノは、聴く者の心を否応なく抉るような、痛みを伴う美しさを持っていた。あの音は、こんな日当たりの良い場所にはない。もっと深い、静かな場所で、彼一人が抱えている音だ。

二人の圧倒的な「音」を思うと、自分がこうして集めている町の音は、まるでガラクタのように思えてくる。

「……なんかさ、私だけ、何にもないんだよね」

ぽつりと、本音がこぼれた。健太は驚いたように夏帆の顔を見つめる。

「莉子はすごいよ。自分の進む道がはっきり見えてる。奏くんのピアノは、一音聴いただけでもう、特別だってわかる。健太だってそうだよ。野球に本気で、そのボールがミットに収まる音には、健太の全部が詰まってる気がする。でも、私には何もない。空っぽなの。だから、今はこうやってガラクタ集めみたいに音を集めるしかないのかなって。これが何になるかなんて全然わかんないけど、ただ進路調査票を前にため息ついてるよりは、ずっとマシな気がして……」

一気にまくし立てると、夏帆は俯いてコーヒー牛乳のパックにストローを突き刺した。気まずい沈黙が流れる。健太はこういう哲学的な話が苦手なはずだ。呆れられたかもしれない。

しかし、返ってきたのは予想外の言葉だった。

「難しいことは、俺にはよくわかんねえけどさ」

健太はガシガシと頭を掻きながら、まっすぐに夏帆の目を見た。

「お前がそうやって、何かを探してる顔、俺は好きだぜ。ガラクタ集めでも何でもいいじゃん。お前が見つけて、お前がいいって思ったもんなら、それはもう、すげえ宝物なんだって。莉子や、あの転校生とは違うかもしんないけど、お前だけの宝物だろ?だったら、誰かと比べる必要なんてねえよ。俺は、そう思うけどな」

その言葉は、まるで健太が投げるストレートのように、夏帆の心の真ん中に、何のてらいもなく突き刺さった。そうだ、比べる必要なんてない。これは私の冒険で、私の音探しなんだ。

「……そっか。そうだよね」

夏帆の表情が、ふっと和らぐ。健太はニカッと笑うと、「そうだろ?」と言って自分のコーヒー牛乳をごくごくと飲み干した。

「今度の日曜、練習試合あるから見に来いよ。お前の応援が、俺にとっての一番の『本気の音』だからさ」

そう言って走り去っていく健太の背中を見送りながら、夏帆は胸がじんわりと温かくなるのを感じた。友情。それは、時にどんな美しいハーモニーよりも心を支えてくれる、力強い音だった。

その夜、夏帆は自室の机で、スケッチブックに描いた「音の地図」を眺めていた。そして、スマホを取り出すと、今日一番心に残った風景――駄菓子屋の店先に置かれたラムネ瓶の写真を、SNSに投稿した。

『今日の音:駄菓子屋の店先にある瓶ラムネのビー玉が転がる音。小さくて、ちょっとだけ夏の匂いがした。#潮騒のプレリュード #音探し』

誰かに見せるためではない。ただ、今日の自分が見つけた、ささやかな宝物の記録として。

まだ「自分だけの音」は見つからない。でも、湊先生の音叉を握りしめた指先には、昨日までとは違う、確かな世界の感触が残っていた。灰色の世界に、少しだけ色がつき始めたような、そんな予感。夏帆の探求は、まだ始まったばかりだった。

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