12話 幼馴染の心配と本気の音

野球部の練習が終わりの号令を告げる声が、夕暮れのグラウンドに溶けていく。土埃と汗の匂いが混じり合った風が、高槻夏帆の短い髪を撫でた。グラウンドの隅では、幼馴染の橘健太がチームメイトと笑い合いながら、泥だらけのボールを磨いている。その快活な声、仲間と交わす屈託のない笑顔。そのすべてが、今の夏帆には眩しく、少しだけ遠い世界のもののように感じられた。

湊先生から「君だけの音を探せ」という奇妙な課題を与えられてから、夏帆の世界は少しずつ色合いを変え始めていた。今まで気にも留めなかった音たちが、意味を持って耳に飛び込んでくる。だが、その探求は孤独な作業でもあった。誰にも説明できない、自分だけの感覚。その感覚に深く沈むほど、健太のいる「当たり前の日常」が、輝かしいけれど手の届かない場所のように思えてしまうのだ。

夏帆は、健太たちに背を向け、ふらりと学校の裏手にある鎮守の森へと続く石段を上った。古びた鳥居をくぐると、町の喧騒が嘘のように遠ざかり、ひんやりとした静寂が満ちている。境内の中ほどにある大きな楠の下でしゃがみ込み、目を閉じた。

サアァ…、と風が幾千もの葉を揺らす音。それはまるで、巨大な弦楽器が奏でる繊細な和音のようだった。遠くで鳴くひぐらしの声。時折聞こえる、港からの汽笛。ポケットの中の音叉を握りしめ、夏帆はそれらの音に意識を集中させる。世界の基準の音なんかじゃない。でも、これも確かに、この町が奏でる音の一部だ。そう思った時だった。

「夏帆。やっぱりこんな所にいたのか」

背後からの声に、夏帆はびくりと肩を震わせた。振り返ると、ジャージ姿の健太が、帽子のつばをいじりながら立っていた。その表情には、いつもの底抜けの明るさの代わりに、戸惑いと心配の色が浮かんでいる。

「お前、最近変だぞ。練習中もぼーっとしてるし、さっきも一人でどこか行っちまうし。なんかあったのか? 俺、なんかしたか?」

そのあまりにストレートな言葉に、夏帆は胸がちくりと痛んだ。彼のせいじゃない。全部、自分の問題だ。でも、それをどう説明すればいいのかわからない。夏帆は、子供のように口を尖らせ、ただ曖昧に笑うしかなかった。

「ううん、健太のせいじゃないよ。ええと、なんて言うか……音を、探してるの」

絞り出した言葉は、自分でも馬鹿げていると思った。健太は案の定、きょとんとした顔で首を傾げている。その反応が、二人の間に見えない壁を作っていくようで、夏帆は俯いた。

沈黙が落ちる。気まずさに耐えかねた夏帆が何か言おうとした、その時だった。健太が大きなため息をつき、ガシガシと頭を掻いた。

「……そっか。まあ、お前が何やってんのか、正直、俺にはさっぱりわかんねえや」 彼の声は、呆れを含んでいるようで、でもどこか優しかった。 「哲学的なことは苦手だしな。でも、お前が何か悩んでるってことだけはわかる。なあ、夏帆。今度の日曜、うちの練習試合、見に来いよ」 「え……?」 「俺がマウンドで投げてる姿、見ててくれ。俺さ、お前がスタンドにいると、なんか知んないけど、いつも以上の力が出るんだよ。昔からそうだろ? 小学校の時、町内大会で優勝した時も、お前がくれたお守り握りしめてた。あれ、今でも持ってるんだぜ」

健太は少し照れくさそうに笑い、続けた。その瞳は、夕陽を映して真剣に輝いていた。

「俺にできることは、野球だけだ。キャッチャーミットにバシッて吸い込まれるボールの音。俺が踏みしめるマウンドの土の音。仲間たちの声。それが、俺の『本気』の全部なんだ。だからさ、それを聴きに来てくれよ。俺の、本気の音を。そしたら、お前が探してる何かのヒントになるかもしんねえだろ? ……いや、なんねえか。でも、それでもいい。ただ、お前の応援が、俺の一番の力になる。それは、絶対なんだ」

裏表のない、剥き出しの言葉。それは、湊先生がくれた澄んだ音叉の響きとは全く違う、不器用で、熱くて、少し汗の匂いがするような、人間くさい音だった。でも、その音は、迷子のようだった夏帆の心を、どんな理論や理屈よりも強く、確かに揺さぶった。

「……うん。行く。絶対、行くよ」

夏帆が頷くと、健太は「よっしゃ!」と、太陽のような笑顔を見せた。そして、「じゃあ、日曜な!」と手を振り、軽やかな足取りで石段を駆け下りていく。

一人残された境内に、再び風が吹き抜ける。夏帆は、遠ざかっていく健太の背中を見つめながら、ポケットの中の冷たい金属とは違う、温かくて力強い何かが、自分の胸の中に確かに響いているのを感じていた。それは、友情という名の、確かなハーモニーだった。

← 横にスクロールして読み進められます