13話 才能という名の壁

西日が長く伸びて、音楽室の床に金色の矩形を描き出す。空気中を舞う微かな埃が、その光の帯の中できらきらと乱舞していた。まるで目に見える音符のようだ、と高槻夏帆はぼんやり思った。彼女の手元には、湊先生から託された「音探し」の記録を書き留めたスケッチブックが開かれている。港で聞いた錆びた鎖の軋む音、商店街の八百屋の親父さんのだみ声、神社の境内で風にそよぐ楠の葉擦れ。それらは確かに、今まで気づかなかった町の音楽だった。だが、それらを並べたところで、自分の「音」と呼べるものには到底なりそうもなかった。

「――はぁ」

ため息と共に、夏帆は隣に立つ親友、相沢莉子に視線を移した。 莉子は、違う。 彼女は今、自分の世界の中心に、揺るぎない音の柱を打ち立てようとしていた。

数週間後に迫った県の声楽コンクール。プロの声楽家を目指す彼女にとって、それは夢への確かな一里塚だった。練習に臨む彼女の姿は、もはや部活動のそれではない。孤高のアスリートが試合に備えるかのような、張り詰めた静謐さを纏っている。 まず、彼女は床にヨガマットを敷き、全身のストレッチと呼吸法の訓練から始める。横隔膜の動きを確かめるように、ゆっくりと、深く息を吸い込み、吐き出す。その一連の動作には、一切の無駄も迷いもない。ショルダーバッグから取り出した練習ノートには、びっしりと青いインクで改善点や意識すべき項目が書き込まれていた。毎朝欠かさないという発声練習の記録。昨日の練習で感じた喉の微かな違和感。目標とする歌手の歌唱分析。それは、努力の軌跡そのものだった。 水筒の白湯で喉を潤し、のど飴を一つ口に含む。そして、ようやく彼女はピアノの前に立ち、基準となる音を一つ鳴らした。

「んー……」

リップロールが、震える唇から正確無比な音階となって紡がれる。低音から高音へ、滑らかに駆け上がっていく旋律は、それ自体が一つの芸術品のように澄み切っていた。続いて、母音の発声練習。 「あー、えー、いー、おー、うー……」 一音一音、まるで宝石を磨き上げるように丁寧に。その声は、音楽室の隅々にまで染み渡り、窓ガラスを微かに震わせる。それは「正しい音」だった。疑う余地のない、絶対的な正解。

その完璧な響きの隣で、夏帆は自分の声がひどく不確かで、頼りないものに感じられた。 「あ、あー……」 同じように声を出そうとする。だが、喉の奥で何かがつっかえ、声が上滑りする。莉子の声が壁となり、自分の声はそれにぶつかって砕け散る砂利のように思えた。 「私には、莉子みたいな特別な才能はないから……」 ぽつりと、自分にだけ聞こえるはずの声で呟いた。だが、鋭い聴覚を持つ莉子がそれを聞き逃すはずもなかった。 ぴたり、と彼女の歌声が止まる。 音楽室に、西日の光だけが満ちる沈黙が訪れた。

「……今、なんて言ったの」 莉子の声は、先ほどまでの歌声とは似ても似つかない、硬質で冷たい響きを帯びていた。夏帆は、しまった、と思いながらも、もう後には引けなかった。劣等感が、焦りが、堰を切ったように口から溢れ出てしまう。

「だって、本当のことじゃない。莉子はすごいよ。夢があって、そのための才能があって……毎日、どんどん上手くなっていく。それに比べて私なんて……湊先生に『音を探せ』なんて言われて、面白がって町をうろついてるだけ。まるで子供の遊びみたい。莉子の隣にいると、自分が空っぽで、どうしようもなく惨めになる……」 考え事をするときに無意識に耳をいじる癖が出た。耳たぶの冷たさが、自分の言葉の虚しさを際立たせる。

莉子はゆっくりと夏帆に向き直った。その瞳は、怒りとも悲しみともつかない、複雑な光を宿していた。彼女は大きく息を吸うと、静かに、しかし有無を言わせぬ力強さで語り始めた。

「才能……? 夏帆、あなたは才能という言葉を、どれだけ便利な言い訳だと思っているの? 私が、ただ生まれ持った何かだけで、ここに立っているとでも? 笑わせないで。あなたは知らないでしょう。私が毎朝、夜も明けきらないうちから走り込みをして、肺活量を鍛えていることも。好きな甘いお菓子だって、喉のためにずっと我慢していることも。コンクールの前は、友達との楽しいおしゃべりさえ、喉を休ませるために断っていることも。私のこの声はね、そんな日々の積み重ねの上で、血の滲むような思いで、やっと成り立っているのよ」

彼女の言葉は、一言一言が鋭い刃となって夏帆の胸に突き刺さる。

「夢があるから、楽なわけじゃない。むしろ、その夢が毎日私を追い詰めるわ。『本当にプロになれるのか』『今日の練習は正しかったのか』『次の舞台で失敗したらどうしよう』って。逃げ出したくなる夜なんて、数えきれないほどあった。でも、私は逃げない。ここで歌うって、自分で決めたことだから。それはね、夏帆、才能なんていう曖昧なものじゃない。たった一つの、『覚悟』よ」

莉子の白い頬を、一筋の涙が伝った。彼女が人前で涙を見せることなど、今まで一度もなかった。その事実に、夏帆は息を呑む。

「あなたの『音探し』が子供の遊びかどうか、私にはわからない。でも、もしあなた自身がそれを本気で『遊び』だと思っているのなら……今すぐ、この音楽室から出て行って。ここは、私にとって聖域なの。音楽は、神様は、そんな生半可な気持ちで触れていいほど、甘くはないわ。あなたのその態度は、私の覚悟に対する冒涜よ」

そこまで言い切ると、莉子は顔を背け、ピアノの鍵盤の上に置かれた練習ノートを、パタン、と閉じた。その乾いた音が、二人の間に決定的な亀裂が入ったことを告げていた。 夏帆は、何も言えなかった。 莉子の厳しさの裏にある、想像を絶する孤独と闘志。それを目の当たりにして、自分の悩みがいかに浅はかで、自己満足に過ぎなかったかを思い知らされた。親友だと思っていた。一番近くで応援しているつもりだった。けれど、自分は彼女の本当の苦しみの、その欠片すら理解していなかったのだ。

「……ごめん」

かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほどか細く、震えていた。 夏帆は、逃げるように音楽室のドアに手をかけた。振り向けなかった。もし振り返ってしまったら、憧れと嫉妬と自己嫌悪でぐちゃぐちゃになった顔を、莉子に見られてしまうと思ったから。

夕暮れの廊下は、ひっそりと静まり返っていた。窓の外、遠くのグラウンドから、橘健太の所属する野球部の掛け声が聞こえてくる。それは、夏帆が今まで「当たり前の日常」だと思っていた、健やかで力強い音だった。 でも、今の夏帆には、その音さえもが自分を責めているように聞こえた。 本気で打ち込む仲間たちの声。 自分だけが、その輪の外にいる。 空っぽの自分。音のない自分。 夏帆は、自分の喉にそっと手を当てた。声を出そうとしても、まるで鉛の塊でも詰まったかのように、息が詰まるだけだった。 才能という高い壁。その前で、自分の声は、音になる前の息のまま、静かに消えていった。

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才能という名の壁 - 青のフーガ - 誰でも作家life