第14話 マウンドの響きと心の揺らぎ
初夏の陽光が容赦なく降り注ぐ日曜日。高槻夏帆は、川沿いの道を自転車で走りながら、目の前の景色とは裏腹の、どこか落ち着かない気持ちを抱えていた。目的地は、市民球場。今日は、幼馴染の橘健太がエースとして登板する野球部の練習試合がある。
「応援に来いよ。お前の応援が一番力になる」
数日前、神社の境内で「音探し」の真似事をしていたところを見つかったとき、健太は少し心配そうな、それでいて有無を言わせぬ力強さでそう言った。彼の真っ直ぐな瞳に見つめられると、断るという選択肢はどこかへ消えてしまう。快活で、裏表がなく、太陽みたいな健太。彼との関係は、夏帆にとって当たり前の日常であり、変わることのない座標のようなものだった。
けれど、今の夏帆の心には、その座標を静かに揺るがす、別の響きが根を張り始めていた。
第二音楽室の古びたアップライトピアノ。夕暮れの光の中で鍵盤に触れていた、天宮奏の儚い横顔。彼が紡いだ、心を締め付けるように切なく、それでいてどこか温かい旋律。あの音は、一度聴いてしまったらもう忘れることのできない、不思議な引力を持っていた。まるで、ずっと昔にどこかで聴いたことがあるような、魂の記憶を呼び覚ます音。
健太のいる世界は、汗と土と歓声に満ちた、生命力溢れるフォルテッシモ。対して奏のいる世界は、静寂と憂いを纏った、ピアニッシモのフーガ。まったく違う二つの音楽が、今、夏帆の中で不協和音を奏で始めている。
球場に近づくにつれて、ブラスバンドの練習の音や、野太い声援が風に乗って聞こえてきた。その活気に満ちた音に、夏帆は少しだけ気圧される。健太に会いに行く。ただそれだけのことなのに、まるで嘘をつきに行くような後ろめたさが、ペダルを漕ぐ足を重くさせていた。
観客席の端の方に、なんとか空いている場所を見つけて腰を下ろす。じりじりと肌を焼く日差しを片手で遮りながら、夏帆はグラウンドを見渡した。白球を追う選手たちの声、金属バットが空を切る鋭い音、審判のコール。すべてがエネルギッシュで、澱みがなく、そして疑いようもなく「本物」だった。
マウンドに、健太が立つ。いつも教室で見るおどけた表情はそこにはない。相手の打者を射抜くように見据える瞳は真剣そのもので、帽子のつばの下から覗く横顔は、夏帆の知らない大人の男のそれに見えた。彼は一度大きく息を吸うと、しなやかなワインドアップから、全身のバネを使って白球を解き放った。
スパァンッ!
キャッチャーミットに吸い込まれたボールが、乾いた、しかし芯のある音を立てた。それは、ただの物理的な衝突音ではなかった。健太の情熱、鍛錬、そして勝利への渇望、そのすべてが凝縮されたような、一つの意志を持った「音」だった。
「ストライーク!」
審判の声が響き渡り、ベンチから仲間たちの歓声が上がる。夏帆は思わず息を呑んだ。これだ。これが、湊先生の言っていた「君だけの音」の一つの形なのかもしれない。誰にも真似できない、その人自身が全身全霊で奏でる、魂の響き。
健太は、まるで指揮者のように試合を支配していく。彼の指先から放たれるボールひとつひとつが、グラウンドという舞台の上で確かな物語を紡いでいた。三振を奪った時の突き上げる拳。仲間を鼓舞する力強い声。そのすべてが、彼の「本気」を証明していた。
すごい。素直にそう思った。自分にはないもの。進路調査票を前に途方に暮れ、何にも夢中になれない自分とは正反対の場所に、健太は立っている。眩しくて、少しだけ羨ましくて、そして誇らしかった。
その時だった。
健太への感動で満たされていたはずの心の片隅に、ふわりと、あのピアノの旋律が舞い降りたのは。
それはあまりに静かで、唐突な侵入だった。熱狂するグラウンドの喧騒をすり抜けて、まるで耳元で囁かれるように、奏のピアノが流れ出す。切なく、孤独で、けれど誰かに届くことを切望しているような、あのメロディ。
(――聴かないでくれ)
そう言って鍵盤の蓋を乱暴に閉ざした奏の、拒絶の中に隠された痛ましいほどの純粋さ。その記憶が、健太の放つ太陽のような光の中で、逆に輪郭を濃くしていく。
夏帆は混乱した。無意識に耳をいじる。目の前で躍動する「本気の音」に感動している自分は、紛れもなく本物だ。けれど同時に、ここにいないはずの少年の奏でた音に心を奪われている自分もまた、嘘偽りのない自分だった。
健太の音は、生きる喜びそのものだ。外へ、前へと向かうポジティブなエネルギーの塊。 奏の音は、生きる哀しみを知っている音だ。内へ、奥へと沈んでいく、魂の深淵を覗き込むような響き。
どちらも本物で、どちらも夏帆の心を強く揺さぶる。でも、それはあまりに違う響きで、両方を同時に抱えることは、まるで自分の心が二つに引き裂かれるような感覚だった。
試合は終盤、一点を争う緊迫した場面を迎えていた。ランナーを背負い、健太はピンチに立たされる。観客席の誰もが固唾を飲んで見守る中、夏帆は祈るように両手を組んだ。頑張れ、健太。あなたの音は、こんなところで途切れたりしない。
健太は、一度マウンドを外し、ロジンバッグを手に取った。そして、一瞬だけ、夏帆のいる観客席の方を見た気がした。気のせいかもしれない。けれど、その一瞬で、夏帆の心は決まった。今は、目の前の幼馴染を全力で応援しよう。
「けんたーっ!」
夏帆は、ありったけの声で叫んだ。自分の声が、グラウンドの熱狂に混じって溶けていく。その声援が届いたのか、健太はふっと口元を緩め、再びバッターに向き直った。最後の一球。彼の全身から放たれたボールは、唸りを上げてキャッチャーミットに突き刺さった。
「ストライーク!バッターアウト!」
割れんばかりの歓声と拍手。夏帆も、周りの人たちと一緒になって手を叩いた。よかった。本当によかった。胸の奥から安堵と喜びがこみ上げてくる。
試合が終わり、汗まみれの健太が、ユニフォームの肩で息をしながら夏帆の元へ駆け寄ってきた。その顔は、疲労の色よりも達成感で輝いている。
「よっ!どうだった?俺のピッチング!」
底抜けに明るい笑顔。夏帆は、その太陽を直視できないような気持ちになった。胸に込み上げてくるのは、健太への賞賛と、それと同じくらいの大きさの申し訳なさだった。
「うん、すごかった!ナイスピッチ!」
精一杯の笑顔を作って、親指を立ててみせる。けれど、その言葉がどこか上滑りしているのを、夏帆自身が一番よくわかっていた。心からの言葉のはずなのに、その裏側で、あの静かなピアノの旋律がまだ鳴り止まない。健太はこんなに真っ直ぐに、自分を見てくれているのに。自分は、彼の知らない場所で、別の音に耳を澄ませている。
その小さな罪悪感が、ちくり、と鋭く胸を刺した。
健太と別れ、一人になった帰り道。夏帆は無意識に、夕凪駅へと自転車を向かわせていた。ホームのベンチに座り、夕陽が溶けていく海を眺める。潮騒が、寄せては返す波のように、心を静かに洗っていく。
ポケットから、湊先生に渡されたチューニングフォークを取り出す。キーン、と澄んだAの音を鳴らしてみた。世界の基準の音。でも、今の私の心の中は、健太の力強い音と、奏の繊細な音がぶつかり合って、基準なんてどこにも見つからない、めちゃくちゃな和音を奏でていた。
「私の音って、なんなんだろう……」
呟きは、潮騒に掻き消された。ただ、あの音楽室で聴いたピアノの旋律だけが、夕凪の空に溶けることなく、夏帆の心の中で静かに、そして確かに響き続けていた。
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