15話 コンクール当日の静寂

週末の朝の光は、いつもより少しだけ白く、そして冷たく感じられた。高槻夏帆はスマートフォンの画面を眺め、短いメッセージのやり取りを終えると、大きく息を吸い込んだ。通学路でも、教室でも、当たり前のように隣にいる親友の相沢莉子。しかし、今日という日、彼女は遠い世界の住人になる。

『第34回 若葉クラシック声楽コンクール』

その格式張った名前が印刷されたパンフレットが、夏帆のカバンの中で重みを持っていた。プロの声楽家を目指す莉子にとって、今日は夢への大きな一歩を踏み出すための試練の舞台だ。

「本当に、来なくていいって言ったのに」

家を出る間際、夏帆は玄関で靴を履きながら、莉子との最後のメッセージを思い出していた。『集中したいから』という、彼女らしいストイックな言葉。それは気遣いなどではなく、聖域への立ち入りを禁ずる、静かで厳格な宣告だった。それでも夏帆は行く。行かなければならない、という強い衝動に駆られていた。

なぜなら、莉子の「本気」を、この目で見届けなければ、自分が抱えるこの空虚感の正体も、湊先生に突きつけられた「自分だけの音を探せ」という問いの輪郭さえも、掴めないような気がしたからだ。

バスに揺られ、市民ホールへと向かう。車窓から流れていくのは、見慣れた港町の風景。カモメが舞う埠頭、錆びたトタン屋根が続く商店街、潮の香りを運んでくる踏切。いつもなら何かしらの「音」を見つけてはスケッチブックに書き留める夏帆だったが、今日ばかりはどんな音も耳を素通りしていく。頭の中が、これから始まる非日常への緊張で満たされていた。

ポケットの中で、先日湊先生から託されたチューニングフォークの冷たい感触を確かめる。世界の基準の音。けれど今の夏帆には、自分の基準すら曖昧だった。

市民ホールは、その大理石の床と高い天井で、日常とは隔絶された空間を演出していた。着飾った人々が行き交い、ひそやかな、しかし熱のこもった会話があちこちで交わされている。夏帆は少しだけ気圧されながら、受付で受け取ったプログラムをめくった。

『ソプラノ部門 16番 相沢 莉子』

そのインクの文字が、急に親友を遠い存在へと変えてしまったようだった。いつも隣で、他愛もない話で笑ったり、夏帆の突飛な行動に呆れたりしている莉子ではない。ここにいるのは、自分のすべてを賭けてたった数分の歌に挑む、一人の芸術家だ。

客席に腰を下ろすと、舞台の真紅の緞帳が目に飛び込んできた。その向こう側で、どれほどの緊張と闘志が渦巻いているのだろう。想像するだけで、自分の心臓までが早鐘を打ち始める。

「すごい熱気だな」

不意に隣から声がして、夏帆は驚いて顔を上げた。そこにいたのは、なぜか顧問であるはずの湊先生だった。飄々とした笑みを浮かべ、まるで散歩の途中で立ち寄ったかのような気軽さで座っている。

「先生、どうしてここに? 莉子は来なくていいって…」 「指導者として、教え子の晴れ舞台を見届けないわけにはいかないでしょう。それに、君も来ると思っていましたよ、高槻さん」

湊は悪戯っぽく片目をつむいだ。 「君は今、世界のどんな音よりも、友人の『本気の音』が聴きたいはずだ。違うかな?」

核心を突かれ、夏帆は言葉に詰まる。この人はいつもそうだ。人の心の中を、まるで楽譜を読むように正確に読み解いてしまう。

やがて、コンクールが始まった。若い才能たちが次々と舞台に上がり、磨き上げた歌声を披露していく。技術の巧拙など夏帆にはわからない。けれど、声に込められた想いの熱量は、客席にまでひしひしと伝わってきた。誰もが皆、「何者か」になるために、ここに立っている。その事実が、空っぽの自分にはひどく眩しかった。

莉子の出番が近づくにつれ、夏帆の緊張は頂点に達していた。喉がからからに渇き、一度ロビーに出ようと席を立つ。ひんやりとした廊下を歩いていると、ふと、舞台袖へと続く重い扉が、ほんの少しだけ開いていることに気がついた。

吸い寄せられるように、夏帆はそっと扉の隙間に目をやった。

その瞬間、時間が止まった。

薄暗い空間の向こう、スポットライトの眩い光が漏れ込む場所に、莉子がひとり、壁に背を預けて立っていた。

目を固く閉じ、唇がかすかに動いている。それは祈りにも似た、無音のメロディ。その手には、彼女が何よりも大切にしている、母親から贈られたという緑色のシルクのスカーフが、指が白くなるほど強く、強く握りしめられていた。

いつもの溌剌とした親友の面影はどこにもない。そこにいたのは、これから戦場へと赴く戦士のような、孤高のオーラを纏った一人の表現者だった。彼女の周りだけ、空気が硝子のように研ぎ澄まされ、張り詰めている。その静寂は、あまりにも濃密で、まるで音の壁となって夏帆を押し返してくるようだった。

「…………」

息を呑むことさえ、はばかられた。

あれが、莉子の世界。 あれが、本気で夢を追う人間の放つ、音なき音。

夏帆は、自分の立っている場所と、莉子のいる場所との間に、決して越えることのできない、透明で絶対的な境界線が存在することを悟った。それは嫉妬や羨望といった単純な感情ではない。もっと根源的で、残酷なまでの断絶感。

自分の心臓が、誰かに鷲掴みにされたように、きりきりと痛む。

(これが、本気……)

夏帆の心の中で、声にならない声が響いた。

(私が探してる『音』って、こういうことなの? 自分以外のすべてを世界から切り離して、たった一人で魂を燃やす、この凍てつくような静寂のことなの? 莉子、あなたは今、どんな音を聴いているの? どんな世界を見ているの? 私には……あなたのいる場所が、光が強すぎて、あまりにも、遠いよ……)

空っぽだと思っていた自分の内側で、嵐のような感情が渦を巻く。憧れ。焦燥。そして、自分の不確かさに対する、どうしようもないほどの無力感。湊先生の言葉が蘇る。『君だけの音を探せ』。だが、こんなにも凄絶な静寂を前にして、自分はどんな音を鳴らせるというのだろうか。

そっと扉から離れ、壁に寄りかかってずるずると座り込んだ。心臓の鼓動が、まるで借り物のように大きく、不規則に耳元で鳴っている。

やがて、舞台袖から凛とした足音が響き、柔らかな光の中へと莉子のシルエットが吸い込まれていくのが見えた。そして、客席にまで届く、割れるような拍手。

16番、相沢莉子さん。曲は、ベッリーニ作曲、オペラ『夢遊病の女』より、『ああ、信じられない』』

アナウンスが、親友の名前を荘厳に告げる。

夏帆は、まだ震える足で立ち上がると、自分の席へと戻った。舞台の上、眩い光の中心に立つ莉子の姿は、もはや神々しくさえあった。

夏帆は固く拳を握りしめ、ステージを見つめる。

これから放たれる親友の「本気の音」が、自分のこの空っぽの五線譜に、痛みと憧れに満ちた、最初のプレリュードを刻みつけることになるだろう。その予感が、夏帆の全身を駆け巡っていた。

← 横にスクロールして読み進められます

コンクール当日の静寂 - 青のフーガ - 誰でも作家life