16話 完璧主义者の涙

ホールの照明が落ち、観客のざわめきが静かな期待へと昇華していく。客席の片隅で、高槻夏帆は固唾を飲んで舞台袖を見つめていた。そこには、親友である相沢莉子の姿があった。

ステージの眩い光が届かない仄暗がりの中、莉子は目を閉じ、静かに呼吸を整えている。その手には、母から贈られたという緑色のシルクスカーフが、まるで祈りのように固く握りしめられていた。毎朝欠かさない発声練習、練習ノートにびっしりと書き込まれた自己分析、規則正しい生活。プロの声楽家になるという夢のために、彼女が積み重ねてきたストイックな日々が、その凛とした横顔に凝縮されているようだった。いつも自信に満ち、目標に向かってひたむきな親友が見せる、張り詰めた静寂。その濃密な緊張感が、客席にいる夏帆の心臓まで締め付けた。

やがて、彼女の名前が呼ばれる。莉子はゆっくりと目を開き、すっと背筋を伸ばしてステージ中央へと歩み出た。一礼する姿は、寸分の隙もなく優雅で、すでに芸術品のような雰囲気を纏っていた。ピアノの伴奏が、澄んだ水滴のようにホールにこぼれ落ちる。それに導かれるように、莉子の口から、磨き上げられたソプラノが流れ出した。

その歌声は、技術的には完璧だった。一音たりとも揺らがない正確無比な音程、計算され尽くしたブレスコントロール、力強くも繊細な声量の変化。まるで精密な楽器が奏でるように、楽譜に記された音符を寸分違わず再現していく。夏帆は息をのんだ。これが莉子の「本気」の音。自分がまだ見つけられずにいる、確固たる目標に向かう人間の強さが、そこにはあった。

ホールは彼女の歌声に満たされ、静まり返っている。しかし、夏帆は胸の内に奇妙な感覚が広がるのを覚えていた。完璧だ。完璧すぎるのだ。その歌声は、クリスタルのように透明で美しいけれど、同時に氷のように冷たく、聴く者の心に触れる前に弾かれてしまうような硬質さを感じさせた。隣の席の老婦人が、思わず身じろぎしたのが視界の端に入った。前列に座る審査員たちは、腕を組んで厳しい表情を崩さない。彼らのペンは、手元の評価シートの上で、時折小さく動くだけだった。

演奏が終わり、一瞬の静寂の後、丁寧な拍手がホールを包んだ。だが、それは熱狂的な喝采ではなかった。莉子は再び深く、完璧な一礼をすると、表情を変えずに舞台袖へと消えていく。

結果発表の時、莉子は他の出場者たちと共に、再びステージに並んだ。奨励賞、優秀賞と名前が呼ばれていく中で、彼女が目標としていた最優秀賞の発表が近づく。夏帆は、まるで自分が裁定を待つかのように、手を強く握りしめた。

「奨励賞、相沢莉子さん」

その名前が呼ばれた瞬間、ホールの空気が一瞬だけ揺れた気がした。しかし、莉子は微動だにしない。彼女は毅然と一歩前に出て、審査員から賞状と小さなトロフィーを受け取った。その顔には、悔しさのかけらも見えない。ただ、礼儀正しく、そして穏やかな微笑みさえ浮かべている。その姿は、夏帆の目にはあまりにも痛々しく、現実離れして映った。

帰り道、夕暮れの光がアスファルトを長く照らしていた。夏帆は莉子の半歩後ろを歩きながら、かけるべき言葉を見つけられずにいた。「すごかったよ」「きれいな声だった」「惜しかったね」。どんな言葉も、あのステージの上で孤高に立っていた彼女の前では、陳腐で空々しく響いてしまう気がした。莉子は何も語らない。ただ、コンクール会場でそうしていたように、背筋をまっすぐに伸ばし、前だけを見つめて歩いている。その完璧な姿勢が、分厚い壁のように夏帆との間に立ちはだかっていた。

誰もいなくなった放課後の音楽室は、西日でオレンジ色に染まっていた。静寂の中、莉子は自分のロッカーに向かい、楽譜の束と練習ノートを取り出す。そのいつもと変わらない所作に、夏帆は少しだけ安堵した。きっと彼女は、この悔しさをバネに、明日からまたストイックな練習を始めるのだろう。自分には到底真似のできない、その強さこそが相沢莉子なのだから。

そう思った、次の瞬間だった。

パタン、と乾いた音を立てて練習ノートが床に落ちた。そして、莉子の身体が、まるで糸が切れた操り人形のように、その場にゆっくりと崩れ落ちた。

「莉子…?」

夏帆が声をかけるより早く、嗚咽が聞こえた。それは、今まで一度も聞いたことのない、か細く、押し殺したような泣き声だった。莉子は床に膝をつき、顔を両手で覆っている。その肩が、小刻みに、そして激しく震えていた。いつも完璧な彼女が、初めて見せる無防備な姿だった。

「なんで……。なんで、届かないの……」

絞り出すような声が、静かな音楽室に響く。

「あんなに練習した。一日も、一時間も、無駄になんかしなかった。発声も、呼吸も、ピッチも、全部……全部、完璧だったはずなのに! 努力は必ず報われるって、そう信じてきた。それだけが、私のプライドだった。それなのに……私の歌には、いったい何が足りなかったっていうの……?」

その言葉は、夏帆の胸を鋭くえぐった。莉子は、誰にも見せない場所で、たった一人、自分のプライドと戦っていたのだ。夏帆は、ただ立ち尽くすことしかできない。どんな言葉も、彼女の絶望の前では無力だった。

「才能だけじゃ、届かないこともあるのね……」

嗚咽に混じって、諦めのような呟きが漏れる。それは、才能を持つ者の傲慢さなどではなく、才能を信じて努力を重ねてきた人間が、初めて自分ではどうにもならない壁に突き当たった時の、魂の叫びだった。幼い頃、病弱だった妹を喜ばせるためにただ純粋に歌っていた自分は、もうどこにもいない。コンクールの評価という名の巨大な怪物に、心を食い尽くされてしまったようだった。

夏帆は、莉子の震える背中を見つめる。いつも自分の前を歩き、憧れであり、同時に自分の不確かさを映し出す鏡でもあった親友。その完璧な鎧が砕け散り、剥き出しになった弱い心。

「……」

夏帆は、一歩も動けなかった。不器用な慰めの言葉は、きっと彼女をさらに傷つけるだろう。空気を読まずに行動してしまう自分の性格が、この時ばかりは鉛のように重く感じられた。今はただ、彼女の涙が枯れるまで、この静寂の中で一緒にいることしかできない。

西日がさらに傾き、音楽室の床に伸びる二人の影を長く引き伸ばしていく。完璧主義者の流す涙は、決して報われなかった努力への嘆きであると同時に、本当の「音」を探すための、あまりにも切ないプレリュードなのかもしれないと、夏帆はただぼんやりと考えていた。

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