第17話 コーヒー牛乳が繋ぐハーモニー
西日が長く影を落とす放課後の音楽室は、まるで時が止まったかのようだった。つい先ほどまで声楽コンクールの喧騒と熱気に満ちていた市民ホールが、遠い異国の出来事のように感じられる。高槻夏帆は、入口のドアに半分体を預けたまま、部屋の中心でうずくまる親友の背中を、ただ見つめることしかできなかった。
相沢莉子の肩が、小刻みに震えている。その震えは、彼女がこれまで決して人前で見せることのなかった、完璧という鎧の内側にある脆い素顔そのものだった。床に散らばった楽譜の白さが、莉子の流した涙を吸い込んで滲んでいくように見える。
「才能だけじゃ、届かないこともあるのね…」
部室に戻るなり、絞り出すようにそう呟いて泣き崩れた莉子の声が、夏帆の耳の奥で何度も反響する。奨励賞。輝かしい結果のはずなのに、彼女が目指していた頂ではなかった。その事実が、莉子が積み上げてきた膨大な時間と努力の結晶を、無慈悲にひび割れさせてしまった。
かける言葉が見つからない。どんな言葉も、今の莉子にとっては薄っぺらな慰めにしかならないだろう。それに、夏帆には彼女を慰める資格などないのかもしれなかった。
『本気で歌う気がないなら、ここに来ないで。あなたのせいで、音が濁る』
数週間前、練習に身が入らない夏帆に莉子が突きつけた、氷のように冷たい言葉。あの時の莉子の瞳には、自分の音楽を汚されることへの純粋な怒りと、失望が宿っていた。天宮奏への好奇心という不純な動機で合唱部に首を突っ込み、莉子の聖域をかき乱した自分。その罪悪感が、鉛のように夏帆の足に絡みついて動けなくさせる。
どうすればいい。何を言えばいい。頭の中で言葉が空回りし、ただ時間だけが過ぎていく。考えごとをするときの癖で、夏帆は無意識に自分の耳をいじっていた。静寂が痛い。莉子の嗚咽だけが、この部屋の唯一の音だった。
その時、夏帆の脳裏に、ふと、ある味が浮かんだ。ひどく落ち込んだ日、何もかもが嫌になった時、幼馴染の健太が「ほらよ」と無言で差し出してくれた、あの甘ったるい味。理屈じゃない。正論でもない。ただ、そこにあるだけの、不器用な優しさ。
「……っ」
夏帆は、弾かれたように顔を上げた。意味も、理由も、資格も、今はどうでもいい。衝動のままに、彼女は踵を返し、廊下を走り出した。目指すは、昇降口の脇にある自動販売機。ガタン、ガタンと自分の足音がやけに大きく響く。
自動販売機の前にたどり着き、通学かばんの奥底から、母が買ってくれた小さなポーチをごそごそと探り出す。焦る指先で小銭を数え、投入口に押し込んだ。ずらりと並んだ商品のボタンの中から、迷わず同じものを二つ選ぶ。
『コーヒー牛乳』
子供っぽい甘さが特徴の、自分の大好物。莉子が普段、ストイックな自己管理のために決して口にしないものだ。それでも、今の夏帆にはこれしか思いつかなかった。ガコン、と重い音を立てて取り出し口に落ちてきた二本の紙パックを掴むと、彼女は再び音楽室へと走った。
息を切らしながら音楽室のドアを開ける。莉子は、さっきと同じ姿勢で泣き続けていた。夏帆はそっと彼女の隣に歩み寄り、何も言わずに、冷たい紙パックの一つを莉子の膝の前にことりと置いた。
莉子の嗚咽が、一瞬だけ止まる。潤んだ瞳がゆっくりと持ち上がり、床に置かれたコーヒー牛乳と、夏帆の顔を交互に見つめた。その表情には、戸惑いと、ほんのわずかな呆れが混じっているように見えた。
やがて、莉子の唇の端が、微かに綻んだ。
「……バカみたい」
涙で掠れた、それでも凛とした響きを持つ声だった。彼女はゆっくりとコーヒー牛乳を手に取ると、震える指でストローを突き刺した。
「本当に、バカよ、夏帆は……。昔から、いつもそう。私が真剣に悩んでるときに、突拍子もないことするんだから」
ひと口、ふた口とコーヒー牛乳を吸い込みながら、莉子はぽつりぽつりと語り始めた。その言葉は、夏帆の心に染み渡るように響いた。
「ごめんね。さっき、あんなこと言って。……本当は、わかってた。私がどれだけ練習しても、どれだけ完璧に歌っても、届かないものがあるって。今日のコンクールで、それがはっきりしただけ。私の歌には、心がなかった。技術だけを磨き上げた、空っぽの音だったのよ。プロになるなんて、おこがましいにも程があるわ」
自嘲するような笑みが、彼女の口元に浮かぶ。
「それに……夏帆に、嫉妬してたんだと思う。あなたには、私にないものがあるから。何にも縛られない自由なところとか、考えるより先に体が動くところとか……。天宮くんのことだって、そう。あなたが彼の隣にいると、私の知らない音楽が生まれる気がして、怖かった。だから、あんな酷いことを言って、あなたを遠ざけようとした。私の音が濁るんじゃなくて、私の心が濁ってたのよ。本当に、ごめんなさい……」
そこまで言うと、莉子は再び顔を伏せ、ぽろぽろと大粒の涙をこぼした。それは、完璧主義者のプライドが崩れ落ちた音だった。
夏帆は、自分の持っていたコーヒー牛乳のストローを口に含んだ。懐かしい甘さが、緊張で乾いた喉を潤していく。そして、静かに口を開いた。
「謝るのは、私のほうだよ」
莉子が、はっとしたように顔を上げる。
「私、ずっと莉子に憧れてた。プロになるって真っ直ぐな夢があって、そのために毎日努力してて。すっごく眩しかった。……眩しすぎて、自分の空っぽさが嫌になった。進路調査票を前にしても、私には書けることなんて何一つなかったから。だから、莉子の隣にいるのが、時々、辛かったんだ」
夏帆は自分の胸の内を、飾らない言葉で吐き出した。
「天宮くんのピアノに惹かれたのも、最初はただのミーハーな好奇心だったのかもしれない。でも、違った。彼の音を聴いた時、何か、すごく懐かしい感じがしたの。心の奥のほうで、ずっと忘れてた大事なものを思い出すような……。その正体が知りたくて、必死だった。莉子が大事にしてる音楽の時間を、めちゃくちゃにしてるってわかってたのに、止まれなかった。ごめん、莉子」
二人の間に、再び沈黙が落ちる。しかし、それは先ほどまでの息が詰まるような静寂ではなかった。互いの告白が、棘のように刺さっていたわだかまりを、ゆっくりと溶かしていく。
「夏帆」
莉子が、夏帆の名前を呼んだ。その声には、もう涙の響きはなかった。
「……あなたの音、ずれてるわよ。そこ、私が直してあげる」
それは、いつもの莉子らしい、少しだけ上から目線の、けれど最高に温かい言葉だった。夏帆の顔に、ぱっと笑顔が咲く。
「うん!お願い、先生!」
二人は顔を見合わせて、くすくすと笑い出した。涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔の莉子と、そんな彼女につられて目尻に涙を浮かべる夏帆。その笑い声は、決して美しくはなかったけれど、音楽室の空間を確かな温もりで満たしていった。
夏帆は、窓の外に広がる港を見つめた。夕陽が海面に反射して、きらきらと光の帯を作っている。湊先生の「君だけの音を探せ」という言葉が、不意に心に甦った。
完璧な技術の音。挫折して流す涙の音。本音をぶつけ合う不格好な声。そして今、二人で笑い合うこの音。どれもが、嘘偽りのない、本物の音だ。
音とは、楽譜の上にある記号や、正確なピッチのことだけを指すのではない。誰かを想う心、ぶつかり合う感情、分かち合う温もり。そのすべてが合わさって生まれる、魂の響きそのものなのだ。
夏帆は、空になったコーヒー牛乳のパックを、くしゃりと握りしめた。
「莉子。私たち、もう一回歌おう。今度は、私たちの音で」
その言葉に、莉子は力強く頷いた。西日に照らされた二人の影が、床の上で一つに重なる。砕かれたハーモニーは、今、より深く、より温かい響きを伴って、新たなプレリュードを奏で始めようとしていた。
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