第18話 ウェブの海で見つけた真実
「あなたのせいで、音が濁る」
親友の、相沢莉子の放った言葉が、割れたガラスの破片のように高槻夏帆の心に突き刺さったまま、抜けない。音楽室を飛び出して、どれくらい時間が経っただろうか。学校の廊下を当てもなく歩く足音だけが、やけに空虚に響いていた。
居場所がなかった。熱中できる何かを持たない自分が、ずっとコンプレックスだった。そんな空っぽの私に、湊先生は「君だけの音を探せ」と言った。そして、天宮奏のピアノが、その道標になるかもしれないと思わせてくれた。ようやく見つけた、本気になれるかもしれない場所。それが合唱部だったのに。
結局、私はそこでも異物だったのだ。奏への好奇心という不純な動機。プロを目指す莉子の隣で、私はあまりに無防備で、無力で、そして邪魔なだけの存在だった。彼女の言う通りだ。私の音は、きっと濁っている。中心を見つけられず、ただ揺れているだけの、不快なノイズ。
思考が渦を巻くたびに、耳をいじる癖が出た。ざらりとした耳たぶの感触だけが、かろうじて現実感を繋ぎとめてくれる。ふと顔を上げると、目の前に「図書室」のプレートがあった。逃げるように、吸い込まれるように、重い扉を押し開ける。
ひんやりとした空気。古紙とインクの匂い。そこは、世界から切り離されたような静寂に満ちていた。外の喧騒も、自分の心の騒音も、この空間だけは届かないような気がした。窓際の席が、夕暮れ前の淡い光に照らされている。夏帆は、まるで亡霊のようにその席へ向かい、閲覧用のノートパソコンを開いた。
何がしたいのか、自分でもわからなかった。ただ、このままではいけないという焦燥感だけが、彼女を突き動かしていた。奏のことを知らなければ。彼がピアノを弾けなくなった理由。あの美しい音色を奏でながら、なぜあれほど苦しそうな顔をするのか。それを知れば、何かが変わるかもしれない。莉子に突き放された私が、奏を理解しようだなんておこがましい。それでも、そうせずにはいられなかった。それは、奏のためというよりも、ほとんど自分自身のためだった。
検索窓に、震える指で文字を打ち込む。
『天宮 奏 ピアノ』
エンターキーを押すと、画面に無数の記事が羅列された。その見出しのどれもが、彼の才能を賞賛するものだった。 「十年に一人の神童、天宮奏が描く音の世界」 「若きマエストロ、ヨーロッパの舞台へ」 「彼の指は、鍵盤に魔法をかける」 そこにあるのは、夏帆の知らない、光り輝く世界の天宮奏だった。クラスでの彼とはまるで別人だ。誰をも寄せ付けない静かな佇まいの奥に、これほどの喝采を浴びる過去が眠っていたのか。ページをスクロールする指が、無意識にリズムを刻む。カツ、カツ、とマウスのホイールが乾いた音を立てる。
そして、その記事は唐突に現れた。
『神童、ステージで沈黙。全国ピアノコンクール決勝、演奏中断の波紋』
心臓が、大きく跳ねた。クリックする指先に、嫌な汗が滲む。ざらついた画質の記事写真には、豪華なホールの舞台で、グランドピアノの前に立ち尽くす小さな少年が写っていた。顔は俯いていて見えない。ただ、その小さな背中が、世界のすべての重圧を一身に背負っているように見えた。
記事を貪るように読む。そこには、最終選考、優勝候補最右翼、将来を嘱望された天才少年、という言葉が並んでいた。演奏曲はショパン。その超絶技巧を完璧に弾きこなしていた彼が、クライマックスを目前にして、突然、糸が切れた人形のように指を止めたこと。数分間の沈黙の後、審査員に促されても動けず、結局、舞台袖に消えていったこと。その一部始終が、冷静な、しかしどこか残酷な筆致で記録されていた。
記事の末尾に、小さな動画のサムネイルが埋め込まれていた。再生ボタンの上に、マウスカーソルが乗り、止まる。これを見てはいけない。他人の心の傷を、安全な場所から覗き見るような行為だ。しかし、指は夏帆の意思とは裏腹に、クリックしていた。
イヤホンを耳に差し込む。カバンから取り出した、母が買ってくれたいつものポーチ。その中から取り出したそれは、ただの付属品のはずなのに、今だけは外部の音を遮断し、奏の過去と自分を繋ぐ唯一の回路のように思えた。
映像が始まる。少し色褪せた画面の向こうに、壮麗なコンサートホールが広がる。客席は満員だ。ざわめきの中、司会者の声が高らかに響く。 「エントリーナンバー七番、天宮奏さん。曲は、ショパン作曲、練習曲作品十より第四番、および第十二番『革命』です」 拍手の中、舞台袖から現れたのは、まだ少年と呼ぶのがふさわしい、幼い奏だった。ぶかぶかのタキシードに身を包み、緊張を押し隠した硬い表情で一礼する。その姿は痛々しいほど小さく見えた。
彼がピアノの椅子に座り、鍵盤に指を置く。深く息を吸い込んだ瞬間、ホールの空気が変わった。先ほどまでのあどけない少年は消え、孤高の芸術家の貌がそこにあった。
一音目が鳴る。激しく、嵐のようなパッセージ。それは、夏帆が音楽室で聴いた、あの切なく美しい旋律とは全く違う、圧倒的な技巧と情熱の奔流だった。指が、鍵盤の上を信じられない速さで舞う。叩きつけられる和音は雷鳴のようでありながら、その一音一音は水晶のように澄み渡っている。これが、彼の本当の音。これが、天才。 夏帆は息をすることさえ忘れていた。隣の席で楽譜を追い、プロになるのだと語る莉子の姿が重なる。グラウンドで白球に全霊を懸ける、幼馴染の健太の姿も。彼らの放つ「本気」の輝き。今、画面の中の奏が放っている光は、それらとは比較にさえならない、触れれば火傷してしまいそうなほどの灼熱の光だった。
『革命』のエチュード。左手が奏でる、嵐のようなアルペジオに乗って、右手の旋律が悲痛な叫びを上げる。苦悩と、抵抗と、絶望。そのすべてが、少年の小さな指先から溢れ出し、ホールを満たしていく。
そして、クライマックスを目前にした、ほんの一瞬の静寂。次の瞬間、嵐は再び訪れるはずだった。
だが、音は、二度と響かなかった。
奏の指は、鍵盤の数ミリ上で、凍りついたように停止していた。 何が起きたのかわからず、ホールは息を呑んだような静寂に包まれる。一秒、二秒、十秒。時間は永遠のように引き伸ばされる。画面の中の奏は、鍵盤をただじっと見つめている。その黒と白の板が、彼を拒絶する巨大な壁にでも見えているかのように。
やがて、客席から小さなざわめきが起こる。ひそひそと交わされる囁き声が、波紋のように広がっていく。その無数の視線が、針となって少年の背中に突き刺さるのが、画面越しにいる夏帆にさえわかった。 カタ、カタ、という乾いた音が響き始める。カメラのシャッター音だ。無遠慮なフラッシュが、何度も、何度も、白い光を放って彼の孤独な姿を焼き付けようとする。その光の暴力に、奏の肩が微かに震えた。
「……っ」
夏帆は、思わずイヤホンを耳から引き抜いた。自分の心臓が、早鐘のように鳴っている。画面の中の奏の、絶望に歪んだ顔が目に焼き付いて離れない。彼の瞳から、光が消えていた。期待という名の光を浴びすぎた結果、その光そのものに焼かれて、燃え尽きてしまったかのように。
これが、彼のトラウマの全てだった。 「人前では、二度と弾かない」 そう言った彼の声が、脳内で再生される。あの拒絶は、虚勢でも何でもなかった。魂の叫びだったのだ。
夏帆は、静かにブラウザを閉じた。パソコンの電源を落とすと、図書室の静寂が耳に流れ込んでくる。窓の外は、すでに茜色に染まっていた。港から吹いてくる風が、窓をカタカタと揺らす。その音が、まるで誰かのすすり泣きのように聞こえた。
「完璧じゃなければ、意味がない」
いつか奏が吐き捨てた言葉が、今ならわかる。彼にとってピアノは、喝采を浴びるための道具であり、期待に応えるための責務だったのだ。そして、一度でも失敗すれば、すべてが無価値になる、あまりにも過酷な世界。
その言葉は、ブーメランのように夏帆自身に突き刺さった。「何者かにならなければ」と焦る自分。特別な才能を持つ莉子に嫉妬し、自分を卑下する自分。奏を救いたいなんて、なんて傲慢だったのだろう。彼が背負ってきたものの重さを、私は何一つ理解していなかった。
でも、と夏帆は思う。 どんな失敗も、いつかは素敵な思い出になる。人生の礎になる。 それは、まだ何者でもない自分が、自分に言い聞かせてきたおまじないのような言葉だった。でも、この言葉がもし本当なら。奏のこの絶望的な失敗も、いつか、何かの始まりになることだってあるんじゃないだろうか。
立ち上がり、窓辺に立つ。夕陽が、港の海面を黄金色の道のように照らしていた。あの道の先へ、行かなくては。
奏の痛みの音を、私は聴いてしまった。 ならば、次に私が鳴らすべき音は、一つしかない。
夏帆はカバンを掴むと、決意を秘めた足取りで図書室を後にした。彼の心が安らぐ、たった一つの場所。潮騒と、猫と、沈みゆく夕陽だけがある、あの場所へ。すべての真実を知った今、もう一度、彼と向き合うために。
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