19話 夕凪駅の激しい拒絶

莉子に突き放された言葉の棘は、まだ高槻夏帆の胸の奥深くに突き刺さったままだった。音楽室を飛び出してからの記憶は曖昧で、気づけば潮の香りが濃密に漂う場所にいた。錆びついた線路が夕陽を鈍く反射し、ホームの向こうには凪いだ海が広がっている。海が見える無人駅、夕凪駅。物思いにふけるためによく立ち寄るこの場所が、今日に限っては逃げ場所のように感じられた。

自分の居場所はどこにもない。莉子の厳しい声が、寄せては返す波の音に重なって聞こえる。本気で歌う気がないなら、来ないで。あなたのせいで、音が濁る――。

「……そんなこと、言われたって」

口を尖らせ、夏帆はホームのベンチにどかりと腰を下ろした。空っぽだった自分に、ようやく見つけられたかもしれない「本気」の欠片。それが天宮奏という存在であり、彼の奏でる音楽だった。図書室のパソコンで見つけた、数年前のコンクールの映像。神童と呼ばれた少年が、大観衆の前で沈黙する姿。あの痛々しい光景が、夏帆の心を捉えて離さない。

彼を救いたい、なんておこがましいのかもしれない。でも、放っておけなかった。彼の痛みに寄り添うことが、莉子に拒絶された自分自身の存在証明になるような気さえしていた。打算よりも直感。自分の気持ちにだけは正直でいたい。それが、中途半端な自分を変えるための、唯一の道しるべだった。

「奏くん……」

夏帆は立ち上がり、ホームの端から線路の向こうを見渡した。彼もまた、心を閉ざしたい時にはこの駅に来る。そんな予感が、確信に近い形で胸をざわめかせていた。

予感は当たっていた。 ホームの隅、海を背にしたベンチに、奏はいた。その足元には、どこから集まってきたのか、数匹の野良猫たちが喉を鳴らしている。彼はポケットから取り出したキャットフードを静かに手のひらに乗せ、猫たちがそれを食むのを、ガラス細工のように繊細な横顔でじっと見つめていた。その姿は、教室で見せる近寄りがたい雰囲気とはまるで違う、驚くほど穏やかなものだった。まるで、世界で唯一心を許せる相手と過ごしているかのように。

遠い潮騒と、猫が餌を食む小さな音だけが響く。夏帆は一瞬、声をかけるのをためらった。彼の聖域に、土足で踏み入るような気がしたからだ。だが、彼女は一歩、また一歩と、意を決して近づいていく。

「……天宮くん」

夏帆の声に、奏の肩が微かに揺れた。猫たちの輪からゆっくりと顔を上げた彼の瞳には、一瞬の安らぎが消え、いつもの硬質な光が戻っていた。

「高槻さん。……何か用?」 「ううん、用っていうか……偶然。私も、たまに来るから、この駅」

我ながらぎこちない嘘だった。奏は何も言わず、ただ静かに視線を逸らす。その隣に、夏帆は少し距離を置いて腰を下ろした。気まずい沈黙が、夕暮れの空気に重く溶けていく。

「猫、好きなんだね」 「……別に」

短い返事。けれど、彼の指先が名残惜しそうに三毛猫の背を撫でるのを、夏帆は見逃さなかった。

「私、見たんだ。ネットで……昔の、ピアノコンクールの記事」

思い切って切り出すと、空気が凍りついた。奏の指がぴたりと止まり、彼の周囲から温度が失われていくのが肌で感じられる。

「あの時……何があったの? もし、よかったら……」 「……やめてくれ」 「でも、私、力になりたい。天宮くんのピアノ、好きだから。あの音楽室で聴いた曲、すごく……」

言葉を重ねようとした夏帆の声を遮り、奏が立ち上がった。彼の表情は、能面のように凍りついている。

「君に、僕の何がわかる」

それは、今まで聞いたこともないほど冷たく、鋭利な響きを持った声だった。

「同情のつもりか? それとも、ただの好奇心? どっちにしろ、不愉快だ。僕の過去を面白半分で詮索するのはやめてくれ。君みたいな、いつも明るくて、悩みなんてなさそうな人間に、僕の苦しみがわかるはずがない」

夏帆は息を呑んだ。莉子の言葉とは違う、もっと根源的な拒絶。まるで鋭いナイフで心を抉られるような痛みだった。それでも、ここで引くわけにはいかなかった。

「そんなんじゃない! 私はただ、純粋に……!」 「純粋に、何だ!」

奏の声が、夕凪駅に激しく響き渡った。彼の瞳は苦悩と怒りで揺らぎ、その端正な顔は痛々しく歪んでいる。

「君は知らないだろう! 期待されるのが、どれほど怖いことか! 周りの人間が僕を『神童』だの『天才』だのともてはやすたびに、僕の身体には見えない鎖が巻き付いていくんだ! 完璧でなければ、意味がない。たった一つのミスタッチも許されない。ステージに上がると、何千もの視線が針のように突き刺さってくる。あいつらは音楽を聴いているんじゃない、僕の失敗を探しているんだ! 完璧な演奏をすれば、彼らは満足して拍手喝采を送る。でも、それは僕の音楽じゃない! 彼らが求める『完璧』という偶像に、僕が音を捧げているだけだ!」

彼は苦しげに胸元を掴み、呼吸を乱した。緊張からか、無意識に髪を触れる癖が出ている。

「僕の音が、僕を裏切るんだよ! あれだけ愛したはずのピアノが、ある瞬間から、僕を裁くための道具に変わってしまったんだ! 鍵盤は断頭台で、僕の指はその上で踊る道化だ! 音を出すのが怖い。一音一音に、世界中の非難が込められているように聞こえる。拍手も、賞賛も、すべてが僕を嘲笑う声に聞こえるんだ! 君に……君にわかるか!? 自分のすべてだったはずのものに、裏切られる絶望が!」

魂を絞り出すような叫びだった。それは、彼の心の奥底に封じ込めていた、誰にも見せたことのない傷口そのものだった。吐き出された言葉の数々は、あまりに生々しく、痛みに満ちていた。

夏帆は、ただ立ち尽くすことしかできなかった。返すべき言葉が見つからない。彼女の抱いていた「力になりたい」という想いが、いかに浅はかで、自己満足に過ぎなかったかを思い知らされた。彼が背負う闇は、彼女が想像していたよりもずっと深く、冷たかった。

奏の言葉は、夏帆自身の心の弱さをも容赦なくえぐり出す。「何者かにならなければ」と焦る自分。「特別な才能」に憧れ、持たざる自分を嘆く心。奏の「完璧じゃなければ意味がない」という叫びは、まるで夏帆自身の「内なる敵」の声のように響いた。

奏は、ぜえぜえと肩で息をしながら、軽蔑とも絶望ともつかない瞳で夏帆を見つめた。 「……もう、僕に関わらないでくれ」

その言葉を最後に、彼は背を向け、駅の階段を駆け下りていく。残されたのは、彼の言葉によってずたずたに引き裂かれた夏帆の心と、すべてを見透かすように静まり返った夕暮れの海だけだった。

遠ざかっていく彼の背中が、夕闇に溶けて見えなくなる。ホームに一人取り残された夏帆の頬を、一筋の冷たい涙が伝った。それは、自分の無力さへの涙か、それとも彼の深い孤独に触れたことへの涙か、彼女自身にもわからなかった。

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夕凪駅の激しい拒絶 - 青のフーガ - 誰でも作家life