20話 “内なる敵”との対面

夕凪駅のホームに残されたのは、背中を震わせる天宮奏の拒絶と、打ち寄せては返す潮騒の音だけだった。高槻夏帆は、その場に立ち尽くしたまま、動けずにいた。

「君に僕の何がわかる!」

奏が苦しげに吐き出した言葉が、冷たい刃となって夏帆の胸に突き刺さっている。期待されるのが怖い。完璧じゃなければ意味がない。僕の音が、僕を裏切るんだよ――。その悲痛な叫びは、まるで呪いのように彼女の頭の中で反響し、思考を麻痺させていた。

力なくホームを離れ、海沿いの道をあてもなく歩く。夕暮れが迫り、空と海が溶け合う境界線は、哀しいほどに美しいグラデーションを描いていた。いつもなら、この景色に心を奪われ、スケッチブックに「音の地図」を書き留めただろう。だが今の彼女には、風の音も、遠い汽笛も、ただ心を掻き乱すだけの不協和音にしか聞こえなかった。

奏を救いたい。力になりたい。その一心で、彼のトラウマの正体を探り、必死で手を伸ばしたつもりだった。けれど、結果はこれだ。彼の最も触れられたくない傷口に、土足で踏み込んでしまっただけではないか。無遠慮で、独りよがりで、なんて傲慢だったのだろう。自己嫌悪が、じわりと足元から這い上がってくる。

考えごとをするとき、無意識に耳をいじる癖が出た。指先が冷たい。奏の言葉は、なぜこれほどまでに私を揺さぶるのだろう。

『完璧じゃなければ意味がない』

その言葉が、不意に別の記憶の断片と重なった。

プロの声楽家を目指す親友、相沢莉子の姿だ。毎日欠かさない発声練習。寸分の狂いもなく積み重ねられる完璧な音階。練習ノートにびっしりと書き込まれた自己分析。彼女は、いつだって「完璧」であろうと努力を続けている。そのひたむきな姿は、夏帆にとって憧れそのものだった。光り輝く、確かな目標。

それに比べて自分は?

進路調査票の、あの真っ白な空欄が脳裏をよぎる。何にも本気になれない。何者にもなれない。空っぽの自分。莉子の隣にいると、その輝きが眩しすぎて、自分の輪郭が曖昧に溶けていくような焦燥感に駆られた。「あなたのせいで、音が濁る」。音楽室で莉子に突き放された時の言葉が、奏の拒絶と重なり合って、胸の奥で鈍い痛みを立てる。

そうだ。私もずっと、恐れていたんだ。

莉子のような「完璧」な存在になれない自分を。 野球にすべてを懸ける健太のような「本気」の音を出せない自分を。 何者かにならなければ、ここにいる意味がない。価値がない。そう、心のどこかで思い込んでいた。だから必死だった。湊先生に与えられた「君だけの音を探せ」という課題に、まるで溺れる者が掴む藁のようにしがみついた。

その時、夏帆は雷に打たれたように悟った。

奏の苦しみは、他人事ではなかったのだ。

奏は「才能」という名の重圧に押し潰され、「完璧」でなければ存在価値がないと信じ込んでいる。 私は「無才」という名の空虚さに怯え、「何者か」にならなければ存在価値がないと思い込んでいる。

立っている場所は正反対かもしれない。けれど、見上げている絶望の空の色は、きっと同じだ。自分自身の存在を、ありのままに肯定できないという、根源的な苦しみ。

「……そっか」

か細い声が、自分の唇から漏れた。

「奏くんを救いたい、なんて……なんて、おこがましかったんだろう」

夏帆は、その場にゆっくりとしゃがみ込んだ。アスファルトの冷たさが制服越しに伝わってくる。

「私が救いたかったのは、奏くんじゃない。奏くんの苦しそうな姿に、勝手に自分の姿を重ねて……どうしようもなく空っぽで、何者にもなれなくて焦ってる、私自身を救いたかったんだ……」

独白は、誰に聞かせるともない魂の告解だった。

奏がピアノを弾けなくなったのは、コンクールでの失敗や、聴衆からの期待という『外なる敵』のせいだけじゃない。本当の敵は、もっと厄介で、もっと根深い場所にいる。それは、彼自身の心の中に巣食い、「完璧であれ」「失敗は許されない」と四六時中囁き続ける、冷たい声。それこそが、彼の『内なる敵』だ。

そして、その敵は、私の心の中にもずっと棲み着いていたのだ。「莉子みたいにならなきゃ」「健太みたいに本気にならなきゃ」「早く、何者かにならなきゃ」。そうやって私を急かし、追い立て、空回りさせてきた声。私がずっと感じてきた焦燥感の正体。

奏に手を差し伸べようとした私は、自分自身を縛りつけているのと同じ鎖の存在に、気づいてすらいなかった。同じ檻の中にいる囚人が、もう一人の囚人に「ここから出してあげる」と言っているようなものだ。滑稽で、惨めで、涙さえ出なかった。

ポケットの中で、湊先生から託されたチューニングフォークが指に触れた。取り出して、そっと膝の上で鳴らしてみる。

キーン……。

澄み切ったA(ラ)の音が、夕暮れの空気の中に溶けていく。 「世界の基準の音だよ」 飄々とした湊先生の声が蘇る。 「正解を探すな。君だけの音を探せ」

正解を探すな……。その言葉の本当の意味が、今なら少しだけわかる気がした。 完璧じゃなくていい。誰かと同じにならなくてもいい。基準はあっても、それが唯一絶対の正解じゃない。世界には、星の数ほどの音があって、そのどれもが、ただそこに「在る」ことを許されている。

奏を救う、なんて大それたことじゃない。 私がすべきことは、まず、私自身の心に棲み着く『内なる敵』と向き合うことだ。そして、奏が彼の『内なる敵』と向き合うのを、ただ隣で見守ることなのかもしれない。救うのではなく、共に在ること。手を引いて導くのではなく、隣で、同じ歩幅で歩くこと。

顔を上げると、港の灯りがちらほらと点り始めていた。空は深い藍色に染まり、一番星が瞬いている。 潮騒の音が、先ほどとは違う響きで耳に届いた。それはもう、心を乱す雑音ではない。寄せては返す波の音が、まるで巨大な生き物の呼吸のように、ゆったりとしたリズムを刻んでいる。不完全で、決して同じ形を繰り返さない、けれど確かにそこに在り続ける、この町だけの音。

「私の音は、まだどこにもない。空っぽのまま。でも……」

夏帆はゆっくりと立ち上がった。スカートについた砂埃を手で払う。

「でも、それでいいのかもしれない。空っぽの五線譜だからこそ、これから、どんなメロディだって描けるんだから」

そうだ、と彼女は思う。莉子には莉子の、健太には健太の、そして奏には奏の音楽がある。私には、私の音楽を見つければいい。それは、誰かと比べるものでも、誰かに評価されるためにあるものでもない。ただ、私が私であるための音。

奏に会って、伝えなければ。 救いたいんじゃない。あなたの音が聴きたい。あなたの隣で、私の音を響かせてみたい。不完全で、ぎこちなくても、二つの音が重なれば、きっと一人では聴こえなかったハーモニーが生まれるはずだから。

心の中で絡まっていた糸が、するりと解けていくような感覚があった。視界が、ほんの少しだけ開けた気がする。 夏帆は、自分の胸をトンと叩いた。空っぽだと思っていた場所から、確かな鼓動が伝わってくる。これが、今の私の、始まりの音。

彼女は踵を返し、学校へと続く坂道を、今度はもう迷いのない足取りで歩き始めた。空っぽの心に、初めて「本気」の衝動が生まれた、あの夕暮れの出会いを思い出しながら。まだ見ぬ自分だけのシンフォニーが、ここから始まる。その確かな予感が、彼女の背中を優しく押していた。

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