21話 忘れ物のノートと『青のフーガ』

五月も終わりに近づいた、雨の日の放課後だった。 灰色の雲が空を覆い尽くし、窓ガラスを叩く雨粒の音だけが、第二音楽室の静寂を際立たせている。湿った空気が肌にまとわりつき、グランドピアノの黒い塗装はいつもより深く、物憂げな光を吸い込んでいた。

「じゃあ、また明日」

壁際の椅子に置いた鞄を肩にかけ、天宮奏は短くそう告げた。その声は雨音に溶けてしまいそうなほど静かで、いつも通り表情は硬い。彼がドアを開けて廊下へ消えると、残された高槻夏帆と相沢莉子の間には、ピアノが鳴り止んだあとの余韻のような沈黙が落ちた。

「はぁ…今日も疲れた…」

夏帆は椅子に深くもたれかかり、大きく伸びをする。莉子はそんな夏帆を横目に、練習で使った楽譜を丁寧な手つきでクリアファイルに収めていた。その一つ一つの動作に、彼女の音楽に対する真摯さが滲み出ている。

「あなた、また最後のハーモニー、半音ずれてたわよ。集中力が足りないんじゃない?」 「うぐっ…わ、わかってるって。明日はちゃんとやるから」

莉子のストイックな指摘に、夏帆は子供のように口を尖らせる。合唱部に入って数ヶ月。奏のピアノと莉子の歌声に引っ張られるように、夏帆も少しずつ音を重ねる楽しさを見出し始めていた。だが、何かに夢中になる莉子や、才能という名の深い森に棲む奏と比べると、自分はまだその入り口でうろうろしているだけのような気がして、時折焦りが胸をよぎる。

帰り支度をしようと立ち上がった夏帆の視線が、ふと奏が座っていたピアノの椅子に留まった。そこには、一冊のノートがぽつんと置き忘れられている。使い込まれて角が丸くなった、黒い表紙のノートだ。

「あ、莉子! 天宮くん、ノート忘れてる!」

夏帆が駆け寄ってそれを手に取ると、莉子も「あら本当。大切な作曲ノートかもしれないわ。早く追いかけて届けてあげないと」と眉をひそめた。 ノートはずしりと重かった。表紙には何も書かれていないが、長年使い込まれたことで生まれた染みや傷が、持ち主の格闘の歴史を物語っているようだった。夏帆は、まるで奏の心そのものに触れているような気がして、ごくりと唾をのんだ。

「…夏帆? どうしたの、早くしないと追いつけなくなってしまうわよ」 「…うん、わかってる。わかってるんだけど…」

夏帆の指が、ノートの表紙をためらいがちに撫でる。あの音楽室で聴いた、心を締め付けるようなピアノの旋律。人前では決して弾かないと誓った彼の、魂の叫びのような音。その源泉が、この一冊に詰まっているのかもしれない。知りたい。その衝動が、理性を上回って全身を駆け巡った。

「ねえ、莉子。ちょっとだけ…ほんのちょっとだけ、見てもいいかな?」

その言葉に、莉子の表情がみるみる険しくなった。彼女は夏帆の手からノートを奪い取らんばかりの勢いで詰め寄る。

「あなた、正気で言っているの? それは天宮くんのプライベートな、一番デリケートな部分かもしれないのよ。人の心に土足で踏み込むような真似、音楽を志す者として、いえ、人として許されることじゃないわ。ましてや、彼のような人にとっては…。そのノートは、彼の魂そのものかもしれないのよ!」

莉子の声は、静かだが鋼のような強さを持っていた。正論だ。夏帆にもわかっていた。だが、夏帆の中で渦巻く衝動は、もはや単なる好奇心ではなかった。

「わかってる…! 莉子の言うことが正しいなんて、百も承知だよ! でも、聞こえる気がするんだ。このノートから、音が…。天宮くんの、あの時の音がするの。これはただの忘れ物じゃない。ただの好奇心でもない。呼ばれてる、みたいな感じがするの。私、知らなきゃいけない。あの音がどこから来たのか。どうしてあんなに悲しいのに、どうしてあんなに優しくて、私の心を掴んで離さないのか…!」

夏帆の瞳には、切実な光が宿っていた。それは、空っぽだった自分の内側から初めて湧き上がってきた、本物の渇望だった。莉子は、そんな夏帆の姿に一瞬言葉を失い、やがて深いため息をつくと、諦めたように一歩後ろに下がった。

「…好きにしなさい。でも、どんな結果になっても、それはあなた自身が引き受けるのよ」

莉子の暗黙の許可を得て、夏帆は震える指でゆっくりとノートの表紙を開いた。 ページをめくるたび、鉛筆の匂いがふわりと香る。そこには、まるで嵐のように激しい筆圧で書かれた音符の断片や、何度も消しゴムで消されては書き直された和音の羅列が、びっしりと並んでいた。彼の苦悩と試行錯誤の跡が生々しく、夏帆は息をのんだ。

そして、中央ほどのページで、夏帆の指がぴたりと止まった。 五線譜の上に、少しだけ震えたような、けれど確かな意志を感じさせる文字で、こう記されていた。

『青のフーガ』

そのタイトルを目にした瞬間、夏帆の脳内に、あの夕暮れの第二音楽室で聴いた旋律が鮮やかに蘇った。幾重にも重なる声部が、追いかけ、絡み合い、一つの巨大な感情のうねりとなって押し寄せてくる。孤独と、焦燥と、諦観と、そしてその奥にかすかに光る、祈りのような優しさ。

「これだ…」

夏帆は、まるで聖典を読むかのように、楽譜の冒頭に書かれた主題のメロディを目で追い始めた。それは、雨音のように静かに始まり、次第に潮が満ちるように心を浸していく。気づけば、彼女の唇から、そのメロディがハミングとなってか細く漏れ出ていた。

その時だった。 雷に打たれたような衝撃が、夏帆の背筋を貫いた。

――この曲を知っている。

なぜ? どうして? 天宮奏が、血を吐くような思いで生み出した曲のはずだ。それなのに、まるでずっと昔から自分の体の一部だったかのように、このメロディはすんなりと心に馴染む。 雨に煙る窓の外の景色が、ぐにゃりと歪んだ。視界の端に、真夏の強烈な日差しと、知らない町のざわめきが幻のようにちらつく。迷子になった幼い日の心細さ。べそをかいてしゃがみこんでいた自分の姿。そして、そんな自分を慰めるように、どこからか聞こえてきた、澄み切ったピアノの音色…。

「なんで…? なんで私、この曲を知ってるの…?」

独り言が、震える声となってこぼれ落ちた。

「天宮くんが作った曲のはずなのに…。まるで、私の心の奥の、一番柔らかい場所にずっと仕舞われていた音みたい…」

混乱する頭で、夏帆は無意識に制服のポケットを探った。指先に触れたのは、湊先生から託された、冷たくて硬いチューニングフォークの感触。 『正解を探すな。君だけの音を探せ』 あの飄々とした先生の声が、耳の奥で反響する。 これが、私の音? 他人のノートの中に、他人が生み出した音楽の中に、私の探していた「音」の原点があるというのだろうか。

夏帆は、その『青のフーガ』と題された楽譜を、壊れ物を抱くように、そっと胸に抱きしめた。それはもはや、ただの忘れ物ではなかった。自分の失われた過去と、空っぽだった未来を繋ぐ、運命の道しるべのように思えた。

「夏帆…? どうしたの、顔が真っ青よ」

心配そうに覗き込む莉子の声が、遠くに聞こえる。夏帆は、親友の方を振り返ることすらできない。

「莉子…私…」

言葉が続かなかった。けれど、夏帆の瞳には、もはや焦りや空虚さの色はなかった。初めて見つけた確かな光を前にして、ただ立ち尽くしている。 空っぽだった彼女の五線譜に、奇跡のような最初の音符が刻まれた瞬間を、窓の外でいつしか小降りになった雨が、静かに見守っていた。

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