第8話 親友との不協和音
放課後の第二音楽室は、西陽が長く差し込み、空気中に舞う細かな埃を黄金色の筋として映し出していた。古い木の床、壁に掛けられた作曲家の肖像画、窓の外から微かに聞こえるグラウンドの喧騒。そのすべてが、どこか懐かしいセピア色のフィルターを通して見えるようだった。
「――はぁー、あー」
部屋の真ん中で、相沢莉子が澄んだソプラノを発声している。背筋をぴんと伸ばし、その両手は腹部に添えられ、一ミリの揺らぎもない。彼女の呼気は完璧にコントロールされ、声というよりも純粋な響きの柱となって、天井へと昇っていく。その姿は、まるで音楽そのものに仕える巫女のようだった。傍らの譜面台には、びっしりと書き込みがされた練習ノートが開かれている。それは彼女がプロの声楽家という夢に向かって、一日一日、一音一音、誠実に積み上げてきた時間の結晶だった。
一方、高槻夏帆は、壁際の椅子に座り、その莉子の姿をぼんやりと眺めていた。意識はここにはない。彼女の頭の中を満たしているのは、別の音。数日前にこの場所で聴いた、天宮奏のピアノ。心を締め付けるように切なく、それでいてどこか温かい、あの未完成の旋律。そして、夕凪駅で見た、野良猫にだけ心を許す彼の孤独な横顔。
(奏くんは、今、何をしてるんだろう……)
気づけば、夏帆の指は無意識に机の縁をタッピングしていた。カツ、カツ、カツ……。彼女の焦燥感を代弁するような、不規則なリズム。その乾いた音は、莉子が紡ぐ神聖な響きの中に、異物のように混じり込んでいく。
「夏帆、次はハ長調のスケール。一緒に」 莉子がピアノの前に座り、基準となる和音を鳴らす。 「ん、あ、うん」 慌てて立ち上がり、莉子の隣に立つ。しかし、彼女の歌声はどこかふわふわと浮ついて、芯がない。
「ド、レ、ミ、ファ、ソ――」 莉子の声は、迷いなく天へ駆け上る階段のようだ。だが、夏帆の声は、その一歩目でつまずく。音程が微妙に低い。 「夏帆、音がぶら下がってる。もっとお腹から支えて」 莉子が冷静に指摘する。彼女の目は、ただひたすらに楽譜の先にある「完璧な音楽」だけを見据えている。 「ご、ごめん」 夏帆は謝るが、頭の中ではまだ奏のメロディが鳴り響いていた。あの旋律は、どうしてあんなに懐かしいんだろう。まるで、ずっと昔にどこかで聴いたことがあるような……。そう、幼い頃、旅先で迷子になった時、心を慰めてくれたピアノの音に、どこか似ている。
「夏帆!」 今度は、先ほどより少し鋭い声が飛んできた。 「また外れてる。集中してないでしょ」 「してるって!」 つい、子供のように口を尖らせて言い返す。だが、それは嘘だった。自分の気持ちにだけは正直でいたい、そう思っているはずなのに、今この瞬間、自分は莉子にも、音楽にも、そして自分自身にも嘘をついている。その自己矛盾が、夏帆の心をさらに乱した。
練習は、気まずい空気のまま続いた。夏帆はなんとか莉子に合わせようとするが、心と体がばらばらで、声は上滑りするばかり。彼女の不安定な音は、莉子が丹精込めて作り上げたハーモニーの精緻な織物を、無遠慮にかき乱していく。莉子の眉間の皺が、徐々に深くなっていくのを、夏帆は見ないふりをすることしかできなかった。
やがて、莉子は弾いていたピアノの鍵盤から、ぴたりと指を離した。 突然訪れた静寂に、夏帆はびくりと肩を震わせる。莉子はゆっくりと椅子から立ち上がると、練習ノートをパタンと閉じた。その音は、まるで宣告のように、静まり返った音楽室に響き渡った。
莉子は夏帆に向き直った。その瞳には、もう音楽への情熱はなく、深く、静かな失望の色が浮かんでいた。
「……ねえ、夏帆」 抑揚のない、氷のように冷たい声だった。 「あなた、何のためにここにいるの?」
「え……」
「合唱部に仮入部したいって、頭を下げてきたのはあなたでしょう。私は、本気でやるならって言ったはずよ。練習相手ができて、少しでもこの部が良くなるならって、期待した私が馬鹿だったのかな」
莉子の言葉は、一本一本が鋭い針となって夏帆の胸に突き刺さる。夏帆は何も言い返せない。奏に近づきたいという不純な動機。その下心を見透かされているようで、顔が熱くなる。
「私はね、夏帆。毎日、この場所を聖域だと思って練習してるの。朝起きてから夜眠るまで、どうすればもっと良い声が出せるか、どうすればもっと音楽の心を表現できるか、そればかり考えてる。喉に良い食事を調べて、体調を管理して、遊びたい気持ちも、眠たい気持ちも、全部全部我慢して、私の時間のすべてを、夢のために捧げてる。それが、プロを目指すっていうことだから。私にとって音楽は、人生そのものなのよ」
莉子の声が、微かに震えていた。それは怒りだけではない。悲しみと、踏みにじられたものへの痛みだった。
「なのに、あなたは……。あなたのその態度は何? 私が積み重ねてきたこの時間も、この場所も、音楽そのものも、全部馬鹿にしてるようにしか見えない。あなたの頭の中は、天宮くんのことでいっぱなんでしょう? 彼のピアノの才能に惹かれて、興味本位で首を突っ込んで……。そんな不純な気持ちで、聖域を汚さないで」
「ち、違う! 私は、ただ……!」 夏帆は叫びたかった。「ただ、奏くんのあの音が気になって、彼の心の扉を開けたくて、そして、莉子みたいに本気になれるものが欲しくて……!」 だが、その言葉は喉の奥で塊になり、音になることはなかった。どんな理由を並べたてても、莉子の純粋な情熱の前では、すべてがみすぼらしい言い訳に聞こえる気がした。
莉子は、そんな夏帆の葛藤を見透かすように、最後の一撃を放った。彼女は一歩前に出ると、夏帆の目を真っ直ぐに見つめて、はっきりと、そして残酷なほど明瞭に言った。
「本気で歌う気がないなら、ここに来ないで」
その言葉が響いた瞬間、音楽室の空気が凍りついた。
「あなたのせいで、音が、濁る」
音が、濁る。 親友からの、今まで浴びたことのない、絶対的な拒絶。それは、夏帆の存在そのものを否定する言葉だった。友情も、自分の居場所も、これから見つけようとしていたかすかな光も、すべてが粉々に砕け散った気がした。
夏帆の瞳から、ぶわりと涙が溢れた。しかし、それは流れ落ちる前に、ぐっと奥に押しとどめられた。ここで泣くのは、プライドが許さなかった。嘘をついてまで「いい子」にはならない。それが自分の唯一の信条だったから。
夏帆は唇を固く結び、莉子を睨みつけるように一瞬だけ見返すと、踵を返した。 「……っ」 言葉にならない嗚咽を飲み込み、ドアノブを掴む。そして、逃げるように音楽室を飛び出した。
誰もいない廊下を、夢中で走る。夕陽が差し込む窓が、次々と後ろへ流れていく。世界から色が消え、音が消え、ただ自分の荒い息遣いと、心臓の鼓動だけが大きく響いていた。
自分の居場所は、どこにもない。 莉子のいる合唱部にも。奏のいる、才能の世界にも。そして、何も知らずに笑いかけてくれる健太のいる、「当たり前の日常」にも。
校門を飛び出し、当てもなく歩く。商店街の喧騒も、潮風の匂いも、今は何も感じない。ただ、胸に突き刺さった莉子の言葉だけが、不協和音となって鳴り響いていた。
『あなたのせいで、音が、濁る』
私は、濁った音。誰かのハーモニーを乱すだけの、不協和音。 そう思った瞬間、足が止まった。顔を上げると、そこは、海が見える小さな無人駅の入り口だった。
夕凪駅。
まるで、引き寄せられるように、夏帆は錆びついた改札を抜け、ホームへと続く階段を上っていった。
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