7話 閉ざされた鍵盤

あのピアノの旋律が、鼓膜の奥で、いや、心臓のすぐ内側で鳴り続けている。高槻夏帆は、昼休みが終わってからの授業を、ほとんど上の空で過ごしていた。数学の公式も、古典の助動詞も、窓の外を流れていく雲の形さえも、すべてがあのメロディの前では意味をなさず、ただの色褪せた記号の羅列に成り下がってしまう。

切なくて、痛くて、なのにどうしようもなく温かい。矛盾した感情を呼び覚ます音。あれはいったい、何だったのだろう。

衝動だった。 理由も、打算も、誰かの視線さえも振り払うような、純粋な衝動。夏帆は、最後の授業が終わるチャイムが鳴り響くと同時に、椅子を鳴らして立ち上がっていた。走り出す足は、もう迷わない。目指す場所は一つしかなかった。

放課後の渡り廊下は、部活動へ向かう生徒たちの喧騒と、西日が落とす長い影で満ちている。光と影がまだらに床を染める様は、まるで巨大な鍵盤のようだ、と夏帆は思った。その鍵盤の上を、彼女は一心不乱に駆け抜ける。

天宮奏は、案外簡単に見つかった。 特別棟へと続く階段の踊り場。ざわめきから切り離されたその場所で、彼は一人、窓枠に腰掛けて文庫本を読んでいた。差し込む夕陽が彼の輪郭を黄金色に縁取り、その存在だけが周囲の空気から浮き上がって、まるで一枚の絵画のように見えた。

夏帆は一度、息を呑んで立ち止まる。心臓が早鐘を打っていた。持ち前の行動力でここまで来たものの、いざ彼を前にすると、どんな言葉を切り出せばいいのか分からなくなる。声をかければ、この静謐な絵画を乱暴に引き裂いてしまうような気がした。

だが、彼女の心で鳴りやまないあの旋律が、背中を押す。これは、自分の気持ちに嘘をつかないための、最初の戦いだ。夏帆は固く拳を握りしめると、一歩、また一歩と彼に近づいた。

「天宮くん」

彼女の声に、奏はゆっくりと顔を上げた。本から離されたその瞳には、感情の色がなかった。ただ静かに、闖入者である夏帆を映しているだけだ。

「……何か用?」 「あの、この間……音楽室で弾いてた曲。もう一度、聴かせてほしいんだ。お願い」

単刀直入。それが高槻夏帆という人間の流儀だった。お世辞も建前も苦手だ。だから、心のままを言葉にするしかない。

沈黙が落ちた。それは、ほんの数秒だったのかもしれない。しかし夏帆には、永遠のように長く感じられた。廊下を吹き抜ける風の音だけが、やけに大きく聞こえる。奏の表情が、すうっと凍りついていくのがわかった。ガラス細工の表面に、目に見えない亀裂が走るような、そんな危うい変化。

やがて、彼は静かに、しかし刃物のように鋭い一言を放った。

「断る」

その声は、夏帆の胸に冷たく突き刺さった。しかし、彼女はここで引き下がるわけにはいかなかった。

「どうして?ただの好奇心とか、そういうんじゃないんだ。なんて言ったらいいか……うまく言えないんだけど、あの音、すごく胸に残ってて。忘れられないの。どこかで聴いたことがあるような、そんな気もして……」

「忘れてくれ」

言葉を重ねようとした夏帆を、奏は遮った。その声には、先ほどよりも明確な拒絶が滲んでいる。彼は文庫本をパタンと閉じ、夏帆から視線を逸らした。その指先が、緊張からか、無意識に自分の制服の胸元、黒鍵が描かれたペンダントに触れているのを夏帆は見逃さなかった。

「なんでよ!あんなに綺麗な音なのに!もったいないじゃない、誰にも聴かせないなんて!あなたの指から生まれた音なんでしょ?あなたの……」 「綺麗?」

奏が、自嘲するかのように呟いた。その横顔は、夕陽に透けて儚げに見えるのに、言葉だけが氷の礫となって夏帆に突き刺さる。彼はゆっくりと夏帆に向き直った。その瞳の奥には、夏帆が今まで見たこともないような、深く、暗い絶望の淵が広がっていた。

「君には、あれがそんな風に聞こえたのか。……皮肉だな。僕にとって、あの曲はただの醜い残骸だ。過去の失敗が、耳鳴りになってこびりついただけの、忌まわしい染みなんだよ。君のような、何の苦しみも知らなさそうな、ただ明るいだけの人間に……僕の音楽の、一体何がわかるっていうんだ」

その言葉は、夏帆の存在そのものを否定する響きを持っていた。頭を殴られたような衝撃に、言葉を失う。

「音楽は楽しいもの? 希望をくれるもの? そんな簡単なものじゃないんだ。少なくとも、僕にとっては。あれは呪いだ。僕を縛りつけるための呪文なんだよ。大勢の人間の好奇と期待の視線の中で、僕の指を、僕の心を縛り付けた、重たい鎖そのものなんだ。わかるか? 君たちが無邪気に求める『聴かれる』という行為が、僕にとっては耐え難い罰なんだよ」

罰。 その言葉が、夏帆の胸に重くのしかかった。奏は、まるで心の傷口を自ら抉るかのように、苦しげに言葉を続けた。彼の指が、今度は落ち着きなく自身の髪に触れている。それは、彼の心が限界まで張り詰めていることの証左だった。

「もう二度と、誰かの前でピアノは弾かない。誰かのために弾くこともしない。僕の音は、僕だけのものだ。誰にも渡さないし、誰にも聴かせない。それで、僕の音楽は終わったんだ。……だから、二度とそんなことを言わないでくれ」

それは、懇願のようにも聞こえた。 言い終えると、奏は夏帆の横をすり抜けて、階段を降りていこうとした。ガラスの壁の向こう側へ、完全に閉じこもろうとする、その背中。

このまま行かせてはいけない。 夏帆は、ほとんど本能的に、彼の背中に向かって叫んでいた。

「……わかんないよ!わかるわけないじゃない!あなたの苦しみなんて、私にわかるはずない!でも……!」

奏の足が、ぴたりと止まる。

「でも、あなたのその目、すごく苦しそうだよ。罰だって、呪いだって言ったけど、本当にそう思ってるの? 心の底から、ピアノが、音楽が、憎いって言えるの?……私には、そんな風には見えなかった」

夏帆は、自分の声が震えているのに気づいた。

「あの音は、あなたが罰だって言うあのメロディは……たしかにすごく悲しかった。でも、それだけじゃなかった。すごく、優しかったんだよ。まるで、迷子の子供を慰めるみたいに……。本当に音楽が嫌いになった人の音じゃなかった。だから……だから私は、もう一度聴きたいって思ったんだよ!」

それは理屈ではなかった。湊先生に言われた「自分だけの音を探せ」という言葉の、ほんの入口。夏帆が、自分の感性を、自分の心を信じて放った、最初の本気の叫びだった。

奏は、振り返らなかった。ただ、その肩が微かに震えているように見えた。やがて彼は、何も答えずに、一歩、また一歩と階段を降りていく。彼の姿が踊り場の影に完全に消えるまで、夏帆は身じろぎもせず、その場に立ち尽くしていた。

西日が最後の光を放ち、廊下の喧騒もいつしか遠のいていた。世界から音が消えたような静寂の中で、夏帆は一人、立ちつくす。奏の拒絶の言葉と、その瞳の奥にあった深い絶望が、冷たい染みのように心に広がっていく。

無力だった。自分の言葉は、彼の固く閉ざされた心の扉を、ほんの少しも開けられなかった。 だが、同時に、夏帆の心には別の感情が生まれていた。それは、ただの好奇心ではない。空っぽだった自分の中に芽生えた、初めての強い衝動。

あの絶望の向こう側にあるものを知りたい。 あの優しいピアノを、彼自身に取り戻してあげたい。

無理だとわかっていても、そう思わずにはいられなかった。 夕闇が迫る廊下に一人佇み、夏帆は唇を強く噛みしめた。閉ざされた鍵盤の重みが、今はっきりと、彼女自身の課題となって心にのしかかっていた。

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