第6話 世界の基準の音
放課後の空気は、一日の授業という務めを終えた生徒たちの解放感で、どこか浮ついた色をしていた。高槻夏帆は、その喧騒のなかを縫うようにして、特別棟の音楽室へと向かっていた。奏に近づきたいという不純な動機。親友である莉子への、負い目にも似た気まずさ。そして、何が始まるのか皆目見当もつかない、漠然とした期待。いくつもの感情が胸の中で混ざり合い、落ち着かない足取りで廊下を進む。母が買ってくれたお気に入りのポーチが、通学かばんの中で揺れるたびに、カラ、と小さな音を立てた。
音楽室の重い扉を引くと、埃と古い木の匂いに混じって、ピンと張り詰めた空気が夏帆の肌を撫でた。窓から差し込む午後の光が、グランドピアノの黒い鏡面に反射して、無数の光の粒子を宙に舞わせている。部屋の隅では、すでに莉子が壁に向かって立ち、まるで儀式のように厳かな様子で発声練習を始めていた。「ア───」。その声は一点の曇りもなく、磨き上げられた水晶のように真っ直ぐに空間を貫いていく。完璧な響き。それに比べて自分は、と夏帆は胸の奥がちりりと痛むのを感じた。
「やあ、待っていたよ、探求者」
部屋の中央、指揮台の脇に置かれた椅子に腰かけていた男が、静かに立ち上がった。合唱部顧問、湊誠。飄々として掴みどころのない音楽教師は、すべてを見透かしたような、それでいて悪戯っぽさを隠さない笑みを浮かべていた。
「せんせ、あの、私も発声練習とか……」 「その必要はないよ」
湊は夏帆の言葉を、柔らかな手つきで制した。 「歌う前に、君にはやってもらいたいことがある」
彼はジャケットの内ポケットに手を入れると、一本の古びた銀色の棒を取り出した。音叉だ。指で弾くと、キィン、と高く澄み切った金属音が、莉子の歌声の隙間を縫って、音楽室の隅々にまで染み渡っていく。
「これを君にあげよう。僕の師から譲り受けた、大切なものだけれどね」 「はぁ……? 音叉、ですか。これで何しろって言うんですか」
夏帆は戸惑いながら、ずしりと重みのある金属の塊を受け取った。ひんやりとした感触が手のひらに伝わる。思わず口を尖らせてしまうのは、気まずい時の彼女の癖だった。
「歌の練習じゃないんですか? 莉子みたいに、こう、ちゃんと……」 「いいね、その素直な疑問。それこそが君の出発点だ」
湊は楽しそうに目を細め、ゆっくりと語り始めた。その声は、音楽室の静寂に溶け込むような、穏やかなテノールだった。
「高槻さん。君は今まで、この世界がどんな音で満ちているか、本気で耳を澄ませたことがあるかい? 人の声、風の音、遠いサイレン、誰かの心臓の鼓動。僕たちは絶えず音の海の中で生きている。けれど、そのほとんどを雑音として聞き流している。歌とはね、ただ喉から声を出す技術のことじゃない。それは、世界に満ちる無数の音を聴き、その中から自分だけの響きを見つけ出し、自分の声という楽器を通して、もう一度世界に解き放ってあげる行為なんだ」
彼は夏帆の隣に歩み寄り、窓の外に広がるグラウンドに目をやった。土埃を上げてベースを駆け抜ける野球部員たち。その中には、きっと幼馴染の健太もいるのだろう。
「正解を教えるのは、とても簡単だ。ドレミファソラシドの音階、正しい呼吸法、譜面の読み方。でも、君が本当に探しているものは、そんな教科書のどこにも載ってはいないんじゃないかな。君は、何にも本気になれない自分に焦っている。何者かにならなければと、自分を追い立てている。だが、そもそも君は何者なんだろうね。君だけの音とは、どんな音なんだろう」
湊は夏帆の手に握られた音叉を、そっと指で示した。
「その音叉が鳴らすのは『A』、イタリア語で言えば『ラ』の音だ。周波数は440ヘルツ。オーケストラがチューニングをする時に使う、『世界の基準の音』だよ。でも、それは人間が決めた便宜上の取り決めに過ぎない。絶対的な正解なんかじゃないんだ。時代や地域が違えば、基準の音も変わる。バロック時代はもっと低かったし、ウィーンではもっと高かった。つまりだね、高槻さん。基準なんてものは、本当はどこにもないんだよ。あるのは、無数の音と、それを聴く君の耳だけだ」
その言葉は、まるで魔法の呪文のように夏帆の心に染み込んでいった。意味が完全にわかったわけではない。けれど、今まで誰も言ってくれなかった、大切な何かを告げられているような気がした。
「だから、まずは聴くことから始めてごらん。正解を探すな。君だけの音を探せ。この音叉を基準にして、この町の音を聴いてみるといい。君が面白いと感じる音、懐かしいと感じる音、心がざわつく音。それを一つずつ、丁寧に拾い集めていくんだ。それが、君の合唱部での最初の活動だよ」
あまりに抽象的な課題。あまりに詩的な物言い。夏帆は反論しようと口を開きかけたが、湊の真摯な眼差しに射竦められ、言葉を飲み込んだ。彼の瞳の奥には、かつて自分も同じように音を探し求めていた者の、かすかな痛みの影が揺れているように見えた。
「……わかりました。やって、みます」
しぶしぶといった体で頷き、夏帆はもう一度、手の中の音叉を鳴らしてみた。キィィィン──。先ほどよりも長く、その純粋な響きが耳の奥でこだまする。
不思議なことが起きた。
その音を基準にして世界を聴くと、今まで一つの塊にしか聞こえなかった放課後の喧騒が、くっきりと分離して聴こえ始めたのだ。
窓の外から聞こえる、健太たちの野球部の掛け声。それは勝利への渇望と、仲間への信頼が混じった、力強い和音。 廊下を駆け抜けていく生徒たちの笑い声。それは未来への希望と、今この瞬間の喜びを乗せた、軽やかなメロディ。 そして、部屋の隅で続けられる莉子の発声練習。それはプロの声楽家になるという夢に向かう、揺るぎない覚悟と、ほんの少しの不安が織りなす、孤高のソプラノ。
すべてが、違う高さで、違う音色で、違う想いを乗せて鳴り響いている。この世界は、なんて豊かな音で満ちていたんだろう。
夏帆は、まるで初めて音楽を聴いた子供のように、目を丸くして辺りを見回した。自分の座る椅子のきしむ音さえ、今は愛おしいフレーズに聞こえる。
「どうだい? 少しは面白くなってきたかい?」
湊が微笑む。夏帆は、頬が緩むのを止められなかった。
「……はい。ちょっとだけ」
ぶっきらぼうに答えながらも、彼女の心は確かに躍っていた。奏が奏でたあの切ないピアノの旋律。莉子の完璧な歌声。健太のミットに収まるボールの乾いた音。そして、湊先生が鳴らした、この世界の基準の音。
空っぽだと思っていた自分の周りには、こんなにもたくさんの音が溢れていた。
合唱部の最初の活動を終え、夕暮れの坂道を一人で下る。夏帆はポケットの中で、湊先生から託された音叉を固く握りしめていた。もう一度、そっと取り出して鳴らしてみる。キィン、と澄んだ音が夕方の空気に溶けていく。
踏切の警報機の音が、不安を煽るようなリズムで鳴っている。商店街の店先から漏れる、客引きの威勢のいい声。カラスの鳴き声。自転車のブレーキ音。遠くに聞こえる船の汽笛。
それらすべてが、ただの雑音ではなく、この町が奏でるシンフォニーの一部なのだと、夏帆は感じていた。
「私の音……」
呟きながら、新品のスケッチブックを取り出す。SNSに何気ない風景を投稿する代わりに、彼女は今日、初めて見つけた「音」を書き留めてみることにした。
『踏切の音。レとソの不協和音。ちょっと怖い』
それは、まだ誰にも見せることのできない、彼女だけの楽譜の、最初の走り書きだった。空っぽの五線譜に、ようやく一つ目の音符が記された瞬間。潮騒のプレリュードが、確かに始まろうとしていた。
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