5話 不純な動機とハーモニーの入り口

あのピアノの旋律が、頭蓋の内側で鳴り止まない。高槻夏帆の日常は、天宮奏という異物が投じた一石によって、静かな波紋から抗いがたい渦へと変わりつつあった。

授業中、数学教師が黒板に描き出す無機質な放物線の上を、あのメロディが軽やかに舞う。昼休み、幼馴染の健太が投げる冗談も、どこか遠い世界の出来事のようだ。SNSを開けば、指は無意識に奏の名前を検索窓に打ち込んでいる。しかし、そこに彼の影はどこにもなく、ただタイムラインを流れる友人たちの「本気」の断片——部活の記録、模試の結果、恋人との記念日——が、空っぽの自分を嘲笑うかのようにきらめいていた。

心臓の真ん中に、ぽっかりと穴が空いている。その穴を埋めることができるのは、あの音だけだという、根拠のない確信があった。夕暮れの音楽室で聴いた、心を締め付けるように切なく、それでいてどこか温かい、あのピアノの断片。あれは一体、何だったのだろう。なぜ、あんなにも懐かしく響いたのだろう。

衝動だった。考えるより先に、夏帆の足は旧校舎の三階、音楽準備室へと向かっていた。廃部寸前の合唱部が、唯一の部員である相沢莉子の練習場所として使う、静寂の聖域。

ドアをノックするのも忘れ、勢いよく開ける。 「莉子!」 そこにいたのは、窓からの斜光を浴びながら、譜面台に置かれた楽譜を真剣な眼差しで見つめる親友の姿だった。彼女は驚いて顔を上げたが、夏帆の尋常でない様子を見て、その眉をわずかにひそめた。 「夏帆……どうしたの、そんなに慌てて。何かあった?」 「お願い! お願いがあるの!」 夏帆は息を切らしながら、莉子の前に両手をついた。 「合唱部に、仮入部させて!」

沈黙が、埃の舞う光の中に落ちた。莉子は瞬きを一つすると、まるで信じられないものでも見るかのように、夏帆の顔をじっと見つめた。 「……今、なんて?」 「だから、合唱部に入れてほしいの! ちょっとだけでいいから!」 「あなた、音楽に興味なんてなかったじゃない。歌うことだって、カラオケで流行りの曲を叫ぶくらいで。一体、どういう風の吹き回しなの?」 莉子の声は、冷静だった。だがその静けさこそが、彼女がどれだけ自分の打ち込む世界を大切にしているかの証明だった。夏帆はごくりと唾を飲み込む。嘘はつけない。でも、本当のことも言えない。 「……理由、なんていうか……うまく言えないんだけど……」 「天宮くん、でしょう」 莉子の言葉は、鋭い針のように夏帆の核心を突いた。図星を指され、夏帆は子供のように口を尖らせるしかできない。 「……っ」 「分かりやすいわよ、あなた。あの人が転校してきてから、ずっと目で追っていたもの。音楽室でピアノを弾いていたことにも気づいてる。あなたのその衝動は、音楽への情熱じゃない。ただの好奇心よ」

莉子は立ち上がり、夏帆の前に仁王立ちになった。その瞳には、親友に向けるものとは思えない、厳しい光が宿っていた。

「聞いて、夏帆。私にとって、ここは遊び場じゃない。私のすべてなの。プロの声楽家になる。その夢を叶えるためだけに、私はここにいる。一日何時間も発声練習をして、喉をケアして、理論を学んで……そうやって、一音一音を、血の滲むような努力で積み上げているの。あなたのその『ちょっとだけ』という軽い気持ちで、私の、私たちの神聖な時間を汚さないでほしい」 彼女の言葉は、正論だった。あまりに真っ直ぐで、一点の曇りもない。だからこそ、夏帆の胸に深く突き刺さった。憧れである親友が、自分を拒絶している。その事実が、目の前をぐらつかせた。 だが、ここで引き下がるわけにはいかなかった。これは、空っぽの自分を変えるための、最初の一歩なのだから。

「違う!……いや、違わないけど、でも、それだけじゃない!」 夏帆は顔を上げた。瞳には涙が滲んでいたが、その奥には強い意志の光が灯っていた。 「確かに、きっかけは天宮くんのピアノだよ。でも、あの音を聴いて、私、思い出したの。ううん、思い出したっていうか……感じたの。ずっと忘れてた、何かすごく大事なものを。心の奥が、ぎゅって掴まれたみたいに。あれが何なのか知りたい。知らなきゃ、私、前に進めない気がするんだ! 莉子の邪魔は絶対にしない! 誰よりも真面目にやる! だから……だから、お願い!」

嘘のない、魂からの叫びだった。打算よりも直感を、建前よりも本音を選ぶ、高槻夏帆という人間のすべてが、その言葉に凝縮されていた。 莉子は、そんな夏帆の姿を、驚いたように見つめていた。いつもヘラヘラして、何事にも本気になれず、空回りばかりしていた親友。その彼女が、今、必死の形相で自分に食らいついてくる。その瞳の奥に宿る光は、莉子が今まで見たことのない、切実で、純粋な色をしていた。 長い、長い沈黙の後。莉子は深いため息を一つついて、固く結んでいた唇をゆっくりと開いた。 「……分かったわ。ただし、条件がある」 「えっ!?」 「練習に一度でも遅刻したり、ふざけたり、集中を欠くようなことがあれば、即刻出て行ってもらう。私語も禁止。休憩中も、発声に関する質問以外は受け付けない。それでもいいのなら」 「いい! やる! やるよ!」 夏帆は満面の笑みで頷いた。莉子は呆れたように肩をすくめたが、その口元には、ほんのわずかに、安堵とも諦めともつかない笑みが浮かんでいた。

翌日の放課後。夏帆は約束の時間きっかりに、第二音楽室の前に立っていた。ぎし、と音を立てて重いドアを開けると、そこには既に莉子と、そして飄々とした佇まいの男がいた。音楽教師であり、合唱部顧問の湊誠だった。 「やあ、高槻さん」 湊は、まるで夏帆が来ることを予期していたかのように、穏やかな笑みを浮かべていた。 「ようこそ。不協和音と混沌の世界へ。……いや、これから生まれるかもしれない、新しいハーモニーの入り口、と言うべきかな」 「せ、先生……」 すべてお見通しだと言わんばかりの言葉に、夏帆はたじろぐ。湊は面白そうに目を細めると、指揮棒の代わりに持っていた鉛筆で、ピアノの鍵盤をぽんと叩いた。 「さて、部員が二人になったことだし、早速始めようか。相沢さん、まずはいつもの発声から」 「はい」 莉子は一つ頷くと、ピアノの前に立ち、完璧な姿勢で息を吸い込んだ。 「アーーーーー」 その声は、ただ大きいのではない。芯があり、伸びやかで、音楽室の隅々にまで染み渡っていくようだった。窓ガラスが微かに震え、空気そのものが共鳴している。これが、本気の音。夢を追う人間の、魂の響き。夏帆はその圧倒的な存在感に、ただ立ち尽くすことしかできなかった。 「はい、高槻さん、あなたの番」 湊に促され、夏帆は恐る恐る莉子の隣に立つ。見様見真似で息を吸い、声を出す。 「あ、あー……」 か細く、震え、すぐに途切れてしまう情けない声。莉子の声という大河の隣に現れた、小さな水たまりのようだった。 「違う! 喉で歌わない! もっとお腹の底から、身体全体を楽器にするつもりで!」 莉子の厳しい声が飛ぶ。しかし、夏帆の頭の中では、まだあのピアノの旋律が鳴っている。奏の白い指、憂いを帯びた横顔、そして拒絶の言葉。好奇心と劣等感が混ざり合い、心をかき乱す。 「ちゃんと音を聴いて! 半音ずれてる!」 「ご、ごめん……」 焦れば焦るほど、声は上滑りしていく。莉子のストイックなハーモニーの世界に、夏帆の奏への好奇心というノイズが混じり、耳障りな不協和音を生み出していく。 湊は、その様子を壁に寄りかかりながら、ただ黙って見ていた。叱りもせず、助け舟も出さない。まるで、この歪な二重奏そのものを、一つの音楽として味わっているかのように。その瞳は、嵐が過ぎ去った後に訪れるであろう、新しい静けさを見通しているようでもあった。

練習が終わり、夏帆は魂が抜けたように椅子に座り込んだ。喉はひりひり痛み、全身が疲労感に包まれている。 「明日は、ロングトーンを三十分追加するから。覚悟してきなさい」 莉子は練習ノートに何かを書き込みながら、それだけを言い残して足早に部屋を出て行った。その背中からは、苛立ちと、ほんの少しの期待が入り混じった複雑な気配がした。 一人残された夏帆の前に、湊がコーヒー牛乳の紙パックを差し出した。自販機で買ってきたのだろう。 「お疲れ様。初日としては、まあ、上出来じゃないかな」 「どこがですか……。全然楽しくないし、莉子は鬼みたいに怖いし、私、向いてないです、絶対」 ぷう、と子供のように頬を膨らませる夏帆を見て、湊はくすくすと笑った。 「音楽は、いつも楽しいとは限らない。むしろ苦しいことの方が多いかもしれないね。自分の未熟さ、才能の無さ、他人との差。そのすべてと向き合わなければならないから」 彼は窓の外、夕焼けに染まる港町に目をやりながら、静かに続けた。 「でもね、高槻さん」 湊は夏帆に向き直った。その飄々とした表情の奥に、鋭い光が宿っていた。 「君は明日も、ここに来る。違うかい?」 「……っ」 夏帆は何も言い返せなかった。悔しい。みじめだ。でも、確かに湊の言う通りだった。奏の謎、莉子との約束、そして何よりも、このまま終わってたまるかという、自分の中に生まれた初めての頑固な衝動。 空っぽだった五線譜に、めちゃくちゃで、調子っぱずれな最初の音が書き込まれた。それはまだ、美しいハーモニーには程遠い、耳障りな不協和音。 だが、物語はいつも、そんな混沌のプレリュードから始まるのだ。湊は満足そうに頷くと、ポケットから取り出した銀色の音叉を、キィン、と小さく鳴らした。澄んだA(ラ)の音が、夕暮れの音楽室に静かに響き渡った。

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