第4話 心の琴線に触れる音
放課後の空気は、一日の終わりを告げる気怠さと、解放感が混じり合った独特の匂いを纏っている。高槻夏帆は、意味もなく廊下をぶらついていた。教室に戻る気にも、まっすぐ家に帰る気にもなれない。グラウンドからは、今も幼馴染の橘健太が所属する野球部の掛け声が聞こえてくる。親友の相沢莉子は、きっともう部室で声楽コンクールに向けた自主練習を始めているだろう。
誰もが自分の進むべきレールの上を確かな足取りで走っているように見える。それに引き換え、自分はどうか。音楽教師の湊に「君だけの音を探せ」などという禅問答のような課題を与えられ、ミステリアスな転校生・天宮奏のことが気になって仕方ない。けれど、それは「本気」とは程遠い、ただの好奇心と時間潰しに過ぎないのではないか。そんな自己嫌悪が、夏帆の足取りを重くしていた。
彼女の足は、まるで引力に導かれるように、普段は誰も寄り付かない旧校舎へと向かっていた。好奇心が強い彼女は、初めての場所には必ず「迷い込む」癖がある。今日は、その迷子の本能が、古びた渡り廊下の先を指し示していた。
ギシ、と床板が鳴る。窓から差し込む西日が、廊下に舞う埃を金色に照らし出し、まるで聖域への道筋のように見えた。静かだ。音がない空間は苦手なはずなのに、この沈黙は心地良いとさえ思った。その、時だった。
どこからか、音が聴こえた。
それは、ピアノの旋律だった。第二音楽室からだ。誰も使っていないはずの、忘れられた部屋。そこから漏れ聞こえてくる音は、心を締め付けるように切なく、それでいて、凍えた指先をそっと包み込むような温かみを帯びていた。一音一音が、まるで迷子の星が夜空で瞬くように、孤独な光を放っている。
夏帆は息を呑んだ。胸の奥が、きゅっと掴まれたように痛い。湊先生の言っていた「音」とは、こういうことなのだろうか。違う。これはもっと、個人的で、もっと深い場所から響いてくる魂の震えだ。
まるで導かれるように、夏帆はゆっくりと第二音楽室のドアに手をかけた。重く、冷たい真鍮のノブ。ためらいがちに、しかし抗えない衝動に突き動かされて、それを回した。
軋む蝶番の音と共に、光の帯が室内に差し込む。そこに、その光景はあった。 部屋の中央に置かれたグランドピアノ。その前に、天宮奏が座っていた。 教室で見る彼とは、まるで別人だった。誰をも寄せ付けない氷の仮面は剥がれ落ち、その横顔には苦悩と歓喜が同時に浮かんでいるように見える。閉じた瞼は微かに震え、彼の白い指が鍵盤の上を舞うたびに、音楽に感情が、物語が、命が宿っていく。
それは、祈りにも似た演奏だった。失われた何かを悼み、届かない誰かに呼びかけ、そして絶望の淵でなお微かな光を探し求めるような、痛切な旋律。夏帆は、その場に縫い付けられたように動けなくなった。彼の紡ぐ音の渦に、魂ごと引きずり込まれていく。
しかし、夏帆の侵入を告げる床の小さな軋みが、その聖域を破った。 ぴたり、と音が止む。 弾かれたように顔を上げた奏が、夏帆の姿をその瞳に捉えた。次の瞬間、彼の顔からすべての感情が抜け落ち、再びガラス細工のような無表情に戻る。
ガシャンッ!
乱暴な音を立てて、彼は鍵盤の蓋を叩きつけるように閉ざした。それは、世界との間に分厚いシャッターを下ろすような、決然とした拒絶だった。静寂が、先ほどまでの美しい旋律を暴力的に塗りつぶしていく。
「……聴かないでくれ」
絞り出すような、低く冷たい声。それは、夏帆が今まで聞いた彼のどの声とも違っていた。
「どうして……?」 夏帆は、無意識に言葉を漏らしていた。
「どうしてそんな、悲しい音を出すの。すごく綺麗だったのに。綺麗で、温かくて……」
「やめろ」 奏は鋭く遮った。彼はピアノから立ち上がると、夏帆を睨みつける。その瞳の奥には、深い絶望と、見透かされることへの恐怖が渦巻いていた。
「君に何がわかる。これは慰めでもなければ、誰かに聴かせるための音楽でもない。僕が僕でいるためのものでも、僕でなくなるためのものでもない……ただの、音の骸だ。意味なんてない。だから、君のような人間が、土足で踏み込んでいい領域じゃないんだ」
「私のような、人間……?」
「そうさ。君は、太陽の下で何も考えずに笑っていられる側の人間だ。悩みなんて、進路調査票の空欄を埋めることくらいだろう。君のその屈託のなさが、時々……無性に腹が立つ。僕が失くしたもの、捨ててきたもの、そのすべてを君は持っているように見える。だから、僕の音に触るな。この静寂を汚さないでくれ。頼むから、出て行ってくれ」
その言葉は、刃物のように鋭く、それでいて悲鳴のように脆かった。緊張からか、彼は無意識に自分の髪に軽く触れている。それは、彼の拒絶が虚勢ではなく、本心からの叫びであることを物語っていた。
夏帆は、ただ彼の言葉を受け止めることしかできなかった。彼の言う通りかもしれない。自分は空っぽで、彼の抱える深い闇の、その入り口にさえ立てていない。 だが、それでも。 彼の奏でたメロディが、夏帆の心の奥底で眠っていた何かを、確かに揺り起こしていた。
「わからないよ……わかるわけない。あなたのことなんて、全然。でも……」
夏帆は一歩、踏み出した。
「でも、その音……聴いたことがある気がする。すごく、懐かしいの。ずっと昔、私がまだ小さくて、知らない場所で迷子になって、どうしようもなく心細かった時に……誰かが弾いてくれたピアノの音に、すごく似てる。その音を聴いてたら、怖くなくなって、一人じゃないんだって思えた。あなたのピアノは、そんな音だった。だから……だから、逃げないでよ。そんな風に、自分の大事なものを、骸だなんて言わないで」
嘘はつけなかった。打算よりも直感で動いてしまうのが、高槻夏帆という人間だった。彼女の瞳は、真っ直ぐに奏の心を射抜いていた。
奏の肩が、微かに震えた。彼の表情が、ほんの一瞬、驚きと混乱に揺らぐ。まるで、誰も知るはずのない秘密の扉に、不意に触れられたかのように。 彼は何かを言いかけたが、言葉にならず、唇をきつく結んだ。そして、夏帆の横をすり抜けるようにして、足早に音楽室から出て行ってしまった。
一人残された音楽室には、夕陽の赤い光だけが静かに満ちていた。ピアノの蓋は、固く閉ざされたまま。 夏帆は、その場にへたり込んだ。 彼の拒絶の言葉が、まだ耳の奥で響いている。それなのに、胸を満たしているのは、不思議なほどの高揚感だった。
(懐かしい音……)
夏帆は目を閉じ、もう一度あの旋律を反芻する。 そうだ。あれは、忘れていた記憶の音だ。旅先で迷子になった幼い日。夕暮れの公園。泣きじゃくる私の耳に届いた、優しいピアノのメロディ。弾いてくれた少年の顔は思い出せない。でも、あの音だけは、心の奥の、一番柔らかい場所にずっと残っていたのだ。大切にしていた小さなオルゴールを、あの時どこかに落としてしまったことも、今、不意に思い出した。
あれは、天宮奏だったのだろうか。 まさか、そんな偶然。
だが、メロディの断片は、夏帆の記憶と奇妙な符合を見せて、胸に温かい響きを残していく。 空っぽだった心に、初めて一つの確かな問いが生まれた瞬間だった。 彼の音の正体を知りたい。そして、あの切なくも美しい旋律を、もう一度聴きたい。 それは、彼女の「自分だけの音を探す」という旅が、確かな目的地を見出した、始まりのプレリュードだった。
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