第38話 青のフーガの原点
市民ホールから夕凪駅までの道のりは、高槻夏帆の記憶にあるどの道よりも長く感じられた。肺が焼けつくように痛み、アスファルトを蹴るスニーカーの底が悲鳴をあげる。それでも、彼女は足を止めなかった。頭の中では、いくつもの音が嵐のように渦巻いていた。仲間たちの不安な声、タイムリミットを告げる時計の秒針、そして、天宮奏のピアノ。
「間に合って……!」
祈りにも似た呟きは、荒い呼吸に掻き消される。奏がいつも物思いにふけていた場所。彼の心が安らぐ、たった一つの場所。彼女の直感が、そこしかないと告げていた。
息を切らして辿り着いた夕凪駅のホームは、寂寞とした静けさに包まれていた。古びた木造の待合室、錆びついた駅名表示板、そして線路の向こうに広がる、夕陽に燃える海。そのすべてが、まるで時間が止まった舞台装置のように見えた。
そして、彼はそこにいた。
ホームの端にあるベンチに、奏は一人で座っていた。世界から切り離されたように小さな背中を丸め、ただ水平線の彼方を呆然と見つめている。その姿は、夏帆が動画サイトで見た、コンクールで立ち尽くしていた彼の姿と、痛々しいほどに重なった。
夏帆はゆっくりと彼に近づいた。一歩踏み出すごとに、自分の心臓の音が大きく響く。どう声をかければいいのか。どんな言葉なら、彼の心を閉ざす分厚い扉に届くのか。
「……奏」
かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほどか細く震えていた。
奏の肩が微かに揺れる。しかし、彼は振り返らない。ただ、その手の中で何かを強く握りしめるのが見えた。夕陽の最後の光を受けて、鈍い金色に輝く小さな箱。それは、夏帆が何度か目にしたことのある、古いオルゴールだった。
気まずい沈黙が、二人の間に横たわる。遠くで寄せては返す潮騒の音だけが、途切れそうな時間をかろうじて繋ぎとめていた。
「みんな、待ってるよ」
夏帆は、彼の隣にそっと腰を下ろした。
「……」
「莉子も、他の部員たちも、あなたのピアノがなくちゃ始まらないって。私も……私も、あなたのピアノで歌いたい」
奏は、ゆっくりと顔を上げた。そのガラス玉のように美しい瞳には、深い絶望と諦念の色が揺らめいていた。
「……無理だよ」
絞り出すような声だった。
「僕には、資格がないんだ。人前でピアノを弾く資格なんて……。あのステージに立つと、思い出す。たくさんの視線、期待、そして……音が消える瞬間の、あの静寂を。僕の指が、僕の心を裏切るんだ。鍵盤はただの白と黒の塊になって、音楽はどこかへ消えてしまう。あんな思いは、もう二度と……」
「でも!」と夏帆は食い下がった。「でも、私たちの『青のフーガ』は、コンクールの曲とは違うじゃない!あれは、奏が、奏自身の心で書いた曲で……」
「だから怖いんだ!」
奏の叫びが、夏帆の言葉を遮った。
「あれは……僕の、たった一つの、綺麗な思い出から生まれた曲なんだ。それをまた、あのステージで汚されたくない。僕の音が、また僕を裏切って、あの曲までめちゃくちゃにしてしまうのが、何よりも怖いんだよ……」
彼の視線が、手の中のオルゴールに落ちる。まるでそれが、世界で最後の宝物であるかのように、両手でそっと包み込んだ。
「これは……僕が昔、たった一度だけ、誰かのためにピアノを弾いた時のお守りなんだ」
奏は、まるで夢の中から語りかけるように、ぽつり、ぽつりと話し始めた。
「東京にいた頃……いや、もっと小さい頃だ。家族旅行で、知らない町へ行った。そこで、僕は一人でいた。両親はいつも僕の才能にしか興味がなくて、コンクールで勝つことしか考えていなかったから。そんな僕の周りには、いつも大人の視線しかなかった。でも、その日だけは違ったんだ」
彼の声は、夕凪の風に溶けるように、優しく、そして悲しく響いた。
「旅先の公園で、僕は迷子になって泣いている女の子を見つけたんだ。その子は、僕と同じくらいの年だったかな。ひとりぼっちで、心細そうで……まるで、自分を見ているようだった。僕は、どうしていいかわからなくて、ただ、近くにあったストリートピアノに向かった。誰かに聴かせるためじゃない。賞のためでも、拍手のためでもない。ただ、泣いているその子のために、指が動くままに、音を紡いだんだ」
奏はそこで一度言葉を切り、遠い目をして海を見た。彼の瞳には、遠い夏の日の光景が映っているようだった。
「僕のピアノを聴いて、その子は……初めて、笑ってくれたんだ。僕の音が、誰かを救えるなんて、思ってもみなかった。僕の音楽が、誰かの心に直接届くなんて、考えたこともなかった。コンクールの審査員でも、僕の才能に期待する大人たちでもない、たった一人の、名前も知らない女の子が、僕の音で笑ってくれた。その時、世界で初めて、僕は自分の音が好きになれたんだ。……その子が、帰りに落としていったのが、このオルゴール。僕の音楽の、たった一つの始まりの証。だから、これだけは、ずっと……」
奏が、震える指でオルゴールのネジを巻く。 カチ、カチ、という小さな音の後、ホームの静寂を破って、懐かしいメロディが流れ出した。
その瞬間、夏帆の世界から音が消えた。
キィン、と耳の奥で鋭い音が鳴り、目の前の景色がぐにゃりと歪む。夕凪駅のホームが、遠い記憶の底へと引きずり込まれていく。
―――夏の、強い日差し。知らない町の、ざわめき。 ママの手を離してしまって、気づいたら一人だった。込み上げる不安と心細さで、涙が止まらない。しゃがみこんで、声を殺して泣いていた。 その時だった。どこからか、ピアノの音が聴こえてきた。 切なくて、優しくて、少しだけ悲しい音色。まるで、私の心に寄り添ってくれるようなメロディ。 顔を上げると、そこにいたのは、知らない男の子だった。私と同じくらいの年で、少し寂しそうな目をしていた。彼は、ただ黙って、私のためにピアノを弾き続けてくれた。 音楽が、私の涙を拭ってくれた。 音楽が、私の心を温めてくれた。 気づけば、私は笑っていた。ありがとう、って言いたくて、ポケットを探った。そうだ、ママに買ってもらったばかりの、お気に入りのオルゴール。これを、お礼にあげよう。でも、焦って走り出した拍子に、それをどこかに落としてしまったんだっけ……。
記憶の扉が、激しい音を立てて開かれる。 点と点が繋がり、一本の線になる。 湊先生から渡された音叉。町の音探し。奏との出会い。音楽室で聴いた、心を奪われたピアノの断片。理由のわからない懐かしさ。既視感。そのすべてが、今、このオルゴールの音色によって、一つの真実へと収斂していく。
「それ……」
夏帆の唇から、か細い声が漏れた。
「そのメロディ……私、知ってる……」
彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは悲しみの涙ではなかった。失くしていたパズルの最後のピースがはまった時のような、歓喜と衝撃の涙だった。
「あの時の女の子……私だよ」
奏が、息を呑むのがわかった。彼の瞳が、信じられないものを見るように大きく見開かれる。
夏帆は、まるで何かに導かれるように、唇を開いた。そこからこぼれ落ちたのは、言葉ではない、一つの旋律だった。
それは、奏が奏でたオルゴールのメロディ。 それは、彼が作曲ノートに震える筆圧で書き記していた、未完成のピアノ譜。 それは、生まれたばかりの、『青のフーガ』の原点そのものだった。
「……私のオルゴールだ」
夕陽が、二人のシルエットを黄金色に染め上げていた。潮騒の音が、まるで祝福のプレリュードのように、静かに、どこまでも優しく、二人を包み込んでいた。
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