第37話 夕凪駅への疾走
「やっぱり僕には、人前でピアノを弾く資格がない。ごめん」
震える文字で残された走り書きが、楽屋の息を止めた。ピアノの椅子の上に無造作に置かれた奏の作曲ノート。その最後のページを凝視する莉子の顔から、血の気が急速に引いていく。彼女が誇りとしてきた完璧な自己管理と、仲間を導いてきた精神的な支柱が、音を立てて崩れ落ちるのがわかった。
「…そんな…」 「奏くんがいないんじゃ、歌えないよ…」
他の部員たちが絶望的なざわめきに包まれる中、莉子はノートを握りしめたまま、その場にへたり込みそうになった。積み上げてきた練習の日々が、無意味な砂の城のように思えた。湊先生が倒れ、今度は奏が消える。神様は、どれだけ私たちに試練を与えれば気が済むのだろうか。
「無理じゃない!」
沈黙を切り裂いたのは、夏帆の声だった。彼女は莉子の肩を強く掴み、その瞳に強い意志の光を宿していた。かつて進路調査票を前に空虚なため息をついていた少女の面影は、どこにもない。
「無理なもんか!莉子、みんな、信じて!奏くんがどこに行ったか、私にはわかる。あいつが一人になりたい時、いつも行く場所がある。心が安らぐ、たった一つの場所が!」
夏帆の魂の叫びに、うなだれていた部員たちがはっと顔を上げる。その言葉には、理屈を超えた確信が満ちていた。
「奏を連れてくる!絶対に!」 夏帆は仲間たちの顔を一人ひとり見回し、そしてきつく唇を結んだ。 「だから、みんなはギリギリまで声出ししてて!私たちの『青のフーガ』を、最高の状態で歌えるように準備してて!あなたがいなきゃ始まらないのは、奏くんだけじゃない。みんながいて、初めて私たちのシンフォニーなんだから!」
そう叫ぶと、夏帆は振り返りもせず楽屋を飛び出した。重い防音扉が閉まる瞬間、莉子の「…夏帆!」という声が聞こえた気がした。
市民ホールの廊下は、本番前の華やかな喧騒と、出場者たちの独特の緊張感が入り混じった空気に満たされていた。夏帆はその人の波を、謝りながら、ぶつかりながら、必死でかき分けて進む。頭の中では、たった一つの目的だけが、警報のように鳴り響いていた。
アスファルトを蹴るスニーカーの裏が、熱く悲鳴を上げる。自分の荒い呼吸と、早鐘を打つ心臓の鼓動だけが、世界のすべての音だった。夏の終わりの湿った風が頬を撫で、遠くから聞こえる潮騒が、彼女を導いているようだった。
走る。ひたすらに走る。
脳裏に、奏との記憶が、目まぐるしいカデンツァのように駆け巡る。
東京から来た、ガラス細工のように繊細な転校生。誰にも心を開かず、ただ窓の外の港を眺めていた、あの静かな横顔。 誰もいないはずの第二音楽室から漏れ聞こえてきた、心を締め付けるように切なく、それでいて温かいピアノの旋律。夏帆の心の琴線に、初めて触れた音。 『青のフーガ』を合唱曲にアレンジしていた時の、ぎこちない時間。最初は「勝手にしろ」と背を向けていた奏が、いつしか「その音は違う」「もっと、光が見えるように」と、ぶっきらぼうな言葉で参加し始めたこと。音楽の話をする時の、彼の少しだけ綻ぶ表情。 無類の猫好きで、夕凪駅で野良猫に餌をやっていた時の、見たこともない優しい笑顔。
空っぽだった私に、色をくれたのは、音をくれたのは、全部あなただったんだよ、奏。 私が湊先生に言われて探し続けてきた「自分だけの音」。それは、孤高の音なんかじゃなかった。誰かと心を繋ぎ、響き合う音だった。莉子とぶつかり合って、健太に励まされて、そして…奏、あなたと一緒にいる時の、この胸の高鳴りそのものが、私の音だったんだ。
道のりが、まるでどこまでも続く五線譜に見えた。自分はその上を必死に駆け上がっていく、一つの音符だ。間に合わなければ、この曲は途切れてしまう。私たちのシンフォニーは、永遠に完成しない。
「うおっ、危ねえ!」 交差点に飛び出した瞬間、聞き慣れた声が響いた。はっと顔を上げると、道の向こうに、見慣れた野球部のユニフォームの一団がいた。その中心に、橘健太が立っていた。
「夏帆!どうしたんだ、そんなに慌てて!顔、真っ青だぞ!」
甲子園予選の応援に向かうところなのだろう。健太が心配そうに駆け寄ってくる。その裏表のない、太陽のような明るさが、今は少しだけ眩しかった。
「健太…ごめん、今、話せない!行かなきゃいけない場所があるの!」
息も絶え絶えに、夏帆はそれだけを絞り出す。健太の表情が、驚きから心配へと、そして夏帆の必死な瞳を見て、何かを深く悟る色へと変わった。いつかの夕凪駅で、彼は嫉妬と焦りから夏帆を傷つけた。自分の知らない世界へ行ってしまう夏帆を、引き留めたかった。だが、今の彼の瞳には、その頃の翳りは微塵もなかった。彼はゆっくりと、しかし力強く口を開いた。
「…そうか。合唱部か。あいつのことか」 健太は一度、ぐっと言葉を飲み込み、そして決心したように夏帆の肩に手を置いた。その手は、マウンドで白球を握る、頼もしいエースの手だった。
「ったく、お前は昔からそうだ。一度こうと決めたら、周りが見えなくなる。無茶ばっかりして、見てるこっちはヒヤヒヤさせられっぱなしだ。…でもな、夏帆。そういうお前のまっすぐなところが、俺は…ううん、ここにいるみんな、お前のことを知ってる奴はみんな、好きなんだ。だから、行けよ」
彼の言葉が、熱い奔流となって夏帆の心に流れ込んでくる。
「俺たちの試合なんて、どうだっていい。今日のお前の『本番』は、そっちなんだろ。だったら、行け。行って、ちゃんと捕まえてこい。絶対、やり遂げろよ。お前の音、俺にも聞こえるくらい、でっかい音で鳴らしてこい!俺たちは、お前の応援団だ!」
「頑張れー!高槻!」 「絶対勝てよー!」
野球部の仲間たちが、拳を突き上げて叫ぶ。健太の、仲間たちの声援が、砕け散ってしまいそうだった夏帆の心を繋ぎとめる。涙が溢れそうになるのを、ぐっと堪えた。
「…うん!ありがとう、健太!」
感謝の言葉を背中で受け止め、夏帆は再び走り出した。現実を繋ぎとめる錨だった幼馴染は、今、未来へと進むための追い風を送ってくれている。
坂道を駆け上がる。潮の香りが一気に濃くなった。視界の先に、海と、夕凪駅の小さな木造駅舎が、夕陽に染まりながら浮かび上がってきた。
間に合って。お願いだから。 あなたがいなきゃ、私たちのシンフォニーは始まらない。 奏のピアノ、莉子のソプラノ、みんなの声、そして、私が繋ぐこの想い。全部が揃って、初めて一つの曲になるんだ。 どんな失敗もいつかは素敵な思い出となり、人生の礎となる。湊先生がそう教えてくれた。奏の過去の失敗も、今、私たちが直面しているこの危機も、きっと乗り越えられる。乗り越えた先で、それは私たちの人生にとって、かけがえのないプレリュードになるはずだから。
ホームへと続く、古びたコンクリートの階段を駆け上がる。心臓が張り裂けそうだ。足がもつれて、膝から崩れ落ちそうになる。それでも、夏帆は顔を上げた。
ホームのベンチに、夕陽に照らされた海をただ呆然と見つめる、小さな背中があった。その姿を見つけた瞬間、夏帆の胸に、安堵と、愛しさと、そして確かな希望が満ちていく。
「奏!」
力の限りに叫んだ声は、潮騒に溶けて、彼のもとへと届いていった。
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