36話 消えたピアニスト

夏の午後の光が、市民ホールの高い窓から筋となって降り注ぎ、空気中の埃をきらきらと舞い上がらせていた。楽屋へと続く廊下は、様々な音が混じり合うるつぼだった。フルートの震えるような高音、チューバの朗らかな低音、そして本番前の高揚した生徒たちの笑い声。それぞれが放つ熱気が渦を巻き、壁や床をじんわりと温めている。

私たちの楽屋にも、その熱気は満ちていた。新しく入った一年生部員たちは、鏡の前で何度も制服の襟を正し、緊張と期待が入り混じった顔で深呼吸を繰り返している。

「大丈夫、大丈夫!練習通りやれば絶対いけるって!」

ムードメーカーの後輩が、わざと大きな声で仲間を鼓舞する。そのコミカルな仕草に、部屋の隅で強張っていた別の部員の顔が少しだけほころんだ。私も、その光景に口元を緩めながら、自分の通学かばんにいつも入れている母のお守りのポーチをそっと握った。

隣では、相沢莉子が静かに譜面台に置かれた『青のフーガ』の楽譜に視線を落としている。彼女の周囲だけ、喧騒から切り取られたような静寂が漂っていた。プロを目指す彼女にとって、今日の「シーサイド・シンフォニー」はただの学生音楽祭ではない。自分たちの音楽を、自分たちの言葉で証明する、最初の戦場だ。その横顔は、いつものようにストイックで、美しかった。

「…ねえ、天宮くん、遅くない?」

一年生の一人が、ぽつりと呟いた。その一言が、部屋を満たしていた楽観的な熱気に、冷たい針を突き立てた。時計を見れば、私たちの出番まで三十分を切っている。伴奏者である天宮奏が、まだ楽屋に姿を見せていない。

「トイレじゃない?あいつ、緊張するとすぐお腹壊すタイプかもよ」 「それはないでしょ、あのクールな天宮くんが」

軽口を叩き合いながらも、誰もが互いの顔色を窺っている。時間が砂時計の最後の砂粒のように、一秒、また一秒と確実に落ちていく。ざわめきの中に、じりじりと焦げ付くような不安の匂いが混じり始めた。

「私、ちょっと見てくる」

それまで沈黙を守っていた莉子が、すっと立ち上がった。その声にはまだ冷静さが保たれている。彼女は、こういう土壇場で決して揺らがない。目標に向かって積み重ねてきた努力が、彼女の精神を鋼のように鍛え上げてきたのだ。そう、私は信じていた。

莉子が楽屋を出て数分後、戻ってきた彼女の顔を見て、私は心臓が凍りつくのを感じた。血の気が引き、陶器のように白い顔。その手には、奏がいつも大切に抱えていた作曲ノートが握られていた。湊先生が入院してから、私たちの練習を導き、迷走するアレンジを正し、そして私たち三人の心を繋いできた、あのノートだ。

「ピアノの椅子の上に…これだけが置いてあった」

莉子の声は、か細く震えていた。彼女がゆっくりとノートを開く。私たちは、息を飲んでその手元を見つめた。最後のページ。そこには、走り書きのような、震える筆圧で記された短い文章があった。

『やっぱり僕には、人前でピアノを弾く資格がない。ごめん』

その言葉が、楽屋の空気を完全に砕いた。 「嘘…だろ…」 「どうすんの、伴奏は…?」 「棄権、するしかないの…?」 パニックに陥った部員たちの声が、壁にぶつかって虚しく響く。昨日までの希望に満ちたハーモニーは跡形もなく消え去り、そこには絶望という名の不協和音だけが満ちていた。

その中心で、莉子が崩れ落ちるように椅子に座り込んだ。彼女は、自分の練習ノートを胸に抱きしめ、ただわなわなと唇を震わせている。

「どうして…あんなに、あんなに練習してきたのに…。やっと、私たちの音楽が形になったのに…。どうして、最後の最後で…」

努力は必ず報われる。そう信じて、誰よりも真摯に音楽と向き合ってきた親友の、初めて見る無防備で、脆い姿だった。彼女の瞳から、こらえきれなかった涙が一筋、完璧に磨き上げられた楽譜の上に落ちて、インクを滲ませた。

その光景が、私の胸を鋭く抉った。そうだ、奏は逃げたんだ。あのコンクールの時のように。大観衆、審査員、期待…その全てが、彼の繊細な心を蝕む毒になることを、私は知っていたはずなのに。動画サイトで見た、鍵盤の上で凍りついた彼の指。虚空を見つめる絶望的な瞳。あの記憶が、目の前の現実と重なり、激しい後悔となって私を襲う。

でも、違う。 本当にそうだろうか? ポケットの中で、いつからかお守りになった湊先生の音叉の冷たい感触が、私を現実に引き戻した。

私は、奏のノートを莉子の手から受け取った。震える文字を、指でそっとなぞる。これは、ただの逃亡の言葉じゃない。これは、彼の魂の叫びだ。助けを求める、悲鳴だ。

「莉子」

私は、うなだれる親友の肩に手を置いた。

「違うよ。奏は、まだ諦めてない」

「…何言ってるの、夏帆。もう無理よ。時間もない。先生もいない。奏くんもいない…。私たちだけで、どうやってあの舞台に立てるっていうの…?」

莉子の声は、諦観に濡れていた。しかし、私は首を横に振った。

「立てるよ。ううん、立たなきゃダメなんだ。奏が、自分の音を取り戻すために。そして、私たちが、私たちの音を届けるために」 私の脳裏に、いくつもの風景が駆け巡る。進路調査票を前に空っぽだった自分。湊先生の「君だけの音を探せ」という言葉。奏が初めて音楽室で弾いてくれた『青のフーガ』の断片。莉子とぶつかり、コーヒー牛乳を分け合ったあの日のこと。健太の「お前が本気だってことは、俺が一番知ってる」という真っ直ぐな声。そして、夕凪駅のベンチで、野良猫に餌をやりながら、ぽつりぽつりと自分の弱さを吐露してくれた奏の、あの寂しげな横顔。

そうだ、彼が行く場所は一つしかない。 人が多すぎず、静かすぎない場所。誰にも邪魔されずに、でも独りきりにはなれない場所。潮騒の音が、心のノイズを優しくかき消してくれる、あの場所。

「私、行ってくる。奏を連れてくる」

私は、決意を込めて言った。楽屋中の視線が、私に突き刺さる。

「馬鹿なこと言わないで!もうすぐ出番なのよ!あなたが行って、もし見つからなかったら?間に合わなかったら?そしたら、私たち全員が、ここで終わりなのよ!」

莉子が、すがるように私の腕を掴んだ。その瞳には、友情と、絶望と、そしてわずかな期待が入り混じっていた。私は、その手を強く握り返した。

「終わりになんて、させない。私が空っぽだった時、みんなが私の居場所になってくれた。莉子がいて、健太がいて、湊先生がいて、そして、奏がいた。彼の音が、私の心の隙間を埋めてくれた。私に、『本気』を教えてくれた。だから今度は、私が彼の居場所になる番なんだ。彼の音が迷子になってるなら、私が見つけにいく。私だから、見つけられる。私にしか、見つけられないんだよ!」

それは、もう空っぽの私から出た言葉ではなかった。私の中に生まれた、確かな「私の音」だった。

魂の叫びは、凍りついていた楽屋の空気を震わせた。うなだれていた部員たちが、はっと顔を上げる。莉子の瞳が、大きく見開かれた。

私は頷くと、彼女の手を振りほどき、楽屋のドアに手をかけた。

「みんなは、ギリギリまで声出ししてて!信じて、待ってて!」

「夏帆!」

莉子の制止の声を背中に浴びながら、私は廊下へ飛び出した。私たちのシンフォニーは、まだ始まってもいない。主役がいない舞台なんて、絶対に認めない。

熱気と喧騒の中を、私はただひたすらに、あの夕凪の駅を目指して走り始めた。

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