第35話 決戦前夜の静寂
最後の和音が、夕暮れの音楽室に溶けて消えていく。ピアノの余韻が壁に吸い込まれ、満ちていた音が引いた後に残されたのは、心地よい疲労感と、明日への期待に満ちた静寂だけだった。 「シーサイド・シンフォニー」本番前夜。湊先生という指揮者を失ったオーケストラにも似た僕たち、新生合唱部の最後の練習が終わった。
「……よしっ!今日はここまで!」
誰が言うでもなく、部長となった莉子がパン、と手を叩いた。その音を合図に、張り詰めていた空気がふわりと緩む。後から入ってきた新入部員たちが「お疲れ様でしたー!」とあちこちで声を掛け合い、その声はまるで練習の続きのように、自然なハーモニーを奏でていた。 私は、その光景を眩しい思いで見つめていた。空っぽだった自分が、こんなにも温かくて優しい音に囲まれている。それが信じられなくて、ポケットの中の古い音叉をそっと握った。
「ねぇ、みんな!最後に円陣組もうよ!」
私がそう叫ぶと、みんなが「おー!」と笑いながら集まってくる。中心には、少し照れたように俯く奏と、厳しくも優しい眼差しでみんなを見渡す莉子がいる。私たちは肩を寄せ合い、小さな円を作った。
「なんかさ、」と私が切り出す。「湊先生がいなくなって、もうダメだって思った時もあったけど……。莉子がいて、奏がいて、みんながいて。私、今、すっごく楽しい。明日、どんな結果になっても、このメンバーで歌えることが、もう最高の賞だよ」
「夏帆……。当たり前のこと言わないで」莉子が少し呆れたように、でもその口元は綻んでいた。「私たちは、勝つためにやってきたのよ。もちろん、あなたや天宮くん、みんなと一緒に歌えることは、私にとっても……何よりの喜びだわ。だからこそ、最高の音を届けましょう。湊先生にも、客席の誰かにも、そして、何より私たち自身に」
その言葉に、みんなが力強く頷く。私はスマホを取り出し、内側のカメラを向けた。「じゃあ、撮るよー!私たちのシンフォニー、始めよう!」 カシャ、という軽いシャッター音と共に、仲間たちの最高の笑顔が液晶画面に切り取られた。私はその写真に、ただ一言、「#私たちのシンフォニー」というハッシュタグだけを添えて、SNSに投稿した。言葉にならない想いのすべてが、その短いタグに凝縮されている気がした。
***
自室の窓辺に立ち、天宮奏は静かに港を眺めていた。遠くで点滅する灯台の光が、寄せては返す波の音に無言のリズムを刻んでいる。さっきまでの音楽室の喧騒が嘘のように、世界は静寂に包まれていた。だが、彼の内側では、嵐が近づいていた。
無意識に指が動く。空中に、見えない鍵盤を思い描きながら、『青のフーガ』の旋律をなぞる。夏帆と、莉子と、みんなで見つけ出した、新しい光を宿した旋律。仲間と音を重ねる喜びは本物だった。夏帆の隣で音楽を奏でる時間は、何にも代えがたい宝物だ。
――なのに。
指先が、微かに震え始めた。 脳裏に蘇るのは、あの日の光景。万雷の拍手と期待を一身に浴びて登ったステージ。完璧でなければならないという重圧。そして、クライマックスで訪れた、突然の断絶。鍵盤の上で凍りついた指。騒然となる客席。審査員の冷たい視線。音が、世界から消えたかのような、あの絶望的な静寂。
「怖いんだ……」
絞り出すような声が、部屋の静けさに吸い込まれていく。ポケットの中の古いオルゴールを、祈るように強く握りしめた。幼い日に出会った、あの迷子の女の子。彼女の笑顔だけが、僕の音楽が誰かを救えた唯一の証。その思い出が、今もかろうじて僕を支えている。だが、明日、ステージの上で同じ悪夢が繰り返されたら? 大切な仲間たちのハーモニーを、僕一人の弱さが壊してしまったら?
「弾きたいんだ。心から……。君の隣で、もう一度。君が僕の音楽の始まりだったって、ちゃんと伝えたい。でも、もしまた……僕の音が、一番大事な時に僕を裏切ったら……僕は、どうすればいい?」
その時、ポケットのスマホが短く震えた。画面に映し出されたのは、夏帆が投稿した一枚の写真。 「#私たちのシンフォニー」 そこには、仲間たちの笑顔の中心で、緊張しながらも必死に微笑もうとしている自分の顔があった。不器用で、ぎこちなくて、でも確かに仲間の中にいる、自分の姿が。 奏は、その写真を、ただじっと見つめていた。希望の光と、すぐそばまで忍び寄る過去の冷たい影。二つの感情が彼の心で激しくせめぎ合い、決戦の日は、静かに、しかし確実に近づいてきていた。
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