第39話 君が、僕の音楽の始まり
夕凪駅のホームを染め上げる茜色の光が、天宮奏の白い頬を照らしていた。彼の指先で静かに回る古いオルゴールの蓋が開かれ、錆びたぜんまいが軋みながらも、あまりにも懐かしい旋律を奏で始める。それは、高槻夏帆の心の奥底で、ずっと鳴り響いていた音。迷子だった自分を、見知らぬ少年のピアノが救ってくれた、遠い夏の日の記憶。
「それ……」
夏帆の唇から、か細い声が漏れた。
「私の、オルゴールだ」
時が止まる。遠くで繰り返す潮騒の音だけが、世界の背景として存在していた。奏の肩が、微かに、しかし確かに震えた。彼はゆっくりと顔を上げ、信じられないものを見るように夏帆を見つめる。そのガラス玉のように透き通った瞳が、夕陽を映して揺らめいていた。
夏帆の脳裏で、閉ざされていた記憶の扉が、軋みを立てて開いていく。強い日差し。知らない町のざわめき。母親とはぐれた心細さで、今にも張り裂けそうだった小さな胸。そんな彼女の耳に届いた、澄んだピアノの音色。古い教会の扉の向こう、ステンドグラスの光の中で、一人の少年がピアノを弾いていた。そのメロディは、悲しいようで、温かくて、夏帆の涙を優しく拭ってくれた。必死に記憶を辿る。そうだ、お礼を言いたくて、でも声が出なくて、代わりに一番大切にしていたオルゴールを差し出した。でも、驚いた少年の前で、それを落としてしまったのだ。
「あの時の女の子、私だよ」
言葉は、確信となって紡がれた。目の前の奏の姿に、光の中でピアノを弾いていた少年の面影が、寸分の狂いもなく重なる。
奏は息を呑んだまま、動けずにいた。彼が語った、たった一度の、誰かのための演奏。彼の音楽が誰かを救えると知った、原初の体験。その思い出の少女が、今、目の前にいる。彼がずっとお守りのように握りしめてきた、壊れたオルゴールの持ち主が。
やがて、彼の完璧な均衡を保っていた表情が、ゆっくりと崩れていった。堪えきれない何かが堰を切ったように、その大きな瞳から一筋、涙がこぼれ落ちた。それは夕陽にきらめきながら、静かに彼の頬を伝っていく。
「……そうか」
絞り出すような声だった。
「君が……君が、僕の音楽の始まりだったんだ」
奏は、まるで長年背負ってきた重荷を下ろすように、深く息を吐いた。彼の言葉は、告白であり、祈りのようでもあった。
「僕は、ずっと勘違いしていたのかもしれない。僕のピアノは、いつからか聴衆のためにあった。審査員のためにあった。完璧でなければ、賞賛されなければ、価値がないと信じ込んでいた。期待という名の重圧が、僕の指を、心を、がんじがらめに縛り付けていたんだ。だから、怖かった。またあの沈黙の中で、僕の音が僕を裏切るのが……。でも、違った。本当は、そんなもののためにピアノを弾き始めたんじゃない」
奏は夏帆を真っ直ぐに見つめ、その瞳に宿る光はもう迷っていなかった。
「僕の音楽の始まりは、コンクールじゃなかった。誰かの喝采でも、専門家の評価でもなかった。……君だったんだ、高槻さん。あの時、泣いていた君が、僕の拙いメロディを聴いて、初めて笑ってくれた。ただそれだけが、僕にとってのすべてだった。僕の音が、誰かの心に届く喜び。それを教えてくれたのは、君だった。なのに、僕はその一番大切な原点を、大勢の声の中に埋もれさせて、見失っていたんだ……」
彼の独白は、夏帆の心を強く揺さぶった。空っぽだった自分。何者かにならなければと焦っていた自分。莉子の才能や健太のひたむきさに嫉妬し、自分の不確かさに苛まれていた日々。そのすべてが、奏の言葉と共鳴する。
「私も……私も、同じだったかもしれない」と夏帆は応えた。自分の気持ちに嘘をつかない、その一心で言葉を紡ぐ。
「私には何もないって、ずっと思ってた。本気になれるものがなくて、進路調査票はずっと真っ白。周りのみんなが眩しくて、自分だけが色褪せて見えてた。湊先生に『君だけの音を探せ』って言われたって、そんなものどこにあるのか全然わからなかった。でも……あなたのピアノを聴いて、あなたの『青のフーガ』に触れて、みんなで歌おうって必死になって、やっと分かった気がするの」
夏帆は一歩、奏に近づいた。
「私だけの音っていうのは、きっと一人で見つけるものじゃない。誰かと、あなたと響き合うことで、初めて生まれる音なんだって。あなたの音が私の心に届いた時、私の声が莉子の声と重なった時、そこには確かに、私にしか鳴らせない音が鳴っていた。だから……もう一度弾いて、天宮くん。聴衆のためでも、審査員のためでもない。あなたの、そして私たちのために。あなたが本当に届けたいと思った、たった一人のために。いいじゃない、始まりが私だったなら、もう一度、私のために弾いてよ!」
その言葉は、命令でも懇願でもなく、魂からの叫びだった。
奏の心を縛り付けていた最後の鎖が、音を立てて砕け散るのが見えた気がした。トラウマという名の冷たい氷が、夏帆の情熱で溶かされていく。奏は涙の跡が残る顔で、しかし、初めて見るような力強い笑みを浮かべた。それは、夏帆がずっと見たかった、彼の本当の笑顔だった。
「うん……」
奏は力強く頷くと、勢いよく立ち上がった。そして、迷いのない手で、夏帆の手を強く握った。驚くほど熱い、ピアニストの手だった。
「ありがとう、高槻さん。君が、僕を僕の音楽に再会させてくれた。行こう。君の隣で、もう一度ピアノが弾きたい。いや、弾かせてほしい」
「……奏」
夏帆は初めて、彼の名前を呼んだ。奏は驚いたように少し目を見開いたが、すぐに嬉しそうに目を細め、その手をさらに強く握り返した。
「行こう、夏帆」
二人は固く頷き合う。もはや言葉は必要なかった。未来が待つステージへ。仲間が待つ場所へ。夕凪駅のホームを蹴って、二人は市民ホールへと駆け出した。沈みかけた夕陽が、まるでスポットライトのように、彼らの背中をいつまでも照らしていた。
走る夏帆の胸には、達成感と、それ以上の喜びが満ちていた。失敗も、遠回りも、すべてがこの瞬間のためのプレリュードだったのだ。奏と繋いだ手から伝わる温もりが、彼女が探し続けた「自分だけの音」の、確かな答えのように感じられた。潮騒が、風が、町のすべてが、二人を祝福する壮大なシンフォニーとなって鳴り響いていた。
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