第33話 現実の錨、友情の風
湊先生が倒れてから、音楽室の空気は淀んだままだった。
夏帆の魂の叫びが、一度は部員たちの心を繋ぎとめたはずだった。しかし、羅針盤を失った船のように、私たちの歌はどこへも進めずにいた。音程はずれ、リズムは乱れ、ハーモニーは濁った川のように淀んでいる。指導者がいないという現実は、私たちが思っていた以上に重く、それぞれの心に影を落としていた。
「そこ、音が半音下がってる!」
莉子の鋭い声が飛ぶ。しかし、その声にはいつものような確信はなく、焦燥だけが滲んでいた。彼女は完璧を求めるあまり、今の不完全な自分たちを許せずにいるのだ。ピアノの前に座る奏も、ただ黙々と鍵盤を叩いているが、その背中からはどうしようもない無力感が漂っていた。彼の紡ぐ音さえ、どこか迷っているように聞こえる。新しく入った部員たちは、そんな私たちの姿を不安そうに見つめるばかりだ。
私が、私がしっかりしなくちゃ。湊先生に託されたんだから。でも、どうすればいいのか分からない。空回る言葉、届かない想い。焦りだけが募り、息が詰まりそうだった。
その時だった。重苦しい沈黙を破るように、音楽室のドアがガラリと音を立てて開いた。
「よぉ、頑張ってるか」
そこに立っていたのは、泥と汗にまみれた野球部のユニフォーム姿の橘健太だった。グラウンドの土の匂いと、夏の夕暮れの光を背負って。その場違いなほどの明るさに、私たちは一瞬、言葉を失った。
数日前、夕凪駅で激しくぶつかり合った気まずさが、私の胸をよぎる。しかし、健太の表情は、あの時の嫉妬や焦りを微塵も感じさせない、突き抜けるような青空みたいに晴れやかだった。
彼はまっすぐに私の方へ歩み寄ってくると、持っていたスポーツドリンクの冷たいボトルを、私の汗ばんだ額にそっと当てた。
「ひゃっ!?」 「おつかれさん」
悪戯っぽく笑う健太の笑顔は、昔から何も変わらない。その変わらなさが、今は不思議と心を解きほぐしていく。
「……こないだは、悪かった」
健太は少し照れたように帽子のつばをいじりながら、視線を落とした。
「ガキみたいなこと言っちまって。お前のこと、全然わかってなかった。いや……本当は、わかろうとしなかったんだと思う。俺の知らない顔で、俺の知らない世界に行っちまうのが、ただ怖かっただけなんだ。お前が、俺の知ってる夏帆じゃなくなるみたいで」
彼の率直な言葉が、私の心の壁を静かに溶かしていく。
「でもな、今日、グラウンドから聞こえてたんだよ、お前らの歌。正直、めちゃくちゃで、何歌ってんのか全然わかんなかったけど……でも、すげえ必死なのは伝わってきた。ああ、こいつ、本気なんだなって。俺がマウンドでボールを投げるのと同じなんだなって、やっと、やっとわかったんだ。お前は、お前だけの音を見つけたんだろ?だったら、俺はそれを邪魔するんじゃなくて、一番近くで応援しなきゃダメだよな」
健太は顔を上げ、私の目を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、一点の曇りもない、澄んだ光が宿っていた。
「だから、応援させてくれ。音楽のことは、これっぽっちもわかんねえ。ドレミだって怪しいくらいだ。でも、高槻夏帆が、俺の幼馴染が、こんなに本気で何かに打ち込んでる。そのことを、俺が応援しなくてどうすんだよ。俺は、お前の一番のファンだからな。ガキの頃、町内会の運動会で二人三脚のメダル取った時から、ずっとそうだ」
裏表のない、太陽みたいな言葉。それは音楽じゃない。理論もない。でも、どんな美しいハーモニーよりも強く、深く、私たちの心に染み渡っていった。見れば、莉子も、奏も、他の部員たちも、呆然と健太を見つめている。
彼の存在そのものが、私たちの「日常」だった。当たり前に隣にいて、笑い合って、時には喧嘩もする。音楽という非日常に深く沈み込んでいた私たちを、彼の言葉は力強く現実の世界に繋ぎとめてくれた。砕け散ったと思っていた錨は、もっと太く、強い絆となって、再び私の心に下ろされたのだ。
「……ありがとう、健太」
涙で滲む視界の中で、私はやっと笑うことができた。
「うん、ありがとう」
もう大丈夫。一人じゃない。私の音は、みんなの音は、ここにある。健太が運んできてくれた友情という名の風が、音楽室に新しい空気を満たしていく。私は、もう一度仲間たちの顔を見渡し、深く息を吸い込んだ。最後の壁を乗り越えるための、確かな勇気が満ちてくるのを感じていた。
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