32話 私が鳴らす音

# 第3幕 私たちのシンフォニー ## エピソード2 私が鳴らす音

翌日の昼休み、高槻夏帆たち新生合唱部のメンバーは、教頭室の前に立っていた。呼び出しの理由は、誰の口から語られるまでもなく、全員が理解していた。湊先生が昨夜、救急搬送されたという知らせは、すでに学校中に静かな波紋を広げていた。

ノックをして中に入ると、そこは書類と無機質なスチール家具に支配された、色のない空間だった。分厚い眼鏡の奥から厳しい視線を投げかける教頭は、どうぞ、と椅子を勧める声色にさえ、温度というものを感じさせなかった。

夏帆、親友の相沢莉子、転校生の天宮奏、そして最近になってようやく集まった数人の新入部員たちが、硬いパイプ椅子に腰を下ろす。窓の外からは、夏の強い日差しを浴びて活気づくグラウンドの声が微かに聞こえてくるが、この部屋の空気はまるで真空パックされたかのように、外界から切り離されていた。

「さて、単刀直入に本題に入ります」

教頭は前置きを嫌う男だった。積み上げられた書類の山から一枚の用紙を抜き取り、指でとんとんとテーブルを叩く。

「顧問である湊先生が、当面の間、療養に入られることになりました。まことに遺憾なことです。そこで、君たちの活動についてですが……夏の学生音楽祭『シーサイド・シンフォニー』への出場は、辞退していただくことになります。それに伴い、合唱部の活動も、追って沙汰があるまで、暫定的に停止とします」

事務的な、抑揚のない声。それは決定事項の通達であり、議論の余地など微塵も含まれていなかった。

冷たい宣告が、部屋の空気を氷点下まで引き下げる。新入部員たちが不安そうに顔を見合わせる中、莉子は血の気の引いた顔で、固く握りしめた両手を膝の上に置いていた。彼女の傍らには、いつも丹念に記録がつけられた練習ノートがある。その角が、白くなった指に食い込んでいるのが見えた。プロの声楽家になる。その揺るぎない目標に向かって、誰よりもストイックに努力を重ねてきた彼女にとって、指導者の不在と活動の停止は、羅針盤を失った船が航海の終わりを告げられるにも等しい絶望だった。唇をきつく噛みしめ、俯いたまま、彼女は一言も発することができない。

隣に座る奏もまた、静かに床の一点を見つめていた。そのガラス細工のように整った横顔には、感情の色が浮かんでいない。だが、夏帆にはわかった。彼のその静寂は、無関心ではない。過去のトラウマから、再び「公の舞台」に立つという希望をようやく見出し始めた矢先の、残酷な現実。それは、またしても運命に拒絶されたかのような、深い諦観の色を帯びていた。

「……決定、ですか」

かろうじて声を絞り出したのは、新入部員の一人だった。

「決定です。学校として、顧問の監督責任なく生徒を公式な大会に出場させることはできません。安全管理上の問題、と言えば理解できるでしょう。これは規則であり、前例もありません」

教頭の言葉は、正論という名の分厚い壁だった。誰もがその壁の前で、為す術もなく立ち尽くす。ああ、終わるんだ。やっと見つけた、みんなで音を響かせる場所が、こんなにあっけなく。夏帆の胸を、かつて進路調査票を前にした時と同じ、空虚な無力感が覆い尽くそうとしていた。

その時だった。

「嫌です」

凛、とした声が、重苦しい沈黙を切り裂いた。

声の主は、高槻夏帆だった。彼女は椅子からすっくと立ち上がり、教頭をまっすぐに見つめていた。その瞳には、もう空っぽだった頃の揺らぎはない。燃えるような、強い意志の光が宿っていた。

驚いたように視線を上げた教頭に、夏帆は一歩、前に出た。

「高槻さん、君一人が嫌だと言っても……」

「私一人じゃありません」

夏帆は、教頭の言葉を遮った。ポケットの中で、湊先生から託されたままの冷たい音叉を、祈るように強く握りしめる。その金属の感触が、彼女に勇気を与えてくれた。

「先生は、私たちに託したんです。ただ倒れたんじゃない。私たちに、バトンを渡したんです。『君だけの音を探せ』って。世界の基準になる、この音をくれて……あとは自分たちでハーモニーを作れって、そう言ってくれたんです。それを、大人の都合で、規則だからって、取り上げるんですか。そんなの、あんまりです」

言葉が、堰を切ったように溢れ出す。それは、お世辞も建前も苦手な彼女の、魂からの叫びだった。

「私は、ずっと空っぽでした。進路調査票に何一つ書けなくて、本気で夢を追ってる莉子や、野球に打ち込んでる健太が眩しくて、そんな自分が大嫌いだった。でも、この合唱部で、湊先生や奏や、みんなに出会って……初めて見つけられたんです。私がここにいていいって思える場所を。私が、本気で鳴らしたいって思える音を!それを、こんな形で終わらせたくない!」

教頭は眉間に深い皺を寄せ、腕を組んだ。 「気持ちはわかる。君のその情熱は、素晴らしいものだ。だがね、高槻さん。世の中は情熱だけでは動かない。組織にはルールがあり、責任というものが伴う。もし、君たちが大会で何か問題を起こした場合、その責任は一体誰が取るんだね?顧問のいない部活動など、学校としては認可できない」

「責任なら、私が取ります」

夏帆は即答した。その言葉に、俯いていた莉子がはっと顔を上げる。

「いいえ」夏帆は続ける。「私たち、全員で取ります。私たちの音楽で、その覚悟を示します。聴いてください。私たちの覚悟の音を。それが、私たちの答えです。先生、規則や前例がそんなに大事ですか?生徒が、本気で何かに挑戦しようとしている。その芽を、摘んでしまうことのほうが、よっぽど無責任じゃないですか?」

その魂の叫びは、冷え切っていた教頭室の空気を震わせた。それはもはや、ただの高校生の反抗ではなかった。一人の人間が、自らの存在を賭けて発する、真摯な問いかけだった。うなだれていた部員たちの心に、夏帆の言葉が熱い楔となって打ち込まれる。そうだ、終わりじゃない。終わらせてはいけない。

夏帆は、教頭から視線を外し、ゆっくりと仲間たちを振り返った。込み上げる熱いものを必死にこらえ、涙で潤む瞳で、一人ひとりの顔を見つめる。

「みんな、ごめん。勝手なこと言って。でも、私は歌いたい。このメンバーで、あの舞台で、私たちの『青のフーガ』を歌いたい」

その声は、震えていた。しかし、その震えは恐怖からではなかった。仲間への信頼と、未来への強い希求から来る、武者震いだった。

「先生が立てなかったあの舞台で、今度は私たちが、先生の想いも乗せて歌うの。失敗したっていい。笑われたっていい。でも、何もしないで終わるなんて、絶対に嫌だ!どんな失敗も、いつかはきっと素敵な思い出になるって、そう信じたいから。私、もう逃げたくないんだ」

夏帆の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。しかし、その顔は晴れやかに、誇らしげにさえ見えた。

莉子の瞳が、大きく見開かれる。彼女は、夏帆の顔に、今まで見たことのない光を見た。それは、才能や技術とは違う、もっと根源的な強さ。人を巻き込み、心を繋ぐ、本物のリーダーの光だった。奏もまた、固く閉ざしていた唇をわずかに開き、夏帆の姿を凝視していた。彼の心の奥底で、何かが静かに、しかし確実に溶け始めていた。

沈黙が続く。だがそれは、先ほどまでの絶望的な沈黙とはまるで違っていた。一つの魂の叫びが、砕け散りそうだった仲間たちの心を繋ぎとめ、新たなハーモニーを生み出そうとしている。

潮騒のプレリュード。 彼女たちの、本当の交響曲は、今、この瞬間から始まろうとしていた。

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私が鳴らす音 - 青のフーガ - 誰でも作家life