31話 砕かれたハーモニー

夏の光が、放課後の音楽室に満ちていた。西陽は床の古いワックスを琥珀色に照らし、宙を舞う細かな埃の一粒一粒を、まるで煌めく音符のように浮かび上がらせる。その光の束を切り裂くように、湊誠のしなやかな腕が宙を舞った。

「はい、そこからもう一度。アルト、もう少しソプラノに寄り添うように。夏帆さん、君の音はいい意味で自由すぎる。莉子さんの声を聴いて。彼女の声が、今、この曲の北極星だ」

湊の飄々とした、しかし的確な指示が飛ぶ。ピアノの前に座る天宮奏が、こくりと頷いて序奏の数小節を弾き直した。彼の指先から紡がれる『青のフーガ』の旋律は、もはや未完成の独白ではなく、幾つもの声を受け入れるための、優しく広大な大地となっていた。

「シーサイド・シンフォニー」本番まで、あと一週間。廃部寸前だった合唱部は、今や十数人の歌声が響き合う、生命力に満ちた場所に変わっていた。

高槻夏帆は、隣に立つ相沢莉子の横顔を盗み見る。プロの声楽家を目指す親友は、一分の隙もなく背筋を伸ばし、その瞳は真っ直ぐに湊の指揮棒だけを見据えている。彼女から放たれる声は、寸分の狂いもなく空間を貫き、迷える他のパートを導く光のようだった。その完璧な響きに、夏帆は自分の荒削りな声を重ねていく。一人では決して見つけられなかった音。誰かの声と交じり合い、高め合うことで生まれる、奇跡のようなハーモニー。空っぽだった自分が、確かにここにいると、ここにいていいのだと、初めて心から思えた。

「いいね、すごく良くなった。その調子だ」

湊が満足そうに微笑んだ、その時だった。

コン、コン、と控えめなノックの音と共に、音楽室のドアが静かに開いた。そこに立っていたのは、学年主任の、いつもは厳しい表情を崩さない壮年の教師だった。彼の顔には、普段の険しさとは違う、言い淀むような困惑の色が浮かんでいる。その異様な雰囲気に、歌声は自然と途切れ、奏のピアノも止まった。

静寂。学年主任はゆっくりと室内を見渡し、やがて絞り出すように言った。

「……湊先生が、倒れられた。昨夜、職員室で。……今、病院に運ばれて、緊急手術を受けておられる」

その言葉が何を意味するのか、すぐには理解できなかった。 空気が凍りつく。さっきまで光に満ちていた音楽室から、まるで一瞬にしてすべての色彩と温度が奪われたかのようだった。誰かの息を呑む音だけが、やけに大きく響いた。

最初に動いたのは、莉子だった。

彼女は血の気の引いた、まるで白い仮面のような顔で、ゆっくりと椅子に座り込んだ。その手から、楽譜がぱらぱらと床に滑り落ちる。そして、これまで彼女が全身全霊をかけて書き込んできた練習ノートを、まるで墓標でも閉じるかのように、パタン、と音を立てて閉じた。

その乾いた音が、新生合唱部の終わりを告げる断頭台の刃の音のように、夏帆の耳には聞こえた。

「……無理よ」

莉子の唇から、か細い、しかし絶望の全てを凝縮したような声が漏れた。

「湊先生なしで、あの舞台に立つなんて……無理に決まっているじゃない」

その言葉は、脆いガラス細工に走った亀裂のように、部員たちの間に瞬く間に広がっていった。最近入ったばかりの一年生たちは、どうしていいか分からずに顔を見合わせ、不安そうに身を寄せ合っている。彼らにとって、湊誠という指揮者は、この合唱部の絶対的な支柱であり、世界の中心そのものだったのだ。

奏は、ピアノの鍵盤に置いたままの指を、微動だにさせなかった。彼のガラス細工のように美しい横顔は、感情の読み取れない静寂を纏っている。だが、その瞳の奥深くには、過去のコンクールで絶望したあの日の影が、冷たい靄のように再び立ち込めているのを、夏帆は見逃さなかった。まただ。また、大事な舞台を前に、何かが壊れていく。その無力感が、彼の肩を重く圧しているのが分かった。

「だって、そうでしょう?」

莉子が立ち上がり、震える声で、しかしはっきりと皆に語りかけた。その声には、彼女の信じてきた世界の崩壊を前にした、悲痛な叫びが込められていた。

「私たちの『青のフーガ』は、まだ完成していない。先生の指揮があって、先生の指導があって、初めて一つの音楽になるはずだった。それを、私たちだけで? 付け焼き刃の、未熟な演奏をあの舞台で披露するっていうの? それは音楽への冒涜だわ。何より……ここまで私たちを導いてくれた湊先生に対する、最大の裏切りじゃない!」

彼女の言葉は、冷たい刃となって部員たちの心を突き刺した。それはあまりにも正しく、論理的で、反論の余地のない事実だったからだ。プロを目指す彼女にとって、中途半端なものを世に出すことは、自らのプライドと思想が許さない。努力は必ず報われると信じてきた。しかし、その努力を完成させるための最後のピースが、今、無慈悲に奪われたのだ。

「辞退しましょう、シーサイド・シンフォニーは。それが、私たちにできる唯一の誠実な選択よ。先生が元気になって戻ってきたら、また……また一から始めればいいじゃない」

また、一から。その言葉は、慰めではなく、終わりを意味していた。部員たちの間に、諦観の空気がじわじと広がっていく。誰もが俯き、莉子の言葉に抗う気力さえ失っていた。そうだ、無理なんだ。先生がいなければ、何もできない。

違う。

夏帆は、そんな仲間たちの姿を呆然と見つめながら、心の内で叫んでいた。でも、声にはならなかった。莉子の言うことは正しい。悔しいけれど、正しいのだ。自分に何ができる? 莉子のような才能も、奏のような特別な力もない。ただ、本気になれる場所をやっと見つけただけの、空っぽの自分に。

諦めが、冷たい水のように足元から這い上がってくる。このまま流されてしまえば、楽になれるのかもしれない。傷つかずに済むのかもしれない。

その時だった。制服のポケットの中で、指先が硬く冷たい金属の感触に触れた。

――湊先生のチューニングフォーク。

あの日、「君だけの音を探せ」と、あの飄々とした笑顔で手渡された、世界の基準の音。

『正解を探すな。君だけの音を探せ』

湊先生の声が、耳の奥で蘇る。 夏帆は、ポケットの中でそれを、祈るように、あるいは藁にもすがるように、強く、強く握りしめた。

金属の冷たさが、じわりと手のひらに熱を帯びていくような錯覚。

違う。何かが違う。これで終わりなんて、絶対に違う。先生は、こんな結末を望んでいるはずがない。私たちがここで諦めてしまうことを、あの人は決して望まない。

しかし、どうすればいいのかは、まだ分からなかった。ただ、絶望という名の重く冷たい沈黙が支配する音楽室で、高槻夏帆はたった一人、砕け散ったハーモニーの欠片を握りしめ、その向こうにあるはずの、まだ見えない光を必死で探していた。

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砕かれたハーモニー - 青のフーガ - 誰でも作家life