第30話 幕切れの絶望と一枚のプログラム
その知らせは、まるで不意に鳴らされた不協和音のように、放課後のざわめきを切り裂いた。湊先生が、倒れた。昨夜、職員室で残務整理をしている最中に、心臓の発作で救急搬送されたのだと。その事実は、ようやく一つのハーモニーを奏で始めた合唱部に、容赦のない休止符を刻みつけた。
音楽室の空気は、鉛のように重かった。昨日まで湊先生の軽やかなタクトに合わせて響いていたはずの歌声はどこにもなく、代わりにすすり泣きを堪えるような微かな音が満ちている。新しく入ったばかりの部員たちは為す術もなく俯き、プロを目指す相沢莉子でさえ、血の気の引いた顔で楽譜を見つめたまま、その瞳は焦点を結んでいなかった。誰もが、指導者という支柱を失った途端に、自分たちの音が拠り所をなくして霧散していくのを感じていた。
「夏帆、あんた、先生から連絡先聞いてるでしょ。病院、どこかわかる?」
莉子が絞り出すような声で訊ねた。高槻夏帆は、ただ молча頷く。職員室の誰かが気を利かせて、入院先の病院と、着替えなどの身の回りのものを届けてほしいという伝言を教えてくれたのだ。
「私、行ってくる。先生の忘れ物、職員室の机にあるって言ってたから」
誰かが行かなければならない。その役目を、夏帆は自ら買って出た。それは困っている人を放っておけない彼女の性分でもあり、何より、じっとしていることへの焦燥感が彼女を突き動かしていた。動いていなければ、足元から崩れ落ちてしまいそうだった。
夕暮れの光が斜めに差し込む廊下は、奇妙なほど静かだった。運動部の威勢のいい声も、文化部の楽器の音も、まるで分厚いガラスの向こう側のように遠く聞こえる。夏帆は自分の足音だけがやけに大きく響く廊下を、職員室に向かって歩いた。
主のいない湊先生の机は、彼の不在を雄弁に物語っていた。まるで持ち主の魂が抜けてしまったかのように、そこだけが色を失っている。机上には、読みかけの分厚い楽譜――ストラヴィンスキーかバルトークか、夏帆には見当もつかない――が開かれ、傍らには世界各国の民族音楽が収められたであろうCDの山。そして、何よりも目を引いたのは、使い込まれたスケッチブックだった。パラパラとめくると、この港町の何気ない風景が、優しいタッチで描かれている。波止場に繋がれた漁船、夕凪駅のホームに佇む野良猫、商店街の軒先。彼の飄々とした視線が、この町を愛おしむように見つめていたことが伝わってきて、夏帆の胸は締め付けられた。
「着替えと……あと、これかな」
机の脇に置かれた小さなボストンバッグを手に取る。その時、開けっ放しになっていた一番上の引き出しから、一枚の古びた紙がはらりと床に舞い落ちた。
拾い上げたその紙は、黄色く変色し、角が擦り切れていた。ざらりとした手触りが、長い年月の経過を物語る。それは、学生音楽祭のプログラムだった。
『第28回 シーサイド・シンフォニー』
夏帆たちの目標である、あの音楽祭の、ずっと昔のプログラム。指でゆっくりとページを繰っていく。すると、ある高校の出場者名簿の中に、見慣れた名前を見つけて、夏帆は息を呑んだ。
『指揮:湊 誠』
高校時代の、湊先生の名前。まだあどけなさを残したモノクロの顔写真が、彼の名前の横に添えられている。今と変わらない、どこか掴みどころのない微笑み。だが、その瞳の奥には、今よりもずっと鋭く、野心的な光が宿っているように見えた。
彼もまた、この舞台に立っていたのだ。自分たちと同じように、音楽に夢を懸けて。その事実に、夏帆は不思議な感動を覚えた。しかし、次の瞬間、プログラムに記された小さな書き込みが、彼女の心を凍てつかせた。
演奏曲目の横に、震えるような筆跡で、たった一言。『惨敗』と。
そして、湊先生の名前の横には、まるで自らを罰するかのように、赤いペンで無数の×印が乱暴に書きつけられていた。
「……先生も、ここで」
挫折を、味わっていたのだ。
あの飄々とした態度。「正解を探すな、君だけの音を探せ」という謎めいた課題。どんな失敗も肯定的に捉え直してくれるような、あの柔らかな包容力。そのすべてが、この一枚のプログラムに記された、痛々しい過去から生まれてきたのかもしれない。彼が音楽家の道を諦め、教職を選んだ理由のひとかけらが、今、夏帆の目の前に差し出されていた。
ようやく見つけた光が、その源にある深い影を露わにする。衝撃に立ち尽くす夏帆の背後から、静かだが有無を言わせぬ声がかかった。
「高槻か。こんなところで何をしている」
振り返ると、そこには教頭が冷ややかな表情で立っていた。現実と規則を体現したような、隙のないスーツ姿。彼は夏帆が手にしているプログラムを一瞥すると、興味なさそうに視線を逸らした。
「湊先生のことなら、聞いている。まだ予断を許さない状況だそうだ。……それでだ。君たちにも伝えておかねばならん」
教頭は、まるで天気の話でもするかのような事務的な口調で続けた。
「顧問が長期不在となる以上、学校の規定に則って、合唱部の活動は本日をもって当面停止とする。もちろん、夏のシーサイド・シンフォニーへの出場も……わかるな?辞退してもらうことになる。これは学校としての責任問題だ。君たちの情熱だけでどうにかなる話ではない」
その言葉は、一音の狂いもなく、完璧にチューニングされた絶望の和音だった。夏帆の頭の中で、何かがぷつりと切れる音がした。
「待ってください!どうしてですか!先生は、私たちに……私たちに託したんです!やっと……やっと私たち、莉子も、奏も、新しく入ってくれたみんなも、一つの音になろうとしてたんです!空っぽだった私が、初めて本気になれる場所を見つけられたんです!それを、そんな……規則だからって、一方的に取り上げるなんて、そんなのって……!」
必死の抗弁は、しかし、教頭の表情を少しも揺るがさなかった。彼は憐れむような、それでいて侮蔑を隠さない目で夏帆を見下ろした。
「感傷で組織は動かんよ、高槻。湊先生も、教育者である以上、そのことは十分に理解しているはずだ。指導者の監督なくして、生徒だけの活動を認めるわけにはいかん。万が一、何か問題が起きた時、誰が責任を取るのかね?君か?違うだろう。学校だ。我々には、君たち生徒の安全を守る義務がある。わかるかね、これは君たちを守るための措置でもあるのだ」
「でも、私たちの音は……『青のフーガ』は、まだ未完成なんです!先生が戻ってくるまで、自分たちで練習を続けることくらい……!」
「それを暴走というのだよ」
教頭は冷たく言い放った。
「いいかね、高槻。これは決定事項だ。君たちが事を荒立てれば、合唱部は『活動停止』ではなく『廃部』という判断を下さざるを得なくなる。湊先生が守ろうとしてきたものを、君自身が壊したいのか?……軽率な行動は慎むことだ。それが、君たちにできる唯一のことだよ」
それは、反論の余地を一切与えない、完璧な「正論」だった。情熱も、夢も、仲間との絆も、その現実という名の分厚い壁の前では、あまりに無力だった。夏帆は唇を噛み締め、俯く。悔しさで滲んだ視界の中で、手にした古いプログラムがぐにゃりと歪んだ。湊先生の挫折の記憶が、今、自分たちの絶望と重なる。
職員室のドアを閉める、カタン、という無機質な音が、幕切れを告げる合図のように廊下に響いた。夏帆は力なく歩き出す。ポケットの中で、湊先生から託されたチューニングフォークが冷たく、重い。今は、あの澄んだAの音を鳴らす勇気はなかった。
ようやく見つけた、自分だけの音。仲間と響き合う喜び。その光が、今、音もなく消え去ろうとしている。夕日が血のように滲む長い廊下を、夏帆は自分の影だけを引きずりながら、ただ、歩いた。その一歩一歩が、終わりに向かうアダージョのように、ひどく重かった。
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