29話 指導者の倒れる夜

夏の気配を色濃く孕んだ風が、放課後の音楽室を吹き抜けていく。西陽が長い影を床に落とし、埃を金色にきらめかせていた。その光の粒子の中で、いくつもの声が重なり合い、一つのうねりとなって満ちていく。

「シーサイド・シンフォニー」の申し込み締切を、明日に控えていた。

「そこ! アルト、半音ずれてる! 夏帆、あなたでしょ!」

相沢莉子のソプラノが、厳しい指摘となって響く。彼女の手にはストップウォッチと、赤ペンでびっしりと書き込みがされた練習ノート。その視線は、譜面台の向こうでバツが悪そうに耳をいじっている親友、高槻夏帆に突き刺さっていた。

「えー、そうかなあ? なんかこう、フィーリングでいけるかと思って!」 「音楽はフィーリングの前に理論があるの! プロを目指すなら、基礎を疎かにするなんて……」 「はいはい、わかってますよ、莉子先生」

夏帆が悪戯っぽく笑うと、新しく入った部員たちからくすくすと笑い声が漏れた。たった二人で始まった合唱部が、今では十人近くの仲間で賑わっている。その中心には、静かに鍵盤に指を置く天宮奏がいた。

「……今の和音、夏帆のずれた音が、むしろ面白い響きになってた」

奏がぽつりと呟く。彼の言葉に、莉子は眉をひそめたが、夏帆は「でしょ!?」と得意げに胸を張った。

「私の魂のシャウトが、奏のハートに届いたんだよ!」 「シャウトじゃなくて、ただの音痴よ」 「なんだとー!」

まるでコミカルな二重奏のような言い合い。その光景を、部屋の隅で腕を組み、壁に寄りかかったまま、湊誠は見ていた。彼の口元には、いつもの飄々とした笑みが浮かんでいる。だが、その瞳の奥には、彼らの音楽を慈しむような、それでいて何か遠いものを見つめるような、複雑な光が揺らめいていた。

練習は熱を帯び、クライマックスに差し掛かる。夏帆の直感的な閃き、莉子の理論的なハーモニー、そして奏の繊細なピアノが、他の部員たちの声をまとめ上げ、一つの生命体のように脈動する『青のフーガ』を編み上げていく。不完全で、荒削りで、けれど、何物にも代えがたい「本気」の音がそこにはあった。

演奏が終わった瞬間、音楽室は達成感に満ちた静寂と、荒い呼吸の音に包まれた。

「……いいじゃないか」

湊が静かに拍手をする。「君たちだけの音が、確かに聴こえたよ」。その言葉に、部員たちの顔がぱっと輝いた。夏帆が駆け寄り、勢いよく頭を下げる。

「先生! 明日、申込書、絶対出しますから! 私たちの音、みんなに聴かせます!」 「ああ、頼んだよ」湊は夏帆の頭を軽く撫でた。「君たちの音楽を、あの舞台で思う存分、響かせてやってくれ」

それが、その日、彼らが交わした最後の言葉になった。

生徒たちの賑やかな声が遠ざかり、校舎が深い静寂に包まれる頃、湊は一人、職員室の自席で溜息をついた。窓の外には、港町の灯りが星のように瞬いている。机の上には、残務処理の書類が小さな山を築き、その一番上に、「シーサイド・シンフォニー」への参加申込書が置かれていた。

彼は冷めたコーヒーを一口すすると、ゆっくりと申込書にペンを走らせる。団体名「港ヶ丘高校合唱部」。指揮者、湊誠。そして、奏者たちの名前。高槻夏帆、相沢莉子、天宮奏……一つ一つの名前をなぞるたびに、生徒たちの顔が、声が、音楽が、鮮やかに蘇る。

「……本当に、面白い奴らだ」

独りごちて、湊はふと机の引き出しに手を伸ばした。中から取り出したのは、一枚の古びたプログラム。黄ばんだ紙には、インクのかすれた文字で、こう記されている。

『第15回 シーサイド・シンフォニー』

そして、出場者の中に、まだ十代の自分の名前を見つける。「指揮・ピアノ 湊誠」。

指先が、無意識にその名前をなぞる。途端に、遠い過去の音が蘇ってきた。割れんばかりの拍手。スポットライトの熱。そして、心臓を鷲掴みにされるような激しい痛みと、目の前が真っ暗になる感覚。音楽家になる夢を抱き、全てを賭けて臨んだあの舞台。そこで彼は、夢と共に倒れたのだ。

「結局、僕は逃げたのかもしれないな。あの日、あの舞台から。音楽そのものから……」

自嘲気味に呟く。教員という道を選び、才能ある若者たちを導く側に回った。それは一つの答えであり、同時に、ステージに立つことから目を背けるための、長い言い訳だったのかもしれない。だが、と湊は思う。

「でも、君たちがいる。高槻さんの、あの無茶苦茶で、調子っぱずれで、けれど人の心のど真ん中を射抜く、剥き出しの音。相沢さんの、どこまでも澄み渡り、一点の曇りもなく天を目指す、孤高の音。天宮くんの、深い痛みと絶望を抱えながら、それでもなお美しくあろうとする、祈りのような音……」

彼の脳裏に、今日の練習で響いた『青のフーガ』が流れる。それは、彼がかつて追い求めた完璧な音楽とは似ても似つかない。だが、なんと豊かで、なんと生命力に満ちた響きだろう。

「ああ、なんてことだ。僕には聴こえなかった音だ。僕が、捨ててしまった音だ。君たちなら……君たちなら、僕が立てなかったあの場所で、僕が見ることのできなかった景色を……」

その想いが胸に込み上げた、まさにその瞬間だった。

ぐ、と心臓が鈍く、重い音を立てて軋んだ。 激しい痛みが、ハンマーで殴られたかのように胸の中心を穿つ。

「……っ、ぁ……」

息ができない。吸っても吸っても、酸素が肺に届かない。視界が急速に白んでいき、職員室の蛍光灯が乱反射して目に突き刺さる。彼は椅子から崩れ落ちるようにして、机に突っ伏した。伸ばした手が書類の山を払い、申込用紙が床にひらりと舞い落ちる。

ポケットから滑り落ちたチューニングフォークが、床に当たって、甲高く澄んだ音を立てた。

キーン……。

世界の基準だというA(ラ)の音が、静まり返った職員室に、まるで弔いの鐘のように響き渡る。湊は必死に助けを呼ぼうとしたが、喉からは喘ぎのような音しか漏れない。遠のいていく意識のなかで、彼の脳裏に最後に浮かんだのは、めちゃくちゃな笑顔で「先生!」と叫ぶ、高槻夏帆の姿だった。

――君の、音を、聴かせてくれ。

それが、暗闇に沈む前の、彼の最後の願いだった。

翌朝、合唱部の部員たちが知ったのは、あまりにも残酷な現実だった。昨夜、職員室で倒れているところを発見された湊が、市内の病院に緊急搬送されたこと。そして、病名は、かつて彼の音楽家としての未来を奪ったものとまったく同じ、重い心臓の病の再発だということ。

知らせは、朝のホームルームで担任の口から淡々と告げられた。 教室の空気が、凍り付く。

高槻夏帆は、何も聞こえなかった。ただ、昨日交わした湊との最後の会話、「君たちの音楽を、響かせてやってくれ」という言葉だけが、頭の中で木霊し続けていた。

隣の席で、相沢莉子は血の気の引いた顔で、固く握りしめた練習ノートの角が白くなるほど力を込めていた。彼女にとって湊は、夢への道を照らす唯一無二の指導者だった。その光が、今、突然消えたのだ。

そして、少し離れた席に座る天宮奏は、まるで再び世界から音が消え失せたかのように、虚空を見つめて微動だにしなかった。

ようやく見つけた、仲間と音を奏でる場所。ようやく見えた、希望という名の舞台。 その全てを支えていた大きな柱が、今、音もなく崩れ落ちようとしていた。

潮騒のプレリュードは、最も美しい旋律を奏でようとした瞬間、突然の不協和音によって、無慈悲に断ち切られた。

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指導者の倒れる夜 - 青のフーガ - 誰でも作家life