第8話 図書室の窓際、並び直す

翌日の図書室は、朝から窓を少しだけ開けていた。

海から上がってくる風が、カーテンの裾を持ち上げている。紙の端がかすかに鳴り、書架のあいだに溜まった古い本の匂いへ、湿った春の空気が混ざっていた。窓際の席には返却された本が積まれ、その隙間に貸出票や補修用のテープが整然と並べられている。

俺が入っていくと、藤沢先生は顔を上げた。

「おはようございます、佐伯くん」

「おはようございます」

図書室の入口で、俺は一度立ち止まった。

窓際のテーブルには、真白がいた。昨日と同じように、返却された本を一冊ずつ手に取り、背表紙の番号を確かめている。短い髪が頬にかかるたび、彼女は右手で耳へ戻した。その指は耳の下を通り、首元へ触れてから、膝の上へ静かに下りる。

赤いヘアゴムはない。

けれど、今日はそこを探すために来たわけではなかった。

「白石さんも、ちょうど来たところです」

藤沢先生はそう言って、机の上に置かれていた本の仕分けを一束、俺のほうへずらした。それから、もう一束を真白の前へ置く。二つの束は別々に見えたが、作業を始めれば同じ机の中央へ手を伸ばすことになる位置だった。

先生は、それ以上何も言わなかった。

真白が顔を上げる。

「おはようございます」

「おはよう」

言葉のあとに、昨日までなら必ず気まずさが残った。けれど今日は、藤沢先生がわざと置いた紙の擦れる音が、その隙間を少しだけ埋めてくれた。

俺は椅子を引いた。真白の正面ではなく、斜め隣に座る。椅子の脚が床を擦り、思ったより大きな音が出た。

「すみません」

「図書室では、椅子を少し持ち上げると音が小さくなります」

藤沢先生が言った。

「はい」

俺は椅子を持ち上げ、位置を直した。真白がちらりとこちらを見る。目が合ったが、俺はその視線の意味をすぐには考えなかった。以前なら、嫌そうだったか、笑いそうだったか、何かを読み取ろうとして見つめ返していた。今日は、目が合ったという事実だけを置いておく。

机の上には、濃紺の布張りの本や、背の薄い文庫本が並んでいた。真白は本を手に取るたび、背の位置を揃えた。棚へ戻す前に、隣の本との間隔を見て、少しだけ奥へ押し込む。

その癖を、俺は知っている。

けれど、知っていることを今すぐ言葉にしてはいけない気がした。

「昨日のメモ、悪かった」

本を一冊戻したところで、俺は言った。

真白の指が止まった。

「分かっています」

「いや、分かってるかどうかじゃなくて。俺が、昔の呼び方を書いたこと」

「はい」

「呼びたかったから、というより、戻したかったから書いたんだと思う。真白を、というより……俺が真白の隣にいた頃の感じを」

真白は本を閉じた。表紙に薄い傷が走っている。その傷を見つめたまま、しばらく黙っていた。

「昨日、北階段で話したことと、同じですか」

「同じだけど、少し違う」

「どう違いますか」

「昨日は、自分が怖かったことを言った。今日は、その怖さを理由にして、真白を昔の場所へ戻そうとしていたことを謝りたい」

真白はゆっくり顔を上げた。

「謝ると、すぐに楽になりますか」

問いは淡々としていた。けれど、逃げ道を作らないための言葉だと分かった。

「……たぶん、前なら」

「今は?」

「楽になろうとして謝ると、また真白に受け止めてもらうことになる。だから、今日は楽になりたいから言ってるんじゃない」

「でも、楽にならないとは限りません」

「それは、俺には決められない」

言い終えてから、少しだけ息がしやすくなった。

真白はすぐに頷かなかった。返事の前に、いつもの一拍がある。その一拍の中で、彼女が自分の言葉を選んでいることを、俺は以前より少しだけ待てるようになっていた。

「……分かりました」

「許してくれる?」

「それも、私が今決めることではないと思います」

「そうだな」

「ただ、謝ったことは受け取ります」

その言葉は、許しよりも重かった。受け取ったからといって、なかったことにはしない。俺が書いた四文字も、真白が覚えた嫌悪も、昨日までの空回りも、そのまま残したうえで、次へ進むための場所だけを空けてくれる。

藤沢先生が、離れた書架から数冊の本を運んできた。先生は机の上の空いた場所を確認すると、紙の束を端へ寄せた。

「こちらもお願いします。返却作業が終わったら、祭りの掲示物を仕分けます」

「三日月灯籠祭のものですか」

俺が聞くと、藤沢先生は頷いた。

「文化委員会から追加分が届きました。商店街に貼るものと、校内に掲示するものを分けます。枚数が多いので、お二人で見たほうが早いでしょう」

自然な言い方だった。手伝ってほしい理由だけがあり、二人を並べる意図はどこにも見えない。

真白は「分かりました」と答えた。

俺たちは本を棚へ戻し始めた。

作業のあいだ、会話は多くなかった。けれど沈黙は、昨日までとは違っていた。真白が本を置けば、俺が次の本を受け取る。俺が分類番号を間違えれば、真白が短く教える。何かを言い続けなくても、作業の手順が二人のあいだをつないでいた。

一冊、俺が手にした本の表紙が浮いていた。

「これ、補修が必要かも」

「貸出禁止の棚に置いてください」

「分かった」

以前なら、俺はその手元を覗き込み、真白の横顔を見て、昔と同じ癖だと何か言っていただろう。今は本を指定された棚へ置く。必要なことだけをする。

藤沢先生は、そんな俺たちを窓際から見ていた。視線が合うと、先生は何も言わず、貸出印の位置を直した。机の上で少し傾いていたスタンプ台が、まっすぐになる。

返却作業が終わると、先生は三日月灯籠祭のプリントを一枚ずつ分けた。

表には神社の境内図、灯籠を置く場所、当日の案内係の立ち位置。裏には、商店街の掲示板へ持っていく枚数や、連絡先を書く欄が並んでいる。

紙には、まだ新しいインクの匂いがあった。

俺が一枚を受け取ろうとすると、真白も同時に手を伸ばした。

指先が触れた。

一瞬だけだった。以前なら、そのわずかな接触で心臓が大きく跳ね、触れた意味を探し始めていたと思う。けれど今日は、どちらも慌てて手を引かなかった。紙の端を二人で押さえたまま、同じ配置図を見る。

境内の中央に、三日月形の空白が描かれている。そこへ灯籠を並べるらしい。

「案内係、二人で一組にするみたいです」

真白が言った。

「うん」

「入口と本殿前で、交代するそうです」

「俺、地図読むの苦手だけど」

「昨日も分類番号を間違えていましたね」

「それは本の番号だろ。祭りの案内は、道を覚えれば何とかなる」

「道を覚えるのは得意なんですか」

「坂道なら、毎日歩いてるから」

「それは道を覚えるというより、道に覚えられているだけでは」

思いがけず、真白の声にわずかな柔らかさが混じった。

俺は彼女の顔を見た。

笑った、と言い切るほどではない。目元が少し緩んだだけだった。けれど、その小さな変化を過去の記憶と比べるのではなく、今ここで起きたこととして受け取る。

「じゃあ、案内係には向いてないか」

「そうは言っていません」

「でも、道に覚えられてるだけだろ」

「自分で歩いた道なら、目印くらいは覚えているでしょう」

「目印って?」

「自販機とか、古い薬局の看板とか。そういうものです」

真白が町の細部を口にしたことに、俺は少し驚いた。自分だけが覚えていると思っていた坂道の景色を、彼女も見ていたのだ。

けれど、それを「昔から同じだ」とまとめてはいけない。

「真白は、祭りに行ったことある?」

聞いてから、余計な質問だったかもしれないと思った。真白は紙の端を指で押さえたまま、答えを急がなかった。

「あります。子どもの頃に、一度」

「俺と?」

「覚えていません」

胸の奥が少し沈んだ。

だが真白は、続けて言った。

「正確には、奏汰くんと一緒だったかどうかは覚えていません。でも、灯籠が風で揺れていたことは覚えています。明かりが消えそうになるたび、誰かが手で囲っていました」

「俺かもしれない」

「かもしれませんね」

「そこ、否定しないんだ」

「否定できる材料がないので」

真白の言葉は相変わらず慎重だった。けれど、以前のように全部を閉じているわけではない。覚えていないことを覚えていないと言い、分からないことを分からないままにしている。その正確さが、今の彼女なのだと思った。

藤沢先生が、別の束を机へ置いた。

「お二人で案内係を担当するなら、こちらの欄に名前をお願いします」

先生が差し出したプリントの下部には、担当者名を書く空白が二つあった。

俺は反射的にペンを取ろうとした。

けれど、真白も同時に手を伸ばした。

俺は手を止めた。

以前なら、俺が先に書いていた。佐伯奏汰、白石真白。隣に並ぶ名前を見れば、それだけで何かが戻ったような気がしただろう。

今は、真白が何を書くのかを待つ。

「先に書いていいよ」

「私が先で、いいんですか」

「うん。書きたい名前で」

真白の視線が、空欄へ落ちた。

「白石真白、で書きます」

「分かってる」

「分かっていることでも、言っておきます」

真白は新しいペンを取り出した。細い軸の黒いペンで、書き味を確かめるように紙の端へ一度だけ線を引く。それから、整った字で名前を書いた。

白石真白。

俺はその文字を見た。

以前の呼び方ではない。けれど、確かに彼女自身の名前だった。誰かに呼ばれるためだけではなく、自分で書いて、自分でここに置いた名前。

「奏汰くんは?」

「俺も書く」

「呼び方は、どうしますか」

「呼び方?」

「係のとき、私を何と呼ぶかです」

思いがけない問いに、ペンを持つ指が止まった。

「白石、でいいんじゃないか」

「それでいいですか」

「俺は……真白って呼びたい。でも、嫌なら言って」

「今は、名前で呼ばれても大丈夫です」

「今は?」

「先のことは、先にならないと分からないので」

「分かった。じゃあ、今は真白って呼ぶ」

口に出してみると、名前の響きが以前より少し重かった。慣れ親しんだ呼び方なのに、昔のように無条件では使えない。真白が受け取るかどうかを、毎回確かめなければならない。

それでも、真白は嫌がらなかった。

「では、私も奏汰くんと呼びます」

「ずっとそう呼んでるだろ」

「そうですね」

「そこは、変えないんだな」

「変えないほうが楽だから、というだけではありません」

真白はペン先を紙から離した。

「今の私が、今の奏汰くんをそう呼びたいと思っているからです」

胸の奥に、熱がともった。

それは、昔の距離が戻った証拠ではない。真白が今、選んだ呼び方だった。俺はそれを、昔と同じものに変換しないようにした。

「案内係、……一緒でもいいですか」

真白が言った。

声は小さかったが、図書室の静けさの中では、はっきり聞こえた。

俺はすぐに頷かなかった。

一緒にいたい。そう答えるだけなら簡単だった。けれど、その言葉を、昔の「一緒」と同じ意味で使いたくなかった。俺が先に決め、真白が後からついてくる形ではなく、真白が選んで、俺もそこへ応じる形にしたかった。

「うん」

一度、息を置く。

「一緒にやりたい」

真白の目が、ほんの少しだけ細くなった。

「ありがとうございます」

「こちらこそ」

「何がですか」

「選んでくれたから」

「選んだのは、係だけです」

「分かってる」

俺はそう答えた。

「係だけでも、俺には大事だから」

真白は、すぐには何も言わなかった。窓の外では、風に煽られた木の葉が一枚、窓枠へ落ちた。紙の端が持ち上がり、俺は反射的に押さえようとした。真白の手も同時に伸びた。

また指先が触れる。

今度は、どちらも引かなかった。

触れたままにしたわけではない。紙を押さえるために、同じ場所へ手を置いただけだ。けれど、触れたことをなかったことにするように急いで離れもしなかった。

藤沢先生が、静かに貸出印を押した。

ぽん、と乾いた音が響く。

「案内係の名簿は、今日中に文化委員会へ渡します。明日、詳細な時程が届く予定です」

「分かりました」

真白が答える。

俺も頷いた。

藤沢先生は、俺たちの手元に残ったプリントを見てから、窓の外へ視線を移した。

「春の風は、紙をよく飛ばします。押さえる人が一人いると、作業が少し楽になります」

それが紙の話だけではないように聞こえた。

けれど先生は、それ以上何も言わず、次の返却本を手に取った。

図書室を出る時間になっても、俺はすぐに立ち上がれなかった。テーブルの上には、二人の名前が並んだプリントがある。白石真白。佐伯奏汰。以前なら、その並びを見て、昔と同じだと思ったかもしれない。

けれど今は違う。

同じ紙の上に、別々の字で書かれている。字の大きさも、線の強さも、書く速度も違う。それでも、一枚の紙の中で隣り合っている。

真白がプリントを鞄へしまった。

「行きますか」

「うん」

俺は椅子を持ち上げて戻した。今度は音を立てなかった。

図書室の扉を出ると、廊下には午後の光が長く伸びていた。真白は俺の少し前を歩く。以前なら、すぐ隣へ並ぼうとしていた。今も隣を歩きたい気持ちはある。けれど、先に歩いている真白の歩幅を見てから、自分の速度を決める。

階段の手前で、真白が振り返った。

「明日、時程を確認しましょう」

「うん」

「それから、商店街へ貼りに行く場所も、先に見ておいたほうがいいと思います」

「一緒に?」

真白は少しだけ考えた。

「係ですから」

「係だから、か」

「それ以外の理由が必要ですか」

俺は答えを急がなかった。

「今は、必要ないと思う」

真白は目を伏せた。けれど、口元がほんのわずかに緩んだように見えた。

「そうですね」

真白が階段を下りていく。

俺はその背中を追い越さないように、少し遅れて歩き出した。階段の窓から入る風が、プリントをしまった鞄の布地を揺らしている。廊下の向こうから、部活へ向かう生徒たちの声が反響してきた。

昨日までなら、その音に紛れてしまう前に、何かを言おうとした。

今日は言わなかった。

真白の歩幅が、次の段で少し遅くなる。俺はその速度に合わせた。隣へ並ぶのではなく、まず同じ方向へ進む。

やがて踊り場で、真白が足を止めた。

俺が追いつくのを待っていたのかどうかは、分からない。けれど、俺が隣へ立っても、真白は半歩ぶん離れなかった。

「明日も、図書室で」

真白が言った。

「うん。明日も」

名前を呼ばずに返すと、真白は一度だけこちらを見た。

それから、先に階段を下りていった。

窓の外では、春の光が校舎の壁を白くしている。風に舞った紙の端が、踊り場の床を滑り、手すりの脚に引っかかった。

俺はそれを拾い上げた。

紙には、灯籠の配置図が印刷されている。三日月形の空白の中に、いくつもの小さな灯りが描かれていた。ひとつひとつは離れているのに、全体としては同じ形を作っている。

俺は紙を折らずに、鞄の中へしまった。

真白を昔の場所へ戻すのではなく、今の彼女の隣に立てる場所を、これから探していく。その場所がどこにあるのか、まだ分からない。

分からないままでも、明日また図書室へ行く理由は、もう十分にあった。

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