第7話 北階段、言い直す

放課後の北階段は、校舎の中に残された細い空洞のようだった。

教室のある南側では、部活へ向かう生徒たちの声がまだ途切れずに続いている。けれど北階段まで来ると、その喧騒は壁を何枚も隔てた向こう側のものになる。下の階から上がってくる足音だけが、踊り場の隅で一度膨らみ、階段の吹き抜けを抜けて消えていった。

窓は少しだけ開いていた。海からの風が入り込み、手すりの冷たい金属を撫でていく。俺はその手すりに指を置き、何度も同じ場所をなぞっていた。

焦ると出る癖だった。

黒瀬に言われてから、俺は真白に話しかける回数を減らした。減らしたつもりだった。けれど、声をかける代わりに目で追う時間が増えた。教室で真白が誰かと話していると、聞き耳を立てた。廊下ですれ違えば、振り返りそうになる首を無理に前へ向けた。

追わないことと、気にしないことは別だった。

図書室で、真白は「聞かれたくない」と言った。俺はそれを受け入れた。受け入れたつもりで、放課後になると北階段に立っている。矛盾している。自分でも分かっていた。

それでも、今日はここで言わなければならなかった。

何を言うのかは、まだ決まっていない。

「髪を切った理由を教えてほしい」と言えば、また自分の知りたいことを先に置くことになる。「敬語をやめてほしい」と言えば、真白の選んだ距離を否定することになる。「前みたいに戻りたい」と言えば、今までの失敗を一度に繰り返す。

だから、言うべきなのは別のことだった。

俺が何をしていたのか。

何を怖がっていたのか。

その二つなら、真白に答えを求めずに話せる。

階下から、女子生徒の話し声が聞こえた。二人分の足音が近づき、一人が別の廊下へ曲がっていく。残った足音だけが、階段を上ってくる。

真白だった。

短い髪が、踊り場へ差し込む夕方の光を受けている。髪の先は首の付け根で揃っていて、歩くたびにわずかに揺れた。昔のように肩へ触れることはない。首筋の白さが、制服の襟の上に細く浮かんでいる。

俺は「真白」と呼びかけかけた。

喉まで出た名前を、いったん飲み込む。

「白石」

真白が足を止めた。

すぐには返事をしなかった。視線が手すりへ落ち、それから俺の顔へ戻る。入学式の日から続いている、一拍の間だった。

「……はい」

その声は、北階段の壁に当たって、少しよそよそしく返ってきた。

俺は手すりから指を離した。指先に残った冷たさが、手のひらの奥まで入り込んでいる。

「少し、話してもいいか」

「ここでですか」

「嫌なら、別の場所でもいい」

言ってから、俺は階段の上と下を見た。どちらへも逃げられるように、踊り場の中央から少し横へ移動する。自分でやってみて初めて、黒瀬がいつもしていた半歩の意味が分かった。

真白はその動きを見ていた。

「……ここで大丈夫です」

「ありがとう」

「ありがとうございます、ではないんですね」

真白の声に、わずかに変化があった。からかわれたのか、確かめられたのか、俺にはまだ分からない。

「今は、こっちにしてみた」

「そうですか」

「嫌だったら言って」

「呼び方を?」

「全部」

真白は手すりへ視線を戻した。白い指が、金属の上に触れる。冷たさを確かめるように、指先が一度だけ動いた。

「……考えておきます」

「うん」

そこで黙る。

以前なら、すぐ別の言葉を探していた。何か言わなければ、せっかく立ち止まってくれた真白が、また遠くへ行ってしまう気がしたからだ。

今日は、口を閉じた。

階下から運動部の掛け声が聞こえ、窓の外で風が校庭の砂を動かした。砂の粒が窓枠に当たり、細かな音を立てている。

真白は黙ったまま、俺を待っていた。

待っているのか、帰る機会を探しているのか、それは分からない。けれど、少なくとも俺の言葉を先回りして奪おうとはしていなかった。

「俺、謝りたい」

やっと言うと、真白のまぶたがわずかに動いた。

「何についてですか」

「たぶん、いろいろある」

「具体的にお願いします」

いつもの真白なら、そこで理由を短く切って終わらせる。けれど今日は、俺に言わせようとしているように聞こえた。

俺は手すりを見た。塗装の一部が剥がれ、下の金属が薄く見えている。指で触れれば、ざらつきが残りそうだった。

「髪を切ったことを、何かが壊れた証拠みたいに見てた。赤いヘアゴムがなくなったことも、俺の知らないところで大事なものを失ったみたいに思ってた。だから理由を聞けば、俺にも分かると思った。分かれば、前の状態に戻せると思った」

真白は何も言わない。

「でも、戻したかったのは真白じゃなくて、俺のほうだった。真白が前みたいに笑って、前みたいに話して、前みたいに隣にいれば、俺は自分が置いていかれた感じをしなくて済む。俺が安心したいだけなのに、心配してるとか、大事にしてるとか、そういう言葉で隠してた」

喉が熱くなった。

言葉を吐き出すたび、自分の中に隠していたものが、形を持って階段の床へ落ちていくようだった。

「俺は、真白のことを見てるつもりで、真白の隣にいた自分を見てた。おまえが変わったんじゃなくて、俺がそこから動けてなかった」

真白の指が、手すりの上で止まった。

「……そこまで分かっていて、どうして来たんですか」

「分かったから、来た」

「何を言うか決めて?」

「決めてない」

「返事をもらうために?」

「それも違う」

「では、何のためですか」

問いは静かだった。けれど、階段の壁に反響したぶんだけ、逃げ道が狭くなった。

俺は真白を見た。

短い髪の向こうにある耳。制服の袖口をつまむ指。わずかに下がった視線。どれも、俺が勝手に意味を与えてきたものだ。拒絶、怒り、不安、未練。どれも本当かもしれないし、全部間違っているかもしれない。

だから、今は決めつけない。

「聞くために来た」

真白は黙った。

「髪を切った理由を、今すぐ教えてほしいって意味じゃない。中学最後の日に何があったのかも、話せるときでいい。俺はこれまで、理由を聞いて安心したかった。答えをもらって、俺の知ってる場所へ戻りたかった。でも、そうじゃなくて、真白が話したいことを、真白の言葉で聞きたい」

「聞くだけですか」

「うん」

「私が、話したくないと言ったら」

「聞かない」

「何も分からないままでも?」

「……たぶん、すぐには平気になれない。でも、平気じゃないからって、聞いていい理由にはならない」

真白は顔を上げた。

目が合った。

入学式の日から、俺はその目の動きを追いすぎていた。逸らしたら拒まれた、伏せたら困っている、少し揺れたら何かを隠している。けれど今、目が合ったという事実だけを受け取ろうとした。

真白の瞳は、夕方の光を薄く映していた。

「それなら、少しだけ話します」

その言葉に、胸が勝手に反応した。すぐ続きを促したくなる。何があったのか、誰との間で、いつから、どうして。質問がいくつも喉へせり上がる。

俺はそれを押し戻した。

「うん」

「中学三年の終わりに、私は、奏汰くんの隣にいることが、急に怖くなりました」

名前を呼ばれた。

けれど、それは昔の呼び方ではない。「奏汰くん」という、入学式の日から使われている距離のある呼び方だった。その距離を、今は遠ざけられたとは思わなかった。真白が自分で選んだ場所から、俺を見ているのだと感じた。

「急に、って言っても、何か一つの出来事だけではありません。小さいことが重なっていたんです。私が何を考えているか、何を嫌だと思っているか、言わなくても奏汰くんには分かると思われていた。私も、それを否定しないままにしていました。分かってもらえるほうが楽だったから」

真白の声は平らだった。けれど、平らに保とうとしていることは伝わってきた。

「でも、楽なことと、私が選んでいることは違いました。奏汰くんが悪いことをした、という話だけではありません。私も、嫌なときに嫌だと言わなかった。笑って済ませたし、黙って隣にいた。だから、ある日急に、自分がどこまでを望んでいて、どこからが嫌なのか、分からなくなりました」

風が吹き抜けた。

真白の髪が頬に触れ、彼女はそれを耳へかけた。髪が短いから、すぐに元の位置へ戻る。首元へ手が下り、何も結ばれていない場所を指先がかすめた。

「赤いヘアゴムは、そのとき外しました」

俺は息を止めた。

「切る前に、最後に一度だけ、髪を結びました。そのとき、これをつけている限り、私は前の自分に戻ろうとする気がしたんです。赤いゴムが嫌いだったわけではありません。奏汰くんとの時間が嫌だったわけでもない。ただ、あれをつけた私を、私自身が演じ続けるのが嫌でした」

「演じるって……」

「甘えても許される私。何でも隣にいていい私。奏汰くんが先に決めて、私はあとからついていけばいい私。そういうのを、楽だから続けていたんです」

「俺が、そうさせてた?」

聞いた瞬間、真白の表情が少し硬くなった。

「そうやって、すぐに自分の責任だけにしようとするところも、苦しかったです」

胸を突かれた。

「私が嫌だったことを話すと、奏汰くんはすぐに謝るでしょう。自分が悪い、自分が直す、と言って、今度は私が奏汰くんを慰める側になる。そうすると、私が何を嫌だったのかは、どこかへ消えてしまうんです」

俺は何も言えなかった。

謝ることが、相手のためだと思っていた。けれど実際には、早く許されるための動作になっていたのかもしれない。自分が悪いと認めれば、話は終わる。終われば、また前へ戻れる。俺はずっと、謝罪さえすれば距離を取り戻せると思っていた。

「じゃあ、俺はどうすればよかったんだよ」

声が掠れた。

「そんなの、最初から分かっていたら、こんなふうにはしていません」

真白の返事は、初めて少しだけ感情を含んでいた。怒りではない。長い間、胸の中にしまっていたものが、言葉の形を保てなくなりかけているような声だった。

「私も分かりませんでした。嫌だと言うことが、奏汰くんを捨てることみたいに感じていたから。ずっと一緒にいたのに、今さら距離を取りたいなんて言ったら、全部を否定することになると思っていた。でも、否定したくないから黙っていたら、今度は自分のほうが消えていきました」

階段の下から、誰かが走ってくる音がした。足音は途中で止まり、すぐに遠ざかる。俺たちのいる踊り場には、また静けさが戻った。

「中学最後の日、俺、何か言おうとしてた」

自分から口にした。

真白の視線が動く。

「何をですか」

「分からない。今も、はっきり思い出せない。でも、あの日、真白が何か言いたそうにしてたのは覚えてる。俺は勝手に、俺と同じことを言おうとしてたんだと思ってた」

「私も、そう思わせたままにしていました」

「何を言おうとしてた?」

真白は手すりから指を離した。

「奏汰くんと、少し離れたい、と言おうとしていました」

言葉が落ちた。

俺はすぐに返事ができなかった。階段の踊り場にある空気が、そこだけ重くなったように感じる。

「……俺と、離れたい」

「はい」

「そのときから?」

「そのときだけではありません。でも、言うならあの日だと思っていました」

「なのに、言わなかった」

「奏汰くんが、何か言おうとしていたから」

「俺が?」

「はい。何を言うのか、聞いてからにしようと思いました」

胸の奥で、記憶の扉がひとつ開いた。

夕方の坂道。赤いヘアゴム。制服の袖をつまんでいた真白。俺はあの日、卒業しても毎日会おうとか、高校でも隣にいようとか、そんなことを言おうとしていた。けれど、真白の顔があまりに静かで、何かを待っているように見えて、怖くなった。

結局、俺は「また明日」と言った。

明日が来れば、言い直せると思っていた。

「俺、あの日も自分のことしか見てなかったんだな」

「私も、自分のことを言えませんでした」

「でも、俺はその沈黙を、真白も同じ気持ちだった証拠にした」

「そうですね」

責める声ではなかった。だからこそ、逃げられなかった。

「本当は、卒業したら少し離れて、自分で人と関わってみたかったんです。奏汰くんの隣ではなくても、私は私として、誰かと話せるのか知りたかった。でも同じ高校になって、朝、校門の前で奏汰くんを見たら、また前のままになりそうで」

「それで、敬語にした?」

「はい。朝、家を出る前に決めました。今日は、丁寧に話すって。名前も、できるだけ名字で呼ぶって。そうしないと、奏汰くんに会った瞬間、いつものように笑って、いつものように隣へ行ってしまう気がしたので」

敬語は拒絶ではなかった。

真白が、自分の輪郭を守るために最初に置いた距離だった。

その事実が、ようやく俺の中へ届いた。

「俺は、あの『はい。何か』で、全部終わったと思った」

「終わらせたいなら、もっと簡単でした」

真白はそう言って、階段の下を見た。

「話さなければいい。返事をしなければいい。学校も違うところを選べた。でも、同じ高校を選んだのは、奏汰くんを嫌いになったからではありません」

「じゃあ、どうして」

「昔のままではいたくなかった。でも、昔の時間まで捨てたいわけではなかったからです」

その言葉の意味を、俺はすぐには掴めなかった。

「捨てたくないのに、戻りたくない?」

「はい」

「そんなこと、できるのか」

「分かりません。だから、選び直しています」

真白の口元が、ほんの少しだけ揺れた。笑ったわけではない。迷いが表へ出たのかもしれなかった。

「昔の続きを、そのまま始めるのではなくて。今の私と、今の奏汰くんで、別の関係を作れるなら、そのほうがいいと思っています」

俺の胸に、今までとは違う痛みが広がった。

戻れないのは、失うことだと思っていた。けれど戻れないからこそ、作り直せるものがある。真白はずっと、その可能性を探していたのかもしれない。俺が過去の席を守ろうとしているあいだに。

「俺、うまくできるか分からない」

「私もです」

「また、勝手に決めるかもしれない」

「そのときは言います」

「言ってくれる?」

「言えるようにします」

その答えは、約束というより、努力の宣言に聞こえた。真白が自分の側にも責任を引き受けようとしていることが、少しだけ分かる。

俺は手すりから一歩離れた。

「俺も、聞くようにする」

「聞く?」

「真白が嫌だと言ったら、すぐ謝って直そうとしない。何が嫌だったのか、ちゃんと聞く。……たぶん、すぐにはできないけど」

「それなら、前よりはいいです」

「前より、って言うなよ」

「すみません」

真白が反射的に謝り、それから自分で口を閉じた。

俺も、思わず笑いそうになった。けれど、笑って流すのは違う気がして、息だけを吐いた。

「今の、真白も戻りかけたな」

「……そうですね」

「でも、戻らなくていい」

言葉にすると、妙に静かだった。

真白は顔を上げた。夕方の光が、短い髪の先と目元を薄く照らしている。

「本当に、そう思っていますか」

「思いたい、じゃなくて。思うようにする」

「同じでは?」

「違う。前は、真白に戻ってほしかった。今は、俺が戻さないようにする」

真白はしばらく俺を見ていた。

その視線を、俺はもう意味づけしなかった。許されたのか、まだ警戒されているのか、好かれているのか、嫌われているのか。分からないままでも、そこに立っていられるようになりたかった。

やがて真白は、手すりから身体を離した。

「今日は、ここまでにします」

「うん」

「まだ、全部は話せません」

「分かってる」

「中学最後の日のことも、髪を切る前にあったことも、今すぐには」

「聞かない」

「でも、いつか話すかもしれません」

その言葉に、胸の奥が大きく鳴った。

「そのときは、聞く」

「はい」

「……真白」

呼びかけたあと、今度は一拍置かなかった。

真白は目を逸らさなかった。

「何ですか」

「今日、話してくれてありがとう」

「こちらこそ」

「何が?」

「聞こうとしてくれて」

その言葉は、短いのに長く残った。

真白が階段を下り始める。俺は追わずに、その背中を見送った。短い髪は、昔のように大きく揺れない。けれど、階段の途中で一度だけ風を受け、頬の横へ流れた。

真白は立ち止まり、首元へ手をやった。

赤いヘアゴムはない。

それでも、その手が何かを探しているようには見えなかった。今の髪の長さと、今の自分の輪郭を確かめるように触れただけだった。

俺は階段の上に残った。

下へ行けば、真白に追いつける。少し早足になれば、隣へ並べる。けれど今日は、その距離を急いで埋める必要がなかった。

北階段の窓から、夕方の風が流れ込んでくる。校庭の声が遠くでほどけ、手すりの金属が冷たく光った。

沈黙は、まだ消えない。

けれどそれは、何も言えなかったあの日の空白とは違っていた。言葉を置く場所を残したまま、次に会うための時間として、そこにある。

俺は手すりから手を離し、階段を下りた。

真白の姿は、もう見えなかった。

見えないからといって、昔の姿をそこへ置き直すことはしなかった。短い髪も、敬語も、赤いヘアゴムのない首元も、今の真白のまま、見えない場所へ続いている。

そのことを、俺は初めて怖がらずに受け取ろうとした。

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