第6話 図書室の背中合わせ

図書室の午後は、教室より時間の流れが遅かった。
昼休みの終わりを告げる鐘が鳴ってからしばらく経っているのに、廊下のざわめきはまだ扉の向こうに薄く残っていた。けれど一枚の扉を隔てただけで、音は水の底から聞こえてくるように遠い。窓際の席へ差し込む春の光はやわらかく、机の上に置かれた貸出票の角を白く照らしている。その一方で、書架と書架のあいだには光が届かず、紙と木と、少し湿った埃の匂いが溜まっていた。
俺は返却台の前で、藤沢先生から渡された箱を抱えていた。
「奥の棚、分類番号の順に戻してください。白石さんには隣の列をお願いしてもいいですか」
藤沢先生はそう言って、返事を待つあいだに、二つの箱の位置を少しだけ離した。
俺と真白が同じ場所へ向かうには、ちょうどいい距離だった。
「はい」
真白が答えた。
「……分かりました」
俺も続けた。声が妙に大きく響いた気がして、すぐに口を閉じる。藤沢先生は何も言わず、返却票の束を机の端へ揃えた。紙の角を指先で合わせる動作には、見慣れた落ち着きがあった。
書架の奥へ進むと、窓から差す光は背中側へ回った。真白が右隣の列、俺が左隣の列に立つ。棚を挟んでいるから、顔は見えない。けれど、腕を伸ばせば届きそうな位置にいる。近いのに、相手の表情を確かめられない。そのことが、教室で向かい合うよりもかえって苦しかった。
俺は最初の本を手に取った。
背表紙に付いた分類番号を確認し、棚の隙間へ差し込む。隣の列から、真白が本を置く音がした。軽い音だった。けれど、その後に続く沈黙が、音の余韻を長く引き延ばした。
ページをめくる音。
ブックカバーの擦れる音。
貸出票が机に触れる、乾いた音。
俺たちはそれぞれの作業をしているだけなのに、図書室全体が、二人の呼吸に合わせて狭くなっていくようだった。
「この棚、上段も戻していいんですか」
真白が聞いた。
「たぶん。番号が合ってれば」
「たぶん、では困ります」
「じゃあ、先生に聞く」
「聞きに行くほどではないです」
「じゃあ、戻していいってことだろ」
「そういう決め方は、少し雑です」
「……悪い」
「責めてはいません」
真白の声は平らだった。怒っているのか、ただ事実を言っているのか、まだ俺には判別できない。以前なら、声の高さや語尾の癖を聞けば、おおよその機嫌が分かった。けれど今の真白は、必要な言葉だけをきれいに切り出す。余計な感情を、声の中へ置かない。
俺は本を棚へ差し込んだ。
「白石」
呼びかけてから、いつものように一拍遅れた。
「はい」
「……いや」
「何でしょう」
「何でもない」
言葉が喉の奥でほどけた。
本当は、昔と同じだな、と言いたかった。背表紙を番号順に揃えるとき、真白はいつも少しだけ本を奥へ押し込む。棚の端から本の背が出ていると気になるらしく、何度も指先で位置を整える。その癖は中学の頃から変わっていないように見えた。
けれど、そう言ってしまえば、また俺は彼女の今を過去の名前で呼ぶことになる。
「今の、何ですか」
真白が聞いた。
「何が」
「言いかけて、やめたので」
俺は手にしていた本を見下ろした。濃紺の布張りの表紙に、細かな傷がいくつもある。誰かが何度も読んだ本なのだろう。傷は古いのに、捨てられずに棚へ戻されている。
「昔と同じだなって、言おうとした」
隣の列から、本を置く音が止まった。
俺は続けた。
「でも、言わないほうがいい気がした。髪が短くなっても、敬語になっても、こういう細かい癖は変わらないんだなって思っただけで……いや、それも変か。変わってないところを探して、安心しようとしてるみたいで」
返事はすぐにはなかった。
書架の隙間から、真白の制服の袖だけが見える。白い布地の端を、彼女の指が一度つまんだ。それから、手はゆっくり下りた。
「そういうところです」
「どこ」
「変わっていないところを探すところです」
「それが悪いのか」
「悪いとは言っていません。ただ、私が変わったことを受け入れる前に、変わっていない部分を見つけて、昔の私に戻そうとするから」
その言葉は、棚を挟んでいるせいか、少し遠く聞こえた。
「戻そうなんてしてない」
「していないつもりでも、そう見えることがあります」
「じゃあ、どうすればいいんだよ」
声が上ずった。
奥の机で、本を読んでいた生徒が顔を上げた。藤沢先生がそちらへ目を向ける。注意はしない。ただ、俺の声がこれ以上広がらないように、静かな視線だけをこちらへ置いた。
俺は唇を噛み、声を落とした。
「俺は、真白が急に変わって、何があったのかも分からなくて、ずっと置いていかれたみたいで……そのまま何も聞かないでいたら、本当に終わる気がするんだよ。だから、何かしたい。話したいし、理由も知りたい。なのに話そうとすると、昔のことしか出てこない。おまえは前からこうだった、とか、これが好きだった、とか。俺が知ってることを並べれば、まだ俺のところにいてくれる気がして」
真白の呼吸が、棚の向こうでわずかに乱れた。
「私が、そこにいると思っていたんですね」
「……うん」
「そこ、というのは?」
「俺の隣」
言ったあとで、言葉の乱暴さに気づいた。
隣にいることを、真白自身の選択ではなく、自分の所有物のように扱っていた。小学校から一緒だった。家が近かった。帰り道が同じだった。そういう積み重ねを、俺は「だから今も隣にいるはずだ」という証明に使っていた。
真白はしばらく黙っていた。
俺はその沈黙を埋めようとして、口を開きかけた。けれど、声が出る前に、反対側から本の背表紙を整える音がした。真白が一冊ずつ、棚の奥へ押している。紙と木が擦れる音が、ひとつ、またひとつと続く。
「白石さん」
藤沢先生の声がした。
「その列が終わったら、こちらの箱もお願いします」
「はい」
先生はそれ以上何も言わなかった。俺たちの会話に割って入ることも、助言を差し出すこともない。ただ、作業を続けるための仕事だけを置いていく。
俺は箱の中の本を持ち上げた。重い。単行本が十冊ほど詰まっている。腕に力を入れ、反対側の棚へ運ぶ。真白の背中が見えた。短い髪が首の付け根で揃い、その下の白い肌が、窓から漏れた光を細く受けている。
彼女の右手が、首元へ触れた。
髪を確かめるような仕草だった。
その指先が、何も結ばれていない首筋に触れる。
俺の中で、昔の音がした。
赤いヘアゴムが引き伸ばされる、かすかな軋み。真白が髪を束ね直すとき、ゴムが指に擦れて鳴らす、小さな音。放課後の昇降口で、坂道の途中で、駅前の商店街へ向かう道で、何度も聞いた。あの音があるかぎり、次の日も同じように来ると思っていた。
真白が立ち止まって髪を結び直す。
俺はそのあいだ、少し先で待つ。
彼女が顔を上げれば、また歩き出す。
それが、俺たちの生活の一部だった。決めた覚えもないのに、いつのまにか続いていた。だから俺は、それを関係そのものだと思い込んだ。
けれど、同じ形が続くことと、互いに選び続けることは違う。
「その本、こちらです」
真白が言った。
俺の手元を見ていたらしい。棚を間違えていた。
「悪い」
「謝らなくて大丈夫です。番号が違うだけなので」
「でも、最近ずっと謝ってる気がする」
「そうですね」
「それだけ?」
「それ以上、何と言えばいいか分からないので」
俺は本を持ったまま、真白の顔を見た。
彼女は棚の前で、背表紙の文字を読んでいる。視線は俺に向いていない。けれど、言葉を投げ捨てたわけでもなかった。返事の前に置かれた一拍の中に、考えている時間があった。
「真白は、何か言いたいことがあるときも、そうやって必要なことだけ言うのか」
「どういう意味ですか」
「いや……昔はもっと、言わなくても分かったから」
「また昔の話ですね」
「ごめん」
「謝らなくていいです。そういう話をしたいなら、してください」
「怒ってる?」
「怒っているというより、疲れます」
その言葉に、胸の奥が縮んだ。
「俺と話すと?」
「奏汰くんと、というより、説明する前に分かったことにされるのが」
真白は本を一冊、棚から抜いた。中ほどのページに、薄い金属のしおりが挟まっている。彼女はそれを見つけると、しおりを指先で抜き、本の上へ置いた。細長い金属が、午後の光を一瞬だけ跳ね返す。
「昔から知っているから、私のことを分かっている。昔から一緒だから、今も同じ気持ちでいる。そういうふうに扱われると、私が何を言っても、最初から決められた場所へ戻される気がします」
「俺はそんなつもりじゃない」
「つもりの話ではありません」
真白はゆっくり俺を見た。
「奏汰くんが悪い人だと言いたいわけではないです。私のことを大事に思ってくれているのも、分かっています。でも、大事に思われているからといって、こちらが苦しくならないとは限らない。むしろ、近い人ほど、断りにくいです。近いから分かってくれると思われているのに、近いからこそ、分かっていないと言いづらい」
俺は何も言えなかった。
真白の顔には、怒りより疲労があった。ずっと同じ説明を避けてきた人間の疲れではなく、説明しようとするたびに、相手が先回りして答えを決めてしまうことへの疲れだった。
「じゃあ、髪を切ったのも」
聞きかけて、言葉を止めた。
真白はそれを見ていた。けれど、続きを促さなかった。
「……聞かないほうがいい?」
「今は、聞かれたくないです」
「分かった」
「本当に?」
「本当。聞かない」
「聞かないことを、我慢している顔です」
「我慢はしてる。でも、聞かないって決めた」
「どうしてですか」
「聞いても、俺が勝手に意味を決めるかもしれないから」
その返事に、真白の目が少しだけ動いた。
俺は続けた。
「俺は、真白が髪を切ったのを見て、何かが壊れたと思った。赤いヘアゴムを外したのも、敬語になったのも、全部俺の知らないところで起きたことだから、理由さえ分かれば元に戻せると思った。でも、たぶん違う。俺が怖かっただけだ。昔から知っている俺でも知らない真白がいることが、怖かった。知らないなら、俺はもう特別じゃない気がして」
言い終わると、声のない時間が落ちた。
真白は手にしていた本の角を、親指でなぞっていた。紙の端が少し毛羽立っている。彼女はそれを見つけると、鞄から小さな透明テープを取り出した。机の引き出しに入れていたらしい。破れかけた部分を丁寧に補修し、指先で何度も押さえる。
「そういうところは、変わらないですね」

「どこが」
「壊れかけたものを見ると、すぐ直そうとするところ」
「悪いかよ」
「悪くないです。ただ、直す前に、直さなくていいものかどうかを聞いてほしいです」
真白の声は静かだった。
「髪を切ったのも、赤いヘアゴムを外したのも、誰かに壊されたからではありません。少なくとも、全部がそうだったわけではないです。自分で変えたかった。自分がどこまでを嫌だと思っていて、どこからなら大丈夫なのか、確かめたかった。前の私を知っている人に、前の私へ戻されないように」
「俺が戻そうとしてた」
「はい」
「それでも、まだ話してくれるのは、どうして」
真白はすぐには答えなかった。
窓の外で、運動部の掛け声が上がった。遠くの音が、図書室の静けさに薄い波紋を作る。真白はその波紋が消えるのを待つように、机の上の金属のしおりを本へ戻した。
「昔から一緒だったから、ではないです」
その一言が、胸に刺さった。
けれど真白は、そこで終わらなかった。
「昔から一緒だったことだけで、今も話したいと思っているわけではありません。奏汰くんが、間違えたあとに、間違えていないふりをしないからです。しつこいし、焦るし、余計なことを言うけれど、最後には自分のほうを見るでしょう」
「俺のほう?」
「相手が悪いことにして終わらせない」
俺は返事を失った。
真白はまた棚へ向き直った。会話は終わったのだと思った。だが、彼女は本を戻しながら続けた。
「それが、いいことかどうかは分かりません。近づかれると困ることもあります。でも、奏汰くんが全部を昔のせいにしているわけではないことだけは、分かります」
「……それ、褒めてる?」
「褒めてはいません」
「じゃあ、何」
「事実です」
真白らしい答えだった。
俺は小さく息を吐いた。笑うほど明るい気分ではなかったが、胸に詰まっていたものがほんの少しだけ動いた。
そのとき、真白が棚の下段から一冊の本を抜いた。表紙が浮き、背の部分が裂けかけている。彼女はそれを閉じようとしたが、紙が引っかかって戻らない。
「貸して」
俺が手を伸ばした。
真白の指と、俺の指が本の端で触れそうになった。
彼女は一瞬だけ手を止めた。
俺はすぐに手を引いた。
「……ごめん。勝手に取ろうとした」
真白は俺を見た。以前なら、ここで「別に」と言って受け渡していたかもしれない。けれど今は、少し考えてから、本を両手で差し出した。
「押さえてもらえますか」
「うん」
触れないように、本の反対側を持つ。真白が破れた背を合わせ、俺が表紙を支える。指先は近い。紙一枚ぶんの距離しかない。互いの手の熱が伝わるほどではないのに、そこへ意識が集まった。
真白は補修テープを貼った。
「こういうの、好きなのか」
「形が整っているほうが落ち着くので」
「だから、本の背も全部そろえる?」
「少しずれていると、気になります」
「俺のことも?」
問いが口から出てしまった。
真白の手が止まる。
「奏汰くんは、本ではないです」
「そうだけど」
「本なら、棚に戻せば終わります。でも、人は戻せません」
その言葉に、俺は黙った。
真白はテープの端を指で押さえながら、淡々と続ける。
「戻せないから、選び直すしかないんです。誰と話すか、どのくらい近づくか、どんな呼び方をするか。昨日までの正解が、今日も正解とは限りません。私はそれが分からなくなったので、一度、全部自分で決め直したかった」
「それで、敬語にした?」
「はい」
「俺にだけ?」
「最初は、奏汰くんにだけです」
「どうして」
「砕けて話すと、すぐに前の甘え方に戻ると思ったからです」
甘え方、という言葉が、思いがけず胸へ入ってきた。
真白は俺の知らないところで、自分の口調を選んでいた。俺に対して敬語を使う朝を、意識して迎えていた。拒絶の勢いで突き放したのではなく、戻ってしまわないように、自分のための線を引いたのだ。
「前の甘え方って、どんなのだよ」
「それを、奏汰くんが覚えているから困るんです」
「覚えてるよ。何でも」
「何でも覚えていることが、分かっていることとは限りません」
その言葉は、以前なら痛みだけを残しただろう。けれど今は、少し違って聞こえた。
覚えていることは、相手を知ることではない。
相手が変わったあとも、変わったまま見ようとすることのほうが、ずっと難しい。
藤沢先生が、離れた机からこちらへ歩いてきた。二人の手元にある補修途中の本を見て、細い金属のしおりを差し出す。
「こちらを使うと、背を押さえやすいです」
「ありがとうございます」
真白が受け取る。
藤沢先生は俺たちの顔を順番に見た。何か言いかけたように見えたが、結局、別の箱を机へ置いただけだった。
「この箱が終わったら、今日は大丈夫です。急がなくていいので、棚の番号を確認しながらお願いします」
「はい」
俺たちはそれぞれの作業へ戻った。
しばらくして、真白が本を差し出した。
「こちら、お願いします」
「うん」
今度は、真白のほうから近づいてきた。けれど、距離はまだ一定に保たれている。俺は本を受け取り、分類番号を確かめてから棚へ戻した。以前なら、受け取った瞬間に彼女の手元を見たり、顔を覗き込んだりしていただろう。今は、まず本を見る。必要なことをする。それから、真白のいる方向へ身体を戻す。
「ありがとう」
「どういたしまして」
短い会話だった。
けれど、今までのように言葉が喉で詰まることはなかった。たったそれだけのやり取りが、紙の薄さほどの新しい足場になる。
作業が終わるころ、図書室の窓から差す光は、机の上からゆっくり退いていた。棚のあいだの冷たさが、少しずつ部屋全体へ広がっている。真白は最後の一冊を手にしたまま、棚の前で立ち止まった。
「それ、戻さないの?」
俺が聞くと、真白は本の表紙を見下ろした。
「……まだ、返却処理が終わっていません」
「そうなんだ」
「はい」
それだけ言って、真白は本を胸の前へ抱え直した。
藤沢先生が返却票を受け取りに来る。真白は一歩だけ後ろへ下がった。拒む動きではない。けれど、これ以上近づかれると困るという線を、身体で示している。
俺はその線を見た。
以前なら、なぜ下がるのかと聞いていた。俺が何をしたのかと問い、分からないままさらに近づいていた。
今は、そこに立ったまま待った。
藤沢先生は何も言わず、真白の手から本を受け取った。貸出票を確認し、返却印を押す。スタンプ台の蓋が閉じる音が、静かな室内に響いた。
「これで大丈夫です」
「ありがとうございます」
真白は小さく頭を下げた。
俺たちは図書室を出た。
廊下は、授業中だから人が少なかった。窓から差す光が床に細長く伸び、靴底の音だけが前後に反響する。真白は俺の少し前を歩いている。追いつこうと思えば追いつける。けれど俺は、速度を上げなかった。
歩幅を合わせるのではなく、まず自分の歩幅を抑える。
それだけで、真白の背中との距離が少し安定した。
階段の手前で、真白が振り返った。
「今日は、ありがとうございました」
「こっちこそ」
「作業を手伝ってくれて」
「それは俺が頼まれたから」
「そうですね」
真白は一拍置いた。
「……さっきの話は、全部は答えられません」
「うん」
「髪を切った理由も、中学最後の日のことも、まだ話したくない部分があります」
「分かった」
「本当に?」
「本当に。聞きたいけど、聞かない」
「聞きたいのに?」
「聞きたい。でも、俺が聞きたいことと、真白が話せることは別だから」
名前を呼んだあと、俺は一瞬だけ身構えた。
真白は視線を落としたが、何も言わなかった。呼び方を訂正しない。そのことが、今は小さな許可のように感じられた。
「……では、失礼します」
「うん。また」
真白は階段を下りていった。
俺はその場に残り、図書室の扉を振り返った。さっきまで二人が立っていた書架のあいだには、もう誰の姿もない。棚の上の本はきれいに並び、机の上の貸出票も角が揃えられている。
並んでいたはずなのに、俺たちは背中合わせだった。
顔を見ないまま、呼吸だけを近くに感じていた。近いのに、相手の中へ入ることはできなかった。その遠さは、以前なら失敗の証拠に思えただろう。
けれど今は、遠さがあるからこそ、そこへ勝手に踏み込まずに済むのだと思えた。
窓際の席に、午後の光が最後に一筋だけ残っていた。机の表面を滑り、誰かが置き忘れた紙の端を白く染めている。
俺はその光を見ながら、真白の首元に赤いヘアゴムがないことを、もう一度だけ思い出した。
それは失われた証拠ではなかった。
彼女が、自分で外したものだった。
自分で外し、自分で髪を切り、自分で話し方を選び直した。その選択を、俺はこれまでずっと、俺の知らないところで起きた異変として見ていた。
知らないことは、奪われたことではない。
そう思うには、まだ胸の奥が痛かった。けれど、痛いままでも、そう考え続けることはできる。
図書室を出ると、廊下の窓から海風が入り込んできた。紙の端が揺れ、どこかの教室から椅子を引く音が聞こえる。俺は追いつこうとせず、少し遅れて階段を下りた。
真白の姿は、もう見えなかった。
その見えなさを埋めるために、俺は走らなかった。
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