第5話 見ているのは誰の席か

体育の授業が終わるころには、春の校舎にも汗の匂いが染みついていた。

体育館の扉が開くたび、熱のこもった空気が廊下へ流れ出す。制汗剤の甘い匂い、濡れたシャツが肌に張りつく感触、床に残ったワックスと細かな砂の匂い。窓は大きく開けられていて、海から上がってきた風が、汗ばんだ首筋を冷たく撫でていった。

授業の最後に、教師が次回の班分けを発表した。

「次は簡単なボール運動をする。今日は同じ列の者同士で四人組を作っておけ」

まだ互いの名前も覚えきれていない新入生たちは、教師の声が終わる前から、近くの相手へ身体を向けた。椅子のない体育館では、立っている位置そのものが席になる。床に引かれた白線、壁際に置かれたボール籠、窓から遠い場所と近い場所。誰の隣に立つかで、次の時間の居場所が決まっていく。

俺は反射的に、女子側の列を見た。

真白は、少し離れたところにいた。短い髪を耳へかけながら、同じ列の女子と話している。何を話しているのかは聞こえない。けれど、相手の言葉に一度だけ頷き、口元をわずかに緩めたのは見えた。

見えた、というより、見てしまった。

「佐伯、こっち」

黒瀬が手を上げていた。

そのそばには、男子が二人いる。片方は入学式のときに自己紹介で野球部に入りたいと言っていた生徒で、もう一人は名前を聞いたばかりなのに、すでに忘れてしまった。黒瀬は二人へ目を配りながら、床に転がってきたボールを足の裏で止めた。

「四人、そろった」

「俺、ここでいいのか」

「嫌なら、あっちの白石さんの班に混ざってくれば」

黒瀬は冗談めかして言った。

俺はすぐに否定しようとした。けれど否定する理由を考える前に、真白のほうを見ていた。彼女はまだこちらを見ていない。視線は隣の女子に向けられたままで、髪の先だけが頬の近くで揺れている。

「……ここでいい」

「そう」

黒瀬はそれ以上、何も言わなかった。

教師の指示で、四人組は体育館の中央へ散らされた。俺たちはバスケットボールのゴール下に近い場所へ移動する。床に引かれた白線が、斜めに足元を横切っていた。黒瀬はボールを一つ拾うと、指先で軽く回した。回転は長く続かなかったが、落ちる前に手のひらで受け止める動作が静かだった。

「まずは四人でパス。強く投げすぎるなよ」

教師が笛を吹いた。

ボールが行き交い始める。

最初はぎこちなかった。受け取る側が一歩下がり、投げる側がそのぶん強く投げる。強くなった球を受け取れず、床に弾ませる。弾んだボールを別の生徒が追いかけ、次のパスまでに時間が空く。

黒瀬は、失敗するたびに大きな声を出さなかった。

「今のは俺の位置が悪い」

「次、少し右」

「焦らなくていい。取りやすいところに投げるから」

言葉は短いのに、場を止めなかった。誰かのミスを指摘しながら、その人間だけを取り残さない。ボールを受け損ねた生徒が俯くと、黒瀬はすぐに視線を合わせるのではなく、次のパスを少し近くへ投げた。

俺はそのやり取りを見ながら、何度も真白のほうへ視線を向けていた。

体育館の反対側では、女子の班が同じようにボールを回している。真白は端に立っていた。ボールを受けると、胸の前でしっかり止めてから、相手の取りやすい位置へ返す。髪が短いせいで、以前なら動くたびに揺れていた後ろ姿の輪郭が、今はすぐに途切れる。

赤いヘアゴムはない。

その不在を確かめるように、俺の目は何度も彼女の首元へ戻った。

「佐伯」

黒瀬の声で、手元のボールを落としかけた。

「悪い」

「謝らなくていい。投げる前に、こっち見て」

「見てる」

「今、俺じゃなくて向こう見てた」

黒瀬の顎が、女子の班のほうを示す。

俺は反射的に「見てない」と言った。だが、否定の言葉が体育館の高い天井に跳ね返ったとき、自分でも苦しくなった。声だけが余計に大きく、言い訳だけが周囲へ広がった気がした。

黒瀬はボールを受け取り、両手で持ったまま俺を見る。

「おまえ、白石を見てるんじゃなくて、昔の席を見てるんだろ」

その言葉は、床の白線の上に置かれたみたいだった。

誰かの足が、その線を踏んで通り過ぎる。体育館の天井では、古い換気扇が低い音を立てて回っている。俺は黒瀬の顔を見返したが、反論のために開いた口からは、整った言葉が出てこなかった。

「昔の席って、何だよ」

「おまえがいた場所」

「俺がいた場所?」

「白石さんの隣。小学校からずっと、とか、中学でも毎日一緒だった、とか、そういう話をしてたろ。昨日の昼に」

「それは……本当のことだろ」

「本当かどうかじゃない。おまえが今見てるのが、白石さん本人なのか、その隣にいた自分なのかって話」

ボールを持つ黒瀬の指が、革の縫い目をなぞった。

「髪を切ったことも、敬語になったことも、好きな飲み物が変わったことも、おまえは全部、白石さんが変わった証拠として見てる。でも、たぶんそれだけじゃない。昔の白石さんを知っている自分まで、なくなるのが怖いんだろ」

「俺は、真白を助けたいだけだ」

「うん」

「何かあったなら聞きたいし、知らないままなのが嫌なんだ。あいつが一人で抱えてるなら、俺に言ってくれればいい。昔から一緒だったんだから、それくらいしてもいいだろ」

「それくらい、って言うときは、だいたい相手が望んでないことを含んでる」

「でも、俺たちは普通の友達じゃない」

「普通じゃないから、何をしてもいいのか?」

黒瀬の声は低かった。責めるために強くした声ではない。むしろ、俺が逃げないように、余計な飾りを外した声だった。

ボールの表面が手のひらに食い込む。汗で湿った指が滑り、黒い線の上に白い粉が付着した。

「そんなこと言ってない」

「言ってないけど、思ってる」

「決めつけるなよ」

「決めつけてるわけじゃない。俺にも似たようなことがあったから、分かるだけ」

黒瀬はそこで一度、女子の班から視線を外した。真白のほうを見ない。見ないまま、体育館の壁に貼られた避難経路図へ顔を向けた。

「中学のとき、俺が踏み込みすぎて、相手を怒らせたことがある。大事な話をしていると思って、相手の事情を聞き出そうとした。何があったのか、どうしてそうなったのか、俺なら分かるから話してくれ、って」

黒瀬は小さく息を吐いた。

「今思えば、分かりたかったのは相手のことじゃなくて、分からないままの自分が嫌だっただけだ。相手が話さない空白を、俺の不安で埋めたかった。俺が知れば、俺が助ければ、関係は元に戻ると思ってた」

「……その相手とは、どうなった」

「しばらく話さなくなった」

「今は?」

「知らない」

短い返事だった。

その短さに、俺は余計な質問を続けられなかった。黒瀬の表情には、後悔を語る人間の大げさな苦しさがなかった。忘れたわけでも、平気なわけでもなく、もう自分の中で何度も触れた傷を、必要なところだけ見せているようだった。

「それでも、待つほうがいいって思うのかよ」

「待つだけが正しいとは思ってない」

「じゃあ、何が正しいんだよ」

俺の声が、また少し大きくなった。

「急に別人みたいになった相手を見て、何もするなっていうのか? 何も聞かずに、知らないふりして、向こうが話したくなるまで待てって? そんなの、ただ見捨ててるのと同じだろ。俺は、真白を見捨てたくないんだよ」

遠くで笛が鳴った。別の班のボールが、床を何度も跳ねている。誰かの笑い声が上がり、教師が「走るな」と注意した。

その騒がしさの中で、俺の言葉だけが不自然に浮いていた。

黒瀬は俺の正面から半歩ずれた。真正面に立つと、俺が逃げ場をなくすと知っているようだった。ずれた位置から、静かに俺を見ている。

「見捨てるのと、待つのは違う」

「でも、何もしないだろ」

「何もしないんじゃない。相手が自分で立てる場所を残す」

「それが優しさだっていうのか?」

「少なくとも、相手の場所を奪ってまで近づくよりはましだろ」

胸の奥が、硬いもので押されたように痛んだ。

俺は真白に近づきたかった。名前を呼べば振り向いてほしかった。前みたいに笑ってほしかった。変わった理由を話して、俺だけは知っていると言いたかった。

それは全部、真白のためだと思っていた。

けれど、以前の位置に戻っていてくれれば、自分が安心できる。昔の呼び名で返事をしてくれれば、何も壊れていない気がする。俺の中に沈んでいるのは、心配よりも、もっと小さくて、もっとみっともない感情だった。

「俺は、真白のことを大事にしてる」

「うん」

「だから、変わった理由を知りたい」

「うん」

「知らないまま、別の人みたいにされるのが嫌なんだよ」

「うん」

「……俺だけが置いていかれたみたいで、嫌なんだ」

最後の言葉は、ほとんど独り言だった。

黒瀬はすぐに返事をしなかった。

その沈黙が、いつもの俺なら耐えられない種類のものではないことに、少し遅れて気づいた。黒瀬は言葉を探しているのではなく、俺が自分の言葉を聞き終えるのを待っている。何かを足して、都合のいい形に整えないように。

やがて、黒瀬が口を開いた。

「変わったのは、相手だけじゃないだろ」

俺は顔を上げた。

「……何が」

「入学式の日から、おまえの見方も変わってる。白石さんが髪を切ったから、敬語になったから、昔と違うから。おまえはずっと、その違いを数えてる」

「それは、変化に気づいたってことだろ」

「気づくことと、そこに意味を決めることは違う」

黒瀬は床に落ちた白い粉を見た。

「髪が短い。敬語を使う。甘いミルクティーを選ばない。昔の呼び名を嫌がる。おまえはそれを見て、何かが壊れたと思ってる。でも、白石さんにとっては、壊れたんじゃなくて、選んだだけかもしれない」

「選んだって、何を」

「それは本人にしか分からない」

「だから聞くんだろ」

「聞くこと自体が悪いとは言ってない。聞き方の問題だよ」

「聞き方?」

「おまえは、答えを聞きたいんじゃない。答えを聞いて、前の場所へ戻りたいんだ」

否定しようとした。

けれど、口の中に残ったのは、乾いた空気だけだった。

教師が班を回り、次は二人一組でパスをするよう指示した。黒瀬は俺にボールを差し出した。受け取ると、革の匂いと汗の塩気が混ざって鼻に入る。

「投げるぞ」

黒瀬が言った。

「どこに?」

「おまえが取りやすいところ」

「それじゃ練習にならないだろ」

「取りやすいところから始めたほうが、相手の位置が分かる」

ボールが飛んできた。

胸の前で受け止める。衝撃が腕に残った。俺が投げ返すと、黒瀬は一歩だけ後ろへ下がって受けた。すぐに返すのではなく、俺の立ち位置を見てから、わずかに右へ投げる。

俺は足を動かした。

ボールが掌の中心へ収まる。

もう一度、投げる。黒瀬が受ける。今度は、さっきより遠い。俺も一歩進んで受けた。

「何で下がるんだよ」

「おまえが詰めるから」

「取れるようにしてるだけだろ」

「そう。だから、少しずつ距離を変えてる」

黒瀬はボールを抱えた。

「近ければいいわけじゃない。近すぎると、相手は受ける前に身構える。遠すぎると、届かなくなる。距離は、相手がどこにいるか見て決める」

その言葉が、胸の中で真白の半歩と重なった。

購買前で彼女が置いた空白。俺が埋めようとすると、さらに離れた距離。あれは、嫌われた証拠ではなく、受け取れる場所を自分で決めていたのかもしれない。

「でも、距離を取られたら、こっちは何もできないだろ」

「できる」

「何が」

「自分が近づきすぎたって、気づく」

黒瀬はボールを俺へ投げた。

「それだけでも、次は変わる」

受け損ねた。

ボールが床に落ち、白線の上を転がっていく。俺は追いかけて、体育館の壁際まで走った。転がったボールは、女子の班が使っているコートの端で止まった。

真白の足元だった。

彼女はボールを拾い、こちらへ歩いてきた。短い髪が、走ったあとの風に揺れている。首筋に汗が一筋流れ、制服の襟に吸い込まれていく。赤いヘアゴムの代わりに、手首には細い黒い髪留めが巻かれていた。

真白は俺の前で立ち止まった。

「落としました」

「……ありがとう」

手を伸ばす。

真白もボールを差し出す。

指先が触れそうになって、俺は先に手を止めた。真白がボールを持ったまま、ほんの少しだけこちらを見る。俺は一歩近づくのではなく、腕を伸ばして受け取った。

革の表面が掌に触れる。

「ごめん」

「何がですか」

「さっき、見てた」

真白の目がわずかに揺れた。

「見ていたことを謝っているんですか」

「いや……たぶん、見方が変だった」

自分でも曖昧な言い方だと思った。真白は答えを急かさず、ボールから俺の顔へ視線を移した。体育館の喧騒の中で、彼女の声だけが少し遠く聞こえる。

「そうですか」

「うん。まだ、よく分かってないけど」

「分からないなら、言わなくてもいいと思います」

「それ、真白も言ってた」

「そうでしたか」

「でも、今は言いたかった」

真白は返事をしなかった。

その沈黙の中で、俺はまた余計なことを言いそうになった。髪を切った理由を聞くこともできた。中学最後の日に何があったのか、問いかけることもできた。けれど、黒瀬の言葉が、まだ手の中のボールのように残っていた。

答えを聞いて、前へ戻るためではなく。

「……練習、戻る」

俺がそう言うと、真白は少しだけ頷いた。

「はい」

以前なら、その返事を聞いただけで、また距離を感じていたと思う。けれど今は、少なくとも彼女がここに立ち、自分でボールを渡してくれたことを見ようとした。

真白が自分の班へ戻っていく。

俺は追わなかった。

黒瀬が少し離れた場所から、こちらを見ていた。目が合うと、軽く肩を上げる。

「今のは、待てたな」

「評価するなよ」

「評価じゃない。観察」

「同じだろ」

「違う。評価なら点数をつける」

「つけてるだろ、心の中で」

黒瀬は笑った。けれど、それ以上は何も言わなかった。

練習が終わり、他の生徒たちが体育館の床へ座り込んでいく。俺も壁際に腰を下ろした。汗で冷えた腕を抱えると、窓から入る風が肘の内側を撫でた。明るすぎる春の光が、校庭の白線を薄く滲ませている。

白線は、まっすぐに引かれているようで、見る角度によって少しずつ歪んでいた。

俺は、真白との距離も同じなのだと思った。

ずっと隣にいたから、境界線などないと思っていた。何を聞いても、どこへ入っても、彼女はそこにいるものだと決めていた。けれど実際には、見えない線がずっとあった。俺が気づかなかっただけで、真白は何度も半歩ずつ位置を変え、その線を守っていた。

俺はそのたびに、近づけばいいと思った。

近づくことが、つなぐことだと信じていた。

けれど、俺が見ていたのは真白ではなく、真白の隣に立っていた頃の自分だったのかもしれない。赤いヘアゴムを結んだ彼女を覚えている自分。甘いミルクティーを選ぶ彼女を知っている自分。名前を呼べば、すぐに返事をもらえる自分。

その席が空くのが怖くて、俺は彼女の変化を、勝手に埋めようとしていた。

「佐伯」

黒瀬が、隣ではなく少し離れた場所から呼んだ。

「何」

「次、着替え。遅れるぞ」

「分かってる」

「あと」

「まだあるのかよ」

黒瀬は立ち上がり、床に置いていたタオルを肩へ掛けた。

「白石さんを見ていいと思う」

俺は顔を上げた。

「ただ、見たものを昔の名前で呼ばないほうがいい」

それだけ言って、黒瀬は先に更衣スペースへ向かった。

俺は立ち上がる前に、もう一度だけ女子の班がいた方向を見た。

真白の姿は、もうなかった。

それでも今度は、赤いヘアゴムの不在を探さなかった。短い髪の揺れや、黒い髪留めの細さを、昔の記憶と比べることもしなかった。見えたものを見えたままにしておくのは、思っていたより難しい。

けれど、難しいからといって、以前の席へ戻っていい理由にはならない。

俺は体育館の床に残った白い線をまたいだ。急ぐと、足が線の上へ戻りそうになる。だから一度だけ歩幅を落とし、黒瀬の背中とのあいだに、半歩ぶんの距離を残した。

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