第4話 紙の裏に残る字

図書室の窓際席には、三日月灯籠祭の準備プリントが、束になって積まれていた。
表紙の一枚目には、境内の見取り図と灯籠の配置が刷られている。薄墨色のインクが、まだ乾ききっていないような匂いを立てていた。紙の束に午後の光が斜めに差し込み、積まれた端のほうがわずかに反って、影を作っている。
俺はその一番上の一枚を手に取った。
文化委員会からの案内だという。案内係、当日の時程、配布物の受け取り場所。裏面には連絡事項の欄が並んでいて、そのほとんどがまだ空欄だった。名前を書く欄、担当を書く欄、押印の欄。ありふれた書式のはずなのに、俺の手はそこで止まった。
借りた本の返却期限を確認するために開いていたノートの端に、ずっと昔からの癖で、俺は名前を書き殴ることがある。授業中の余白に、友達の名前を落書きのように書く。家族の名前を書く。意味もなく、誰かの名前を手が覚えているままに綴ってしまう瞬間がある。
今もそうだった。
案内係の欄に、俺は自分の名前を書いた。その隣、ペアになる欄に、何も考えずにペン先を滑らせた。
――しろちゃんへ。
気づいたときには、もう書き終わっていた。
中学の頃、俺は真白のことをそう呼んでいた。教室でも、電話でも、二人のときはいつも。高校に上がってからは、誰もそんなふうには呼ばない。黒瀬でさえ「白石さん」で済ませている。俺だけが、いまだに「真白」という呼び方にしがみついて、それすら相手には重すぎるのかもしれないのに、もっと古い、もっと柔らかい呼び方を、紙の上にまで漏らしてしまっていた。
消しゴムを探して鞄を漁る前に、本の返却棚のほうから足音が近づいてきた。
真白だった。
借りていた本を数冊、胸に抱えている。窓際の光を背にしているせいで、短い髪の輪郭だけが白くふちどられて見えた。彼女は俺の手元のプリントに気づくと、自然な動作で手を伸ばした。委員の仕事を手伝うために、配布物を受け取るつもりだったのだろう。
紙が、彼女の指に渡った瞬間だった。
指が、止まった。
ほんの一拍。本当に、それだけの長さだった。けれど俺には、机の上に置いたコップの底が、音も立てずに沈んでいくのを見ているような重さに感じられた。
真白は紙を見下ろしたまま、顔を上げなかった。
「……必要事項だけ、書いてください」
声はいつも通り静かだった。怒っているわけでも、問い詰めているわけでもない。ただ、必要なことだけを、必要な分量で言う。真白がいつもそうしているように。だからこそ、その言葉の裏にある拒まれた感触だけが、俺の胸の底にまっすぐ落ちてきた。
「違う、そういうつもりじゃ」
言いかけた言葉は、途中でほどけた。
何が違うのか、自分でも分からなかった。昔の呼び方で呼んだことが悪いのか、それとも、昔の呼び方のほうが楽だと無意識に思っていたことが悪いのか。言葉にする前に、どちらも同じ場所から出てきたものだと気づいてしまって、続きが出なくなる。
「……ごめん」

結局、それだけが喉から落ちた。
真白は何も言わず、プリントの余白――俺が書いた名前の横に、新しい欄を小さく書き足した。「白石」。たった二文字。それだけのことが、俺の書いた四文字をそっと覆い隠すように見えた。訂正するでもなく、咎めるでもなく、ただ必要な形に整えるだけの動作だった。
書架の向こうから、藤沢詩織が戻ってきた。
抱えていた本を数冊、返却台に置く。藤沢はこちらの空気を見てから、何も聞かずに、返却票の束を手に取った。たぶん、俺たちのやり取りの最初から最後まで、彼女には見えていたはずだ。耳にも入っていたはずだ。けれど藤沢は、それを指摘しなかった。
「白石さん、こっちの棚、お願いできる? 佐伯くんは、こっちの箱を」
静かな声で、仕事だけを振り分けていく。言葉で片づけるより先に、手を動かす時間を作る。そういう人なのだと、俺はこの図書室に通ってようやく分かり始めていた。藤沢は沈黙を気まずさとして扱わない。むしろ、まだ言葉になっていない時間として、そのまま置いておける人だった。
俺は渡された箱を受け取り、返却済みの本を棚へ戻し始めた。指先に伝わる紙の硬さと、古い本特有の、少し埃っぽい匂い。作業に集中しようとしても、視界の端にはどうしても真白の背中が入ってくる。
本を棚に差す手つきは、いつも通り丁寧だった。けれど今日は、その丁寧さの中に、何かを急いで終わらせたいような硬さが混じっているように見えた。気のせいかもしれない。確かめる術はなかった。
作業が終わる頃には、窓の外の光が少し色を変えていた。真白は鞄を持ち直すと、いつもより早い足取りで出入り口へ向かった。
追いかければ、追いつける距離だった。
俺は足を出せなかった。
廊下に出た真白の後ろ姿を、開いたままのドアの隙間から見送る。蛍光灯の白い光が反射して、短く切られた髪の輪郭だけが、やけにくっきりと浮かび上がって見えた。切られた首筋。耳の下に落ちる影。
――そこに、赤いヘアゴムはない。
分かりきったことなのに、俺はまたその不在を目で辿ってしまう。中学の頃なら、あの位置には必ず赤い輪っかがあった。歩くたびに揺れて、時々ほどけて、真白が立ち止まって結び直す。その仕草を何度も見てきた。見てきたことを、俺はいつのまにか、彼女の一部として当たり前に組み込んでいた。
なくなったものを、俺はずっと目で探していた。
けれど今、棚に本を戻しながら考えていたのは、少し違うことだった。
俺が失ったと思っているものは、本当に真白が持っていたものなのか。赤いゴムも、甘い紅茶より先にあった甘いミルクティーの味も、名前を呼べばすぐに返ってきた声も――それは真白の持ち物だったはずなのに、いつからか、俺のほうが勝手に借りて、自分のものみたいに握りしめていたのではないか。
プリントの余白に書いた「しろちゃん」という四文字を思い出す。
あれは、真白を呼ぶための言葉ではなかったのかもしれない。俺が、まだ彼女の隣にいられた頃の自分を呼び戻すための言葉だった。
藤沢が、空になった返却台を静かに拭いていた。布巾の動きは、ゆっくりとして、急かすところが何もない。俺がその場に立ち尽くしているのに気づいても、藤沢は顔を上げなかった。ただ、拭き終えた台の上に、新しいプリントの束をもう一度、角を揃えて置き直した。
何かを教えるでもなく、何かを慰めるでもない。
ただ、紙の角が揃っているということ。それだけが、今日の図書室に残った、唯一はっきりとした形だった。
俺は棚の隙間から差し込む光の筋を見ながら、自分の掌にまだ残っているインクの匂いを嗅いだ。消せなかった四文字の跡が、紙の上だけでなく、どこか自分の中にも薄く残っている気がした。
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